2-16 酒呑童子の蔓延る夜
一介の貧乏大学生・設楽は、アパートの大家・伊良部に呼び出される。そこで持ちかけられたのは、謎に包まれた人物『酒呑童子』について調べるという奇妙なアルバイトだった。
設楽は因縁の相手にしてアパートの新住人・水瀬とともに調査に乗り出す。そんな中市内で殺人事件が発生し、さらには伊良部が行方をくらまして——?
伊良部が姿を消した理由とは。はたして酒呑童子とは何者なのか。
「覚えておくといい。人は誰しも夜の顔を持つということを」
信ずるべきは、表か、裏か、それとも人の信条か。
欺瞞に満ちた夜の街を駆け抜けろ。
暗闇に息を潜めじっとしていると、盆地特有の湿った空気が肌にねっとりとまとわりつく。
所詮アルバイト。時給分の働きをすればいい。
気落ちした水瀬に対し、設楽がそう言っていたのは彼なりの優しさからだろう。
だが、この秘密だけは知られてはならない。だからこの秘密は私が墓場まで持って行く。
水瀬は唾を飲みこむと、暗い部屋の中をのぞきこんだ。人の気配がないことにほっと息を吐き出し、軍手をはめた手で窓を横に引っ張ってみる。予想通り、難なく窓は動いた。以前来たときに鍵を開けておいたからだ。この部屋の住人はエアコンなしでは耐えられないと言っていたが、窓を開閉することすらしないらしい。
ここへ来るまで誰に見とがめられることもなく、侵入することもできた。あまりにも上手くいきすぎている。あとはアレを回収するだけだ。
窓枠に手をかけ、部屋の中に身をすべりこませる。床に敷かれた絨毯は着地音を吸収し、闖入者をも歓迎した。暗闇に慣れた目と記憶を頼りに手探りで進み、あちこちに体をぶつけながら机にたどり着く。
アレさえ手に入れることができれば、この秘密は守られる。
そう思いながらセンター引き出しを開いた——が、そこには何も入ってはいなかった。
体中の血液が一気に下がっていく。サウナのように蒸し暑い部屋の中で、水瀬は一人冷や汗をかいていた。
そんなはずはない。何かの間違いに違いない。
机の両側に備えつけられたキャビネットの引き出しを、狂ったように開けては閉める。期待もむなしく、そこには雑多なファイルが詰め込まれているだけだった。
他の場所も念のため探してみるか。いや、見つかってはまずい。今日は引き上げよう。いや、こんな機会はもうないかもしれない。
一人で悩んでいたところ、突如として空気が震える。文字通り飛び上がり、水瀬は破裂しそうな心臓と口を抑えながら机の陰に身をひそめる。
聞こえるのは自分が唾を飲み込んだ音なのか、心臓の音か、はたまた鳴り止まない携帯電話のバイブ音か。
おそるおそる机の陰から顔を出すと——目が合った。この部屋の持ち主と。いや、持ち主だった者と。
仰向けに倒れた彼がすでに絶命していることは、火を見るよりも明らかだった。
声を出さなかったことは奇跡に近い。逃げるように外を走り自室に帰り着くと、ドアの前で力が抜けた。震える膝を両腕で抱き、強く目をつむる。それでも暗がりの中で見た死体の姿は、明瞭に浮かんだ。
なぜ、彼があそこに。なぜ、彼は死んでいたのか。そして、アレは今どこに。
市内某所の某アパートにて。夜は静かに更けていく。
***
歩道の信号が青になるのを待ちながら古びた自転車のハンドルを指で叩く。脇の街路樹からは蝉の鳴き声が降り注ぎ、長袖のシャツは汗で体に貼りついている。ようやく変わった信号を見て、設楽は力強くペダルを踏みこんだ。
大学の前期試験が全て終わり、2ヶ月もの長い夏休みが始まろうとしており、設楽は複数掛け持ちしているアルバイトに精を出す予定だった。テストが終わり、スマートフォンの電源を入れるまでは。
おびただしいほどの着信履歴は、全てアパートの大家・伊良部によるものだった。大家といっても、同じ大学の博士課程に所属する学生なので年はそう離れていない。
呼び出しに応じるのは端的に言って億劫だが、設楽は家賃を滞納しがちの身。逆らえるはずもなく、あれこれと手伝いを言いつけられるのはいつものことだ。
駐輪場に自転車を置き、見慣れたアパートの中を突き進む。伊良部はアパートの1階最奥、105号室に住んでいる。呼び鈴を鳴らすと扉が開き、ひょろりとした大家が胡散臭い顔をのぞかせた。
伊良部の部屋は物が少ない。部屋の中央に背の低いテーブル、隅に寝袋が置かれているのみで、生活感がほとんどない。
設楽は遠慮なく伊良部の部屋へ入ると、机の前であぐらをかいた。
「それで、今回は何をしろと」
伊良部は冷茶入りのグラスを机に置く。
「酒吞童子について調べてほしい」
「ネス湖のネッシーとかじゃないんですね」
「安心してくれ。酒呑童子はちゃんと存在する」
伊良部は本気なのか冗談なのかわからない顔で教えてくれた。
いわく、酒吞童子とは市内の裏社会に君臨する人物だという。政界や財界に多数の繋がりと大きな影響力を有するも、本人は一切表に顔を出さないため素性が謎に包まれているらしい。
「それ、本人にたどり着いたら消されるタイプじゃないですか」
「そうかもね。もう1人来るから骨は拾ってもらえるよ」
「珍しいですね、助っ人を呼んでくれるなんて。いつも俺一人をこき使うくせに」
毒づきながら茶を飲むと、伊良部はいけしゃあしゃあと首をすくめる。
「心外だなあ。せっかく最高の夏休みを演出しようとしてるのに。どうせバイトばっかりだろう? 金欠だろうしね」
「今月の家賃は払えますよ」
「最近はテスト期間であまりシフトに入れなかった。このクソ暑い日にシャツを着ているのはバイトのためだろう? 今日は塾講かな。頑張ってね」
伊良部の指摘は全て的を射たものだ。意地の悪いにこやかな笑みを浮かべた大家に舌打ちをすると、伊良部は笑顔を貼りつけたまま黙って白い封筒を突き出した。
「なんですか、これ」
「もちろん、タダ働きしろとは言わないよ。貴重な夏休みを削ってやってもらうんだ。バイト代も弾もう」
伊良部は設楽を一瞥し、唇の端を持ち上げた。金の話を持ち出されると設楽に抵抗するすべはない。これはいわば、脅迫と同じだ。
煽るような言い方に苛立ちを覚えつつ、設楽は封筒を受け取った。
「今朝、それがうちのポストに入れられていてね」
封筒には表裏ともに何も書かれていなかった。すでに伊良部が封を切ったと見える。こう見えて意外と几帳面なこの男は、封筒の端をはさみできれいに切断したらしい。
中に入っていたのは1枚のA4紙だ。無地の普通紙には短い文が印刷されていた。
「『伊良部邦久、おまえのしたことは知っている。酒呑童子』……なんですか、これ」
「設楽君はどう思う」
埒が明かない。設楽は伊良部に聞こえるようにため息をつく。
「まず大前提として、これは冗談ではないと思います」
「その心は」
「封筒には何も書かれていませんでした。つまり、この封筒を入れた人物はこのアパートまで来たことになる。かつ105号室に伊良部さんが住んでいることを知っていて、狙い撃ちにした。ただの冗談にしては労力が見合わない」
「いや、顔見知りなら十分あり得ると思わないかい」
腕組みをした伊良部は面白がるように眉を持ち上げる。対する設楽の顔は渋い。
「問題はそこです。顔見知りの冗談であれば、もっと具体的な文面になるはずです」
「例えば?」
「ピ逃げ、代筆、カンニングとかですかね。知りませんけど」
「盗用、剽窃、データ改ざん、パワハラセクハラは定番。この間はコロナのクラスターを揉み消したとか」
「マジすか」
「うちの大学ならあり得る」
大学歴の長い伊良部の言葉に戦慄しながらも、設楽は頭を巡らせた。
文面が抽象的かつ脅し方が中途半端な理由はいくつか考えられる。
この文面だけで伊良部に伝わるという確信がある場合。伊良部が「何かをした」ことだけは知っているものの、「何を」したかは知らない場合。
「もし俺が同じことをするなら、もっと圧力をかけます。証拠を集めて絶対的優位に立って条件を吞ませますよ」
「前から思ってたけど、設楽君、ヤのつく職業適性あるよ。そういう粘着質なところ」
そんな適性、こっちから願い下げである。
いずれにせよ、この手紙の差出人——酒呑童子は伊良部に揺さぶりをかけている。何も要求してこない以上、相手の目的が不明なところが不気味だが。
「それで、伊良部さんは何をやったんですか」
設楽の言葉に伊良部は窓の外へ目をやった。
「それがねえ、身に覚えがないんだよね。悪戯だと思うんだけど、なかなかに大物の名前が出たからこっちも探りを入れてみようと思ってね」
十中八九、嘘だろう。設楽は一気に茶を飲みほす。
伊良部にはそれらしい理由をでっち上げたものの、設楽がこの手紙を冗談とみなさなかった理由は別にある。「伊良部が設楽を動かそうとした」という事実だ。
伊良部は飄々としているように見えるが、その実非常に合理的な男である。設楽に食事を奢った次の日には面倒なことを押しつけてくるし、利のないことはやらない人物だ。裏を返せば伊良部の行動には意味がある。
本当に身に覚えがないのであれば、無視すればいい。だが伊良部はそうしなかった。
設楽が再度口を開こうとしたところ、呼び鈴が鳴った。
伊良部は顔に笑みを貼りつけたまま頷いている。お前が出ろ、ということらしい。
渋々立ち上がった設楽は扉を開く。そこに立っていた人物を見て、設楽は色を失った。
「紹介しよう。新しい住人の水瀬さんだ。彼女にも手伝ってもらうようお願いしてある。仲良くやってくれ」
伊良部は背後から楽しげな声で歌うように告げた。
設楽の眼前に立っていたのは黒い髪を低い位置で一つにくくった女子学生だ。そして、設楽の因縁の相手でもある。
「知り合いがスナックを経営していてね。あそこのママは情報通だからいろんな話をたくさん知っている。僕から話はつけておくよ」