2-11 痛いの、痛いの、甘くなれ
パティスリー・デュ・シャトン。予約注文された洋菓子を中心に取り扱い、店頭では予約分と一緒に製作されたわずかな余剰分のみを売る。そんな洋菓子店の店主たる由良凪沙は、予約の誕生日ケーキを送り出しホッと息をついた。何故なら現在、彼女はある秘密を抱えていたからだ。パティシエールとして致命的な病、味覚障害を患っているのである。
そんな中、来店したのは常連客の乙霧蒼真。三、四週間ほど来店回数が控えめだった彼は、いままで接客担当をしていた店員の不在に気がつく。
「いつもの店員さんは、今日も居ないんですね」
「彼女なら、辞めました」
その店員こと祭呼夕莉は、二週間前に退職済。それを聞いた蒼真はケーキの味の変化を元に、凪沙が告げていない退職時期をピタリと言いあてる。そして彼も凪沙と同様、とある秘密を抱えていた――。
チョコレートの痛みが、口の中に残っているようだった。
「こちらがお品物となります」
「ありがとうございます!」
会社帰りなのだろう、スーツ姿の女性はにこりと可愛らしい笑みを湛える。彼女が取っ手を持ったことを確認して、由良凪沙はそっと箱から手を放した。互いに女性の身、箱の中にはずしりと重量のあるホールケーキ。万が一にも、こんなところで瑕疵を生じさせる訳にはいかなかった。
それが、誕生日ケーキであれば尚更。
「気を付けてお持ちください」
「はい……!」
きゅっと握りこんで踵を返した女性に、ショーケース越しであれど凪沙はさっと頭を下げて。
「またのご利用、お待ちしております」
そう告げてから、ちりんかろんと鳴るドアベルの音で頭を上げた。問題なくお客さんを送り出せたことに、ホッと息を吐く。すっと店外と店内が隔てられると、静かな空気にゆるりとオルゴールのBGMが満ちていった。
パティスリー・デュ・シャトン。子猫のように気まぐれに、毎日異なるケーキを売り出す巷で噂の変わった洋菓子店。その理由は、予約注文されたケーキを中心として――店主たる凪沙が日々自由に洋菓子を製作しているからであった。
店頭販売されるのは、予約分と一緒に製作されたわずかな余剰分のみ。予約の受取時間はある程度決まっており、繁華街から一本外れた道に店を構えていることもあり。さらにはインターネット上のホームページにも予約推奨と書いてあるため、ふらりと入ってくる人は少ない。
(次の受け取りは午後の六時半、かあ)
店内の時計を見遣れば、ダークブロンドのポニーテールが項をくすぐる。平日木曜の夕暮れ、これから一時間半はおそらく誰も来ないだろう。ショーケースに残っているケーキは、残り五個。提携するカフェ・シャノワへ連絡を入れようか、と凪沙が店の奥へ足を踏み出したところで。
ちりんかろん。
「こんにちは。ってあれ、また由良さんですね」
すいと開かれた扉から、長身痩躯の男性が驚いたように声を上げる。その見知った顔に、凪沙は体ごと向き直って小さくお辞儀をした。
「いらっしゃいませ、乙霧様」
乙霧蒼真。純和風な名前でありながらブルーグレーの瞳が西洋の風を感じさせる彼は、開店当初からの常連客である。週一回は必ず予約をし、ふらりと来店もする。しかも一度に少なくとも三、多くて五個も買っていくものだから、その存在は顔を覚えたお客さん第一号として凪沙の記憶に刷り込まれていた。
「こうして足を運ぶのも久しぶりな感じだなあ」
ふふ、と笑いながら告げられた言葉に、凪沙の目が丸まりキョトンとした顔になる。あまり表情豊かではない彼女であるが、その驚きは蒼真に伝わったらしい。
「ほら、ここ特に三、四週間は忙しくしていたから。全然来ている気がしなくて」
「乙霧様から、毎週のご予約はいただいておりましたが……」
「週一回なんて、来た内に入りません。ココのケーキは僕の重要なエネルギー源なんですもん」
お客さんからもたらされた率直な思いに、凪沙の喉が詰まるような感覚がした。相合を崩した蒼真の顔には、目の下に薄らと浮かぶ隈が目立っている。きちりとスタイリングしている黒髪も、心なしか艶がないように見えた。
(そう言ってもらえるような、無理して買いにくるようなケーキじゃないだろうに)
「贔屓にしていただき、ありがとうございます」
曖昧に笑みを浮かべて、ショーケース越しに一礼。顔を上げると、蒼真はじいっと観察するような目で凪沙を見詰める。
何回か瞬きを重ねる、沈黙の時間。
「そういえば、」
口火を切ったのは、蒼真だった。
「いつもの店員さんは、今日も居ないんですね」
「彼女なら、辞めました」
思っていたよりも冷たい声で答えてしまった。その事実に、凪沙は慌ててすみませんと声音を調整する。
「祭呼さんは、一身上の都合で退職されてます」
「――へえ」
パティスリー・デュ・シャトンの接客担当、祭呼夕莉。唯一無二の従業員は、ついこの間に居なくなってしまった。店長を一人をこの店に残して。
「彼女に何か御用がおありでしたか?」
「いいえ、特には。それってもしかして、二週間ほど前だったりしますか?」
何気無く続けられた問いかけに、凪沙は息を呑む。どうして、と声にならない言葉と裏腹に、呆然と見開かれた目は、雄弁に是と代返をした。
「やっぱり。先々週から、ケーキの味がほんの少し違ったので」
蒼真の言葉に、きゅっと口を引き結ぶ。そんなはずはない、と言えたなら、どんなに良いだろう。深く、深く、凪沙は頭を下げる。
「品質にゆらぎを生じさせてしまい、大変申し訳ございません……」
「あ! いや、その、美味しさは変わってないよ。けど、何て言えばいいかな」
「いいえ。洋菓子店を営む身として看過できることではありません、から」
上体を起こせば、視線が交わる。どうしてか焦ったような顔をする蒼真に、思い出されるのは今朝のザッハトルテの味。
「甘さが、どうしても痛くて」
チョコレートの痛みが、口の中に残っているようだった。
「甘味痛なら、歯医者さんに行ったほうが」
「味覚障害の一種らしく。舌が甘味を感じると、それが痛みに変換されるんです」
初めてソレが起こったのは、小学六年生のとき。仲の良かった祖母の葬儀を見送った後であった。精神的なダメージで発症するソレは、初めての彼氏と別れた後も、高校の大親友と疎遠になった後も、そして――夕莉が店を出て行ってからも。甘いと感じていた食べ物に、痛覚を刺激されるようになったのだった。
「バノフィーパイのリクエストが断られたのは、そういう理由かあ」
こくり、と蒼真に頷きが返ってくる。甘さが痛いのであれば、味見だってままならない。今までに作ったことにない洋菓子屋を商品にすることは、この状態の凪沙にとって絶望的なことであった。
オルゴールの、ピンが櫛歯を弾く音さえ聞こえそうな。そんな沈黙の時間。
「すみません、変なこと言いました」
響いた言葉に、静かに思案を終えた蒼真が居心地悪そうな焦茶の目を見遣る。そのブルーグレーの瞳は、全てを見透かしているように澄んでいた。
「俺が、味見をしようか?」
「……は、い?」
急に変化した口調と雰囲気に、呆気にとられる。
「ねえ、愛情に味はあると思う?」
「いや、あの。乙霧様?」
「感情を込めて作られた料理には、その味が出るんだよ」
同じ人であるはずなのに先程までとはまるで違う男が、凪沙の目に映った。
「吸血鬼の俺にとって、貴女のケーキは重要な栄養源なんだよね」
「え? あの、きゅうけつき、って」
「吸血鬼。ヴァンパイア。ドラキュラ。聞いたことあるでしょ?」
「あります、けど。――ひえっ」
思わず変な声が出たのも仕方がない話だった。瞬きをした次の瞬間、蒼真の瞳が紅く緋く変化したのである。
「あの店員さんのことは訊かないから」
鮮やかな、人ならざる緋色の眼を見せつけながら吸血鬼は告げる。静かで傷むようなその声色は、おそらくある程度の推測が立っているように感じられた。凪沙と夕莉はパートナーと呼ばれる、親密な関係であったことを。
「どう? 経理も接客もできるし、週三から四くらいで出勤できる。それに、俺も、君も、それぞれの孤独を抱えてる」
甘味が痛みとして感じられる人間と、食糧としてケーキを喰らう吸血鬼。世間一般と異なる価値観、異なる生き様。他人と同じではない、思いを共有できない。
(この人も、理解してもらえない、受け止めてもらえない。その苦しさを背負ってる)
「お願いします」
気がついた時には、凪沙はそう口にしていた。
「え、マジで? 俺が言うことじゃないけれど、いいの?」
「はい。私はケーキを味見してもらえる。乙霧様はケーキを食べられる。ギブアンドテイク、ということですよね」
確かに、その場の勢いで返事をしたところはあった。弱みに付け込まれている認識もある。その上で、彼の申し出によってこの病に対処できることへ、天秤が傾いたのだった。
「それに、柔術を習っておりましたので」
「ふうん、そういうこと。なら、雇用成立ってことだね」
目を瞑り、すうと息を吐いた蒼真が瞼をひらけば、瞳の色がブルーグレーに戻る。
「それでは、僕は明日またこちらに来ます。勤務条件など詰めましょう」
ふふ、楽しみだなあ。穏やかにそう続けてから、残りわずかなケーキをじっと眺めると。
「それとショーケースにあるケーキ、全部ください」
もう既に、彼は客として見せ続けられていた乙霧蒼真の姿となっていた。
「買、われるのですか?」
「勿論です」
変わり身の速さに唖然としつつ、何とかそう返した凪沙は梱包を手早く済ませる。そういえば、ケーキの味の話はどうなったのだろうか。それに気がついた時には、会計が終わった後だった。
「お待たせしました、こちらがお品物となります」
「有難うございます」
骨張った指が箱を握り、凪沙の手から離れていく。そして代わりというかのように、蒼真がその手を握りしめて。
「それでは、痛みが甘さに変わるまで。よろしくね、凪沙さん」
そう言って笑んだ唇の隙間。
「……はい、こちらこそ」
覗く彼の犬歯は確かに人間よりも長く、鋭そうに見えた。