おキツネ様は電車に乗れない
長い時間を山中で過ごした。
いつのころからか人が近くに住むようになり、自分たちを守ってほしいと願ってきた。私はそれが嬉しかったのだと思う。生き物としてキツネの軛から切り離され、『お狐様』として仲間もなくただ存在していた私に意味ができた。それどころか語り合える知己をえたとさえ思った。
だが、人の世も花の色と同じようにうつろいやすい。山間に拓かれた村は少しの隆盛のあとゆっくりと衰退していった。最後の村人が息子夫妻の家に引き取られて、私を崇めた村は消えた。私はまた一人になって、また自由になった。だから、私は思ったのである。
タピオカ飲みたい。
最後の村人であったチヨが言うには甘い茶にカエルの卵が入ったような飲み物らしいが、限界集落を超えた終末集落にはタピオカなんていうハイカラな飲み物はないのだ。そもそも飲食店なんてものが数十年前に消えてしまっている。栄枯盛衰が世の常とは言えなんとも口惜しい事である。
チヨがいるときはよく一緒にテレビを見た。
テレビのなかの人間たちは旨そうな料理を食べて、お笑いが好きなくせに妙に人が死ぬ物語も好きなようだった。チヨが言うにはテレビのなかの人たちは皆、偽物でテレビを見る人を楽しませるために演技をしているのだという。なるほど、偽物なのかとがっかりすることもあったがそれでも出てくる料理は上手そうであるし、童女たちがうまいうまいと飲むタピオカにはやはり興味があった。
賽銭箱に貯まった金をまとめて社を出る。もはや手入れなどいつ入ったか分からぬほど荒れ果てた我が家に頭を下げる。それから、山をおりて久しぶりに駅まで来ると人の世がひどく変わったことを思い知らされた。汽車は煙も吐かず。駅員はどこにもいない。その代わりにからくり仕掛けの関所が作られており、銭を入れようにも入れる場所がない。
私がどうしていいか分からずオロオロしているとスーツ姿のくたびれた男が迷惑そうに声をかけてきた。
「君、乗らないんだったら改札前からどいてくれるかな?」
慌てて道を譲るとあごひげが伸びた男は胸ポケットから革の板をからくり関所にかざすとピッという音と一緒に関が開いた。
「おおっ!」
私が驚きの声を上げると男は変な物でも見るように私を一瞥して関の奥へ進もうとした。私はあわてて男の背中に手を伸ばすと上着を引っ張った。
「おおっ!?」
今度は男はひどく驚いた声を上げて、こちらを振りむいた。
「どうやればコヤツは関を開くのだ?」
銀色の金属でできた小さな関所を指さすと男は怪訝そうに私を見た。私は少し不安になった。人を化かすのは久しぶりだ。もしかすると黄色いふわふわの耳が出ていたかもしれぬし、稲束のように美しい尻尾が足元からこんにちわしていたかもしれぬ、と触って確認したくなった。
「はっ? ICカードを当てるだけだよ」
男はさきほどからくりに当てていた皮の板に入ったカードを見せた。顔にはひどく疑惑の色が出ているが、悲鳴をあげないところを見ると私の見た目は問題ないらしい。問題があるとすれば言動なのだろう。
「いあしーかーど? どこで手に入る?」
「君……からかうなら他でやってくれないか?」
「いやいや、本気本気。汽車にのるのはトンと久しぶりで勝手が分からないのだ」
片手を顔の前でひらひらと左右に振って見せると男は、随分と深いため息と深い皺を眉間に刻んで関の近くに置かれた別のからくりの前に私を案内した。
「券売機で買う」
多機能券売機と書かれたからくりは、私が知るからくりと違ってボタンがない。かわりにテレビがついているが文字だけの番組で面白さの欠片もない。私がテレビの前で十秒ほど止まっていると男が、テレビの画面に触れた。チヨにはテレビの画面は触っちゃいけないと言われていたので私は驚いたが、さらに驚いたのが触れられたテレビがピッと鳴いて違う文字を表示した。
「いくらチャージする?」
男が聞く。私は首を傾げながら「新宿?」と訊ねた。
「なんで俺に聞く?」
「タピオカは新宿にあると聞いた」
「そう。なら三千円入れて」
男はテレビを何度か触る。私は金を詰め込んできたがま口から硬貨を男に渡した。
「俺に渡すな。っていうかなんで旧五百円ばっかりなんだ」
財布を取り出して男は、硬貨と札を交換してくれた。ぶっきらぼうなわりには面倒見がいい男らしい。変えてもらった札を入れるとからくりはカードを吐き出した。
「おお。これがあいしーかーど!」
「失くすなよ。帰ってこれなくなるぞ」
男に脅されて私は何とも言えない気持ちになった。ここに戻ってくることがあるのかと言えばもうないからだ。長く神様なんてやって来たのは村の皆がいたからだ。それが誰もいなくなったからには私がここに居続ける必要はない。かと言ってどこかに行くところがあるわけではない。
「それは困るな」
私は心にもないことを言ってカードをしっかりとがま口に押し込んだ。カードはがま口にはやや大きいらしく丸いところが四角に膨れた。
「もういいな」
そう言って男は関の内側に入っていた。私も見よう見まねでからくりの関所にカードの入ったがま口を押し当てる。ポーンという気の抜けた泣き声で席が開く。
「おおっ」
なんとなく感動して声が漏れる。声が聞こえたのか男が少しだけ振り向いたが、そのまま歩いていく。私は少しだけ楽しくなって線路のほうへ駆けていった。まだ汽車は来てないらしくホームはがらんとしていた。
「入ってこれたぞ」
少し自慢げに言う。チヨは私が何かをするとひどく褒めてくれた。が、男はそういう人間ではないらしい。
「それが普通だ。よくそれで生きてこれたな。その感じじゃ高校生だろ?」
私は自分の肩から腹、脚へと視線を動かす。かつて村の娘が学校に行くのに来ていたセーラー服だ。村に娘と言える年頃の子供いなくなって久しいので完璧とは言えない。
「あ、ああ。そうじゃ、若いからの」
「若いというなら券売機と改札は普通に使えてくれ。あとどうして俺に話しかける?」
ホームを端から端まで眺めて私は男に訊き返した。
「お前さんしかここにおらぬから」
「いや、そうじゃない。女子高生がおじさんに話しかけるのは普通じゃない」
男はひどく困った顔をする。
「いい歳で偏屈なことを言う奴だな。若い女子に話しかけられるのは苦手か?」
「違う。まったく別の問題だ」
こちらを直視せずにいいにくそうにする男はなかなか愉快に見えた。
「年頃の男が女学生と喋っていると援助交際という奴に見えるかもしれんからなぁ。じゃが、ここには見てる人間はまったくおらん」
私はホームの端からぐるりと一周指をさす。駅舎には人どころか雀の一匹もいない。私のいた終末集落よりマシとはいえ、駅の周りも人は少ない。山を糧にする生き方はいまでは時代遅れなのだろう。
「は? ……いや、そうじゃない」
男は虚を突かれたような顔をして、ちらりとだけこちらを見た。男が私の顔をまともに見たのは今が初めてだっただろう。三十代半ばでスーツを着ているが、男はちとにおった。
「さっきのは間違いだ。私がおぬしを見ていたな。見られるのが嫌とはずいぶんと後ろめたいことがあるのかな?」
私が笑うと男は半歩だけ下がって身構えた。
「お前は知っているのか?」
「何も知らぬ。じゃが、ロクに人もいない駅にスーツ姿の男が一人。カバンも持たず何をしているのか。怪しいとは思わぬか?」
男はじりっともう半歩さがった。すぐにでも逃げ出しそうに見えるが、逃げたところで陸の孤島のような限界集落ではどこへも行けぬことは本人が一番分かっていそうだった。
「仕事が嫌になって無人駅で降りてみただけだ。ただ、それだけだ」
「その割には匂う。懐から匂っておるぞ」
「ど、どうして分かる」
男は慌てて胸元に手を当てて、私をやや恐れるような顔で見た。
「私は人より鼻が良いのだ。ほれ、座れ」
私は近くにあった木の長椅子をポンポンと叩くと真ん中にどかっと座った。長い時間ここに置かれているのだろう椅子はすっかり角が取れて座り心地が良かった。男はなにかに諦めたように椅子の端っこにゆっくりと腰を掛けた。
私とひと席空いて男が並ぶ。
「なぁにあいしーかーどのお礼だ。お前さんの胸ポケットにあるものの話を聞いてやろう。汽車が来るまではもうしばし時間があるだろうからな」
「……これの話か」
男は胸ポケットから鈍く黒い拳銃を取り出すと私に銃口を向けた。
私はわらべ歌の一節を思い出して微笑んだ。
鉄砲で撃たれてもキツネ汁というのは久しく聞かないからだ。