2-15 小学四年の少年少女、二人で一か月一万円生活
小学四年の夏休み。
団地住まいの智樹の父が、お隣の沙菜の母と再婚した。
シングルファザーとシングルマザーの新婚旅行は一か月。
ちゃらんぽらんな夫婦が子供たちに残した食費は、一人につきわずかに五千円。
様々な事情からよその人間を頼れない二人は、合わせて一万円で一か月を過ごすことになる。
業務マートでの買い物、慣れない料理、お誕生会、子供同士の色んなお付き合い。
誰にも言えない秘密の共同生活の中、最初はいがみ合っていた二人の心は徐々に近づき、そして――
「ふわ……眠ぅ……」
夏休みの初日はゲームをして過ごした。
最初の一週間で大作RPG『ゾルダの伝説』を終わらせようと張り切った結果寝不足で、朝九時だというのにまだ眠い。
「眠ぅい……」
洗面所の鏡を見ると、やせっぽちの小四男子が映った。
髪はボサボサ、顔色が青白く、メガネの奥の目がちょっと充血してる。
「おはよ、お父さ~ん」
洗面して居間に入ったけど、お父さんの姿がない。
エアコンは動いてるけど、窓際のいつもの椅子に座ってない。
トイレにも入ってないし、お風呂にもいない、ついでに靴も残ってない。
職場を一か月休んで『大人の夏休み』を取るんだとか息巻いてたはずだけど、どこに出かけたのかな?
この時間だとお父さんの好きなスナックも開いてないと思うんだけど……。
「ん? なんだこれ?」
書き置きだろうか、食卓の上に一枚の紙が置かれていた。
「えっと……」
――智樹よ。偉大な父の俺様は、夏休みを利用してお隣の静子さんと新婚旅行に出かけてくる。帰りはひと月後になると思うが、これでがんばれ☆
ウインクつきの自画像(?)の描かれた書き置きの下には茶封筒があり、中には五千円札が一枚入っていた。
食卓の上には他に何もなく、物陰からお父さんが現れるなどというサプライズもなかった。
「……本気で言ってる?」
僕は激しく混乱した。
本当にお隣の静子さんと再婚したの?
顔はいいけど他は全部ダメなお父さんを選ぶとか、静子さんもおめでたすぎない?
いやでも、静子さんはそういうとこあるかも。
良く言えば純真、悪く言えばちょっと優しい言葉をかけられたらコロっといっちゃうチョロさがあるかも。
ってそうじゃない、問題はそこじゃなくっ。
「ひと月五千円で暮らせとか無理でしょっ?」
僕は慌てて家の備蓄を調べた。
台所の棚、冷蔵庫、床下収納も全部開けたけどろくなものがない。
「そうだ、今日が買い出し日だったんだ。お父さんと一緒にまとめて買いに行くつもりだったのに……っ」
お米も無い、パスタも無い、野菜も肉も魚も無い。
買い置きのカップ麺も食い尽くしてて、あるのは油や各種調味料のみ。
「僕、死んだ?」
真っ青になって立ち尽くしていると、玄関のドアが物凄い勢いで開いた。
お父さんが帰って来たのかなと思って覗いてみたけど違った。
色素の薄い髪の毛を黄色いリボンでまとめ、フリフリの花柄のワンピースを着こなしたアイドルみたいな美少女――沙菜ちゃんだ。
沙菜ちゃんは静子さんの娘で、僕とは同い年でクラスも同じ。
だけど仲が良かったりはしない。だって、カーストが違うんだもの。
学校でも喋らないし、町中で会っても無視するレベル。
でも、今日はさすがにそんなこと言ってられず――
「沙菜ちゃん、そっちはどうだった!?」
「メガネ! メガネちょっとどうなってんのよ!? うちのママ、あんたんとこのパパと出てっちゃったんだけど!?」
学校やご近所で日々可愛さを振りまき、『この世の平和に貢献している』沙菜ちゃんだけど、僕と二人の時には素が出る。
「やっぱりそっちも!? うちもこれで……」
「ちょっと見せて!」
僕の手から書き置きをひったくると、沙菜ちゃんは食い入るように見入った。
上から下まで何度も。そして――
手の平を上に向けると、「ん」と僕に差し出して来た。
「え、何? 手相?」
「んなわけないでしょ。メガネの分のお金、出して言ってんのっ」
「やだよ、なんで」
何を言い出すんだと驚く僕に、沙菜ちゃんはわっとばかりにまくし立ててきた。
「だってあたし、五千円じゃ生きていけないもの。えいよーかも偏るし、お肌にも大敵だもの」
「いやいやいや……」
「あんた、世界のために何かしてる? あたしはこの可愛さでみんなを幸せにしてる。みんな、あたしを見ると笑顔になるもの。だったらどっちが生き残ればいいかわかるでしょ? はい、論破」
「もうむちゃくちゃだよ!」
自分と他人を天秤にかけて自分を選ぶのはまあ、理屈としてはわからなくもないけどさ……ってあれ?
「沙菜ちゃん……もしかして泣いてる?」
「泣いてないわよ!」
目を赤くして、鼻をぐずらせているように見えるけど。
「月のお小遣いと同じ額で暮らせって言われたのがムカつくとか! 週末にアイドルの試験の親同伴の面接があるの忘れてるのがムカつくとか! 来月あたしの誕生日があるのに無視されたのがムカつくとか! 色々あるけど! あたしは絶対泣いてない!」
目からボロボロ涙をこぼしながら、沙菜ちゃんはその場に座り込んだ。
「もうやだ! もうバカ! ママのバカ! メガネのパパのバカ! メガネのバカ!」
バンバンと床を叩きながら、沙菜ちゃんは泣き続ける。
「沙菜ちゃん……」
激しく動揺する沙菜ちゃんを見たおかげか、僕の感情はずいぶんと落ち着いて来た。
月のお小遣い五千円も貰えてるんだとか、別に僕は悪くないじゃんとか、個人的に気になるところはあるけど、ともかく今はそれどころじゃない。これからのことを考えないと。
「沙菜ちゃん、誰か頼れる親戚はいる?」
「いない、いたらこんなに落ち込んでない」
「警察とか、市とかに相談するのは?」
「そんなことしたら問題有り家庭だってことで管理長に睨まれるでしょ。あのオバさんうちのママが若くて綺麗だからって嫌ってるから、団地を追い出されるに決まってる。あと、学校で騒がれるのもヤダ。みんなにバカにされる」
なるほどつまり――まとめるとこうだ。
シングル家庭の子供二人がわずかな現金と共に家に残された。
助けを求めるには世間体と今後の生活設計に問題があるので、出来ることなら穏便に済ませたい。
「ねえ、沙菜ちゃん」
「……何よ?」
真っ赤な目で、沙菜ちゃんは僕を見上げた。
「僕と一緒に暮らさない?」
「……何それ、プロポーズ?」
「や、えっ、違っ?」
「冗談よ。わかってるから慌てなくていいわ」
顔を真っ赤にして慌てる僕を見て逆に落ち着いたのだろう、沙菜ちゃんの表情に余裕が戻った。
「あれでしょ? 二人で一緒にご飯を食べることで、一か月を乗り切ろうってことでしょ?」
「そうそれ! そういうこと!」
額に浮いた嫌な汗を拭いながら、僕はうなずいた。
「一人五千円でも、二人合わせれば一万円だ。それだけあればなんとかなるよ」
「ん~、そんなに簡単にいくものかな?」
疑いのまなざしで僕を見る沙菜ちゃん。
「大丈夫、昔テレビで同じ企画があったらしいし」
芸能人が一か月一万円で生活~とか、けっこう流行ってたらしい。
もちろん向こうは大人で、こっちは子供だけど。
今はスマホでどんな情報でも集められるし、近所に安いスーパーもあるしね。
今日の晩御飯を何とかしようということで、僕と沙菜ちゃんはさっそく業マー(業務マートの略)に出かけた。
涼しいエアコンの風を浴びながら入店すると、沙菜ちゃんは感心したような声を上げた。
「はああ~……これが業マー? あたし、初めて来たわ。てか狭っ。物も多すぎて歩くのも大変じゃない?」
「まあ東野グランとは違うよね」
ちょっと見栄っ張りなとこのある静子さんは東野グランを使っているらしい。
質の良いお高い商品を並べた高級スーパーとは比較にならないだろうけど、業マーには業マーなりの良さがある。
「業マーはね、業務ってつくけど一般の人でも買えるんだ。基本的にはみんな安くて、大袋でのまとめ買いに向いてる。よそでは見かけない輸入商品とかもあったりして、見てるだけでも面白いテーマパークみたいなとこなんだ」
「……めちゃ語るわね」
ちょっと調子に乗り過ぎただろうか、げんなりした顔になる沙菜ちゃん。
「あんたんとこ、よく来るの?」
「うん。僕のうちはいつもここ。店員さんとも顔見知りだし、何が安いとかも知ってるよ。ほら、この冷凍讃岐うどんなんか安いのに美味しいんだ。五玉セットで百八十二円。一玉四十円以下っ」
「うどんかあ~。あたしはパスタの方がいいなあ~」
「パスタもいいね! 業マーのは有名でさ! まさかの五キロ入りが千円以下で売ってるんだ! ソースもほら、大盛りのミートソースが二袋八十四円っ」
「……そんなイキイキした顔、初めて見たわ。てかあんた、もしかしてこの状況楽しんでる?」
疑わし気な目になる沙菜ちゃん。
たしかに、そう言われてみるとそうかも。お父さんに置いてかれたのは辛いけど……。
「うん、ゾルダの伝説みたいで楽しいかも。お買い物して、装備して。モンスターはいないけど、料理とかご近所バレを防ぐ『戦闘』をこなして強くなって。いずれはお姫様を守って魔王を倒す勇者になるみたいな」
「お姫様を守る……? ふうん……そうなんだ?」
なぜだろう、沙菜ちゃんは赤くなった顔をそらした。
「おい智樹。沙菜と一緒に何してんだ?」
通路で話し込む僕の肩を誰かが叩いた。
振り返ってみると、そこにいたのは三十歳ぐらいの黒髪ロングの大人の女性。
「うわ、真紀ちゃん先生っ?」
店内なのに平気で電子タバコを咥える僕らの担任先生は、噂話が大好物。
もし今回のことがバレたら、パチンコ仲間に速攻で広められちゃう。
「こ、これはその……っ」
「おまえらまさか、不純異性交遊してんじゃねえだろうなあ~?」
ニヤニヤ笑顔でとんでもないことを口走る真紀ちゃん先生を誤魔化す、僕らの最初の『戦闘』が始まった。