2-01 口無しのサナギとトリコは忘れない
ある冬の日。
小学校から戻ると、家で見知らぬ少年がくつろいでいた。
極端に痩せた腕。
目の下の皮膚に墨を注入したかのようなひどい隈。
驚く乃明に両親は、この見るからに訳ありげな中学生、晴矢を息子として迎え入れたと宣言する。
初めは訝しんでいた乃明も、人懐こく柔和な晴矢に次第に心を開いていくが……。
「助けて。部屋の扉が開かない」
必死にノックし乃明が訴えた時、彼の部屋にはすでにトイレも冷蔵庫もレンジも準備されていた。
この半年の間に、うちはどうしてこんなにも変わってしまった?
晴矢が現れて以降、毎日わずかずつ乃明の家は、家族はあらぬ方向に歪められてきていた。
——なんとかして外へ連れ出してくれ。俺は監禁されている——
学校に来なくなったことを心配しメッセージをくれたクラスメイトの結理に、乃明は助けを求めた。
でも、それは大きな間違いだった。
一分の無駄もない軌道を辿って、バトンを手にあいつがカーブに入ってくる。
俺は祈りを込めるようにアンカービブスの裾を握り、たったいま着火された花火のように勢いよくスタートを切った。
数秒後に来るだろう、バトンが突き出されるざらついた感触を手のひらにイメージしながら、ただ前だけを見て。
歓声が背中を後押しして、もうすぐ触れると感じた。
感じたのに。
……来ない。
このままじゃ、テイクオーバーゾーンを越えてしまう。
俺は失速し、立ち止まった。
ひとり、ふたり、さんにん。
走者が傍を駆け抜け、風が汗ばんだ腕を冷たくする。
「結理ちゃん!」
保護者席に張られたロープから母親らしき女の人が身を乗り出し、娘の名を叫んだ。
危ないっと、近くにいる人たちが女の人の服を掴む。
振り返るとトップでカーブに入ってきたはずのあいつは、結理は、すべてのコースを塞ぐように身体を横たえていた。
不自然に反らされた白い喉が、太陽にさらされて光っている。
おかしい。
いつまで経っても起き上がる気配がない。
すぐにアンカーがゴールテープを切りに戻ってくるのに。
「結理、起きろ。危ないぞ……結理!」
叫び、逆走する俺を、どこからか伸びてきた無数の腕が取り押さえた。
振り払っても、振り払っても、次々に現れて、ものすごい力で動かぬよう押さえつけられる。
顔を上げろよ、結理。
自分の声が遠い。
周囲の音も消える。
聞こえない。
乱れた髪も、白く浮かび上がっていた喉も見えなくなる。
——視界が暗転する。
視界にぽうっと結理の姿が浮かんだ。
「今年もアンカーは乃明だね。いいよねー、男子は」
これはいつ?
そうだ。
運動会の学年合同練習で、リレーの選手に決まったメンバーは昼休みに運動場に集まるように通知があった、あのとき。
全学年が参加する男女混合クラス対抗リレーに、六年三組からは俺と結理が選出された。
拗ねたことを言いながら昇降口へ向かう結理の背中をバシッと叩く。
「は? せっかく選手になれたのに、なんでそんなやな感じなんだよ。女子のトップなんだろ?」
変な間のあと結理は長いまつ毛を伏せて、はあっと深いため息をついた。
肩まで伸びた艶やかな髪が膨れた頬を隠す。
「だって、低学年の頃は乃明よりあたしの方が早かったんだよ? でも、もう多分……いや絶対、これから一生敵わない。そんなの、悔しいじゃん」
当たり前だろ、お前は女だもん……と口にしようとしてやめた。
今、結理と俺の身長は変わらない。
でも俺は、これからまだまだ伸びるだろう。
この春ついに母親の背を抜かしてしまったという結理は、この頃少し体つきがふっくらしてきて、だから彼女のいう通り差は開く一方になるはずだ。
男だとか女だとか、自分たちには関係ない。
何も違わないと思ってきたのに。
運動靴を脱いで、あっけらかんとした高い空を仰ぐ。
悔しい。
そりゃそうだよな。
努力とは何の関係もないところで限界を理解させられるなんて、腹が立つよな。
俺はあえて強気に言い放った。
「なに言ってんだ。俺とお前が揃ってて、リレーは断然青組有利だぜ。戦意喪失辛すぎって他チームから悲鳴が上がったの、聞いてたろ。勝とうぜ。俺たちで」
その時、あいつどんな顔してた? ——
ピィーッ。
先生が長めに笛を吹いて両手を広げ、アンカーに止まるよう合図を送った。
その間に、動かない結理の身体はどんどん白くなっていく。
まるで黒板にチョークを擦り付けたみたいに、塗りつぶされて色を失っていく。
細い糸のようなものにくるまれて……。
いや、ちがう。
こんなことは、なかった。
あの日、俺たちはトップでゴールして、チームの歓声を浴びたんじゃないか。
結理は六年連続選出かつ負け知らずで、チームの女神だってクラスの女子にもみくちゃにされた。
結果、青組の逆転総合優勝が決まり、普段クールな担任まで喝采したんだ。
だから……これは、夢だ。
もう、起きなくちゃ。
**
ねばる額を重たく感じながら、力づくで頭を上げた。
蜘蛛の巣のような白い糸が、ひらひらと宙を舞う。
俺の短いまつ毛の端に張り付いて浮遊するのを、夢を見ているかのようにぼうっと眺める。
まるで巨大なスティックのりから這い出してきたみたいに、身体の前半分がベタベタしている。
カーテンを透かして入る西日でオレンジになった自室を、眼球だけでぐるりと見回す。
これが現実。
何度夢に逃げ出しても、戻ってくる場所は同じだ。
膝の上に感じる重みがその粘り気の発生源。
新沢結理。
いくつも重ねられた白い糸の内側に、伏せられた長いまつ毛がうっすら映る。
微かに見える白桃のような頬の赤みが、膝に感じるほのかな温もりが、結理が生きていることを伝える。
たとえ何の反応も返してくれなくても。
俺は結理を胸に抱え込み、目を閉じて……を何度も繰り返していた。
だけど粘り気のある糸は結理だけを包み込み、俺を巻き込もうとはしない。
気持ち悪くまとわりつくベタベタも、俺が結理に触れているからくっついてくるだけで、しばらくすると乾いて飛んでいく。
いく層にも重ねられた糸は、俺から彼女を遠ざけようとしているのかもしれなかった。
二度と触れられないように。
「……くそっ」
結理を包む憎らしい糸を束にして掴み、強引に引き剥がした。
ぶちぶち音を立てて引き千切れ、空中をふわりと舞う。
芸もなく繰り返した、もう何度目かの抵抗。
「くそっ。くそ、くそ、くそ、くそ……くそっ!」
毟り続けた先に、あたたかな手触りがあった。
結理の身体に突き当たったのだ。
柔らかな二の腕をそっと掴むと、それはあっさり肩から捥げた。
ちぎれた肩の内側から、血ではなく、細かなホコリのようなものがほうっと吐き出される。
中にぎっしりと詰まっているのは無数の糸……。
ぞわぞわと喉を競り上がってくる叫び声を飲み込んで、わざとに長い息を吐いた。
できるだけ静かな声を出す。
「……ごめん。痛かったよな」
驚いたりなんかしたら、悲しむかもしれないと思ったんだ。
好きで、こんな身体になったわけじゃないだろうから。
そうか。
結理は、どこからか伸びてきた蜘蛛の糸に包まれたんじゃない。
糸が結理の内側から湧き出していたんだ。
いつか森で見た、朽木に巣食うキノコ類みたいに。
この糸の一つ一つが結理からできたものだったのかもしれないと思うと、おかしいかもしれないけど妙に納得がいった。
「どうして、俺じゃなくて結理なんだ」
あの日、悔しいと漏らした結理の膨れた頬を思い浮かべる。
今は眉ひとつ動かない。
変わらず赤い唇からも、文句一つ出てこない。
もう何も感じていないのだろうか。
骨を感じない柔らかすぎる腕を、元の位置にそうっと戻す。
中身がどれほど変わってしまったとしても、人間らしい形でいてほしかった。
声も聞けなくなって初めて、結理の仕草や、声や、負けん気が透ける目つきや、滲んだ涙なんかをどんなに大切に思っていたか、思い知った。
好きだったんだ。
あまりにも、今更だが。
「ほんとかわいそうだよね。そもそもこの子は何の関係もなかったのに」
場違いに明るい声に顔をあげた。
目元の涼しげな男が高校の校章の刺繍がされたネクタイを緩めながら、扉の向こうからこちらをのぞいている。
結理が白い繭に包まれる中、助けを求めた俺がどんなに足掻いても開けることができなかった扉の。
俺は無言で男を睨みつけた。
この男は家族じゃない。
半年前に突然現れて、じわじわとうちを占拠した悪党だ。
苗字は知らない。名前は晴矢。これも本名かどうだか怪しいものだ。
どんな手を使ったのか両親を懐柔して、うちの苗字を名乗るようになった。
風間晴矢。
こいつがきてから、みんなおかしくなったんだ。
晴矢は視線を逸らして部屋中に散らばった白い糸をかき集め、学習机の下へ押し込んだ。
ベッドの端に腰掛けると、ふうっと息をかけて指についた糸を吹き飛ばす。
「あーあ。ひどいことして。これ、けっこうエネルギーがいるんだぜ? 手間をかけさせるなよ。かわいそうだろ」
誰のエネルギーなのか、と考えてハッとする。
結理を絡め取っているのは外の何者かじゃないんだ。
この糸は結理の身体から生まれた。
机の下に山積みになった糸を見て、胸を痛める。
飲まれるな。
罪悪感を抱かせるのが晴矢の作戦なのだ。
「……お前の仕業なのか」
ひどいのは俺じゃない。
結理をこんな身体にしたのは俺じゃない。
じっと晴矢を睨め付ける。
晴矢はあからさまに大きなため息をついた。
「ひどいなあ、お前だなんて。前はお兄ちゃんって呼んでくれてたのに。乃明だったら、晴矢くん呼びだって許可してもいいんだよ?」
「誤魔化すなよ!」
怒りで胸の内側が熱くなる。
激情を前にしても動じることなく、晴矢は涼やかな笑みを浮かべた。
「それに、なんでも人のせいにするのは良くないぞ。彼女を呼んだのは乃明じゃないか」