□第3話 濡れ衣は重ね得
薬草集めは遠回りし、スライム狩りも苦戦した。しかしとうとう運が味方をしてくれた。
お目当ての琥珀燃料が森林に入ってすぐから沢山集められたのだ。琥珀燃料は油脂を多く含む樹から出る樹液が固まったものだ、燃焼時間も長く用途が広い。
ナイフで塊をこそぎ落として集める。この調子なら袋はすぐいっぱいになりそうだ。
「ん……?」
顔を上げる。小高い崖の上から枝葉を踏みしめる音がする。野性動物か、魔物か。音は真っ直ぐこちらへ走ってくる、今からでは逃げ切れそうにない。
「ピィッ!」
「うわっ!」
鹿の親子が崖を飛び降りてきた。びっくりした。
高鳴る心臓を押さえつつ鹿の白いお尻を見送、っていた背から空を押し退ける鈍い音。風が駆け抜ける。
短い断末魔。回転しながら飛来した巨大な丸太は鹿の親子を激しく打ち付けられた。骨の砕ける音と重い水の音が届く。
絶句。体が固まる、動けない。しかし間を置かずに大きな足音が崖上から迫る。しまった、ここは風下だったのか────
ぬっと現れたのは、巨大な赤い怪物。鱗と剛毛を携え、猪のような鼻と長い牙、荒々しい筋骨、魔物の毛皮や骨を用いた服と装飾、どっしりと地面を踏み均す二足。
手には大型の魔物の骨を組み合わせた刺々しい棍棒。
初めて見る魔物だがその恐ろしい生態は冒険者をしていれば必ず一度は聞くだろう。
「ブ……ブラッドオーク……ッ!」
最たる特徴の真っ赤な体表は獲物の血液を使った顔料を塗りたくっているかららしい。
凶暴野蛮であるが武器防具に家も作り、儀式の概念もある、高い知能を持っている魔物だ。死んだフリなんて当然効かない。
────例え100匹のレッサーファングを出しても一瞬で薙ぎ払われる、足止めなんてどう足掻いても出来ない。今僕のやれること全ては無意味。
ブラッドオークと目が合う。すると自分でも信じられないくらいに体の底から冷える感覚が駆け巡り、震えが止まらなくなった。
勝てないと言うことは頭で分かっていたが、体でも、本能でも理解できた。一方のブラッドオークの真っ赤な目から向けられるものが敵視ですらないことからも窺える。
道端の雑草を見るようなとかではなく、食べたいとか言う欲でもなく、市場で歩いて目に留まった商品をどう使おうかって考えてる人の目みたいだった。
人みたいだった。
「────うぁっ!?」
ブラッドオークは正しくそこに置いてある商品を手に取るようヴィルを掴んで持ち上げ、顔の近くに持っていき目と鼻で確かめる。
唸り声混じりの吐息は熱く、生臭さの奥からツンと鼻を突く腐敗臭がする。
何とかもがいて両手の自由は確保したが持っていたナイフはつい今しがた落としたし、短刀も杖も武器になりそうなものは全部ブラッドオークの指の下だ。
値踏みを終えたブラッドオークはどうやらヴィルを殺さずに生かしたまま持ち帰ることに決めたようだ。生け捕りの理由も有名な話で、生き血を搾り顔料にする為である。
そのまま先ほど狩った鹿を回収しに行くようだ
ぶらぶらと持ち運ばれる視界の中で召喚獣達がヴィル奪還の機を窺いつつレッサーファングが今にも飛びかからんとしていた
「ダメだ!」
命令の声にハッとした顔を上げるレッサーファング。おずおずと牙を収めて気配を殺す。
踏み潰される痛みを感じたくないのもそうだけど、まだ暫く生かされてることを考えれば下手に刺激しない方がいいと、嫌に冷静になれた。
顔料になるまでに何ができるか、どんな可能性があるか、慣れない思考を巡らせる。
その一に、召喚獣で助けを呼ぶ……には能力と鍛練が不足している、離れすぎるとマナが行き届かず召喚獣は帰還してしまう。
その二に、偶然冒険者と出会して助けてもらう。この森林は西から街へ向かう商人なんかが通る、それには護衛の冒険者が付いているはず……だがブラッドオークを何とかできるくらいの冒険者かどうかは怪しいか。
その三……その三……渦巻く脳内と意識を外からノックされた。持ち運ばれる揺れで懐の中の何かがコツコツと胸に当たっている。
ああ、そう言えば、と。取り出したのは昨晩に怪しい胡散臭い奇っ怪な男から押し付けられた腕輪。
改めてちゃんと見ると凝った意匠、シンプルではあるけれど丁寧な作りが感じられる。売ったらいい値段になりそう。
あの男は何と言っていたか、適当に聞き流していて殆ど覚えていない、覚えてなくてもいいようなことしか言ってなかったと思う。
力がどうとか、ハッピーになれるアイテムだとか、お守りにとか……装備しないと意味が無い、とか言っていた、はず。
藁にもすがる思いよりも半信半疑な思いが勝ることがあるんだなぁ。と左腕に填めてみる。
────熱い。この腕輪、マナが込められている。
初めて杖を握り、召喚術を成功させた時の感覚が蘇る。頭の中に召喚獣を呼ぶフレーズが自然と浮かび上がり、何度も復唱し口に慣らしたかのようにすらりと言葉が出てくる。
スライムでもレッサーファングのものでもない、新しい呼び掛け
「────“た……
助けてください”……って、え?」
なんだその詠唱は。詠唱というか命乞いじゃ?
なんてポカンとしていたらブラッドオークの歩みが止まる。進行方向を真っ直ぐ見詰めて立ち止まっているものだから釣られてヴィルも同じ方を見ようと首を傾ける。
鹿を殺した丸太の上にすらりと立つ長身痩躯の男性。ここでの長身と言うのは勿論常識的な人間の身長の範疇の長身で。
森林に相応しくないくらい汚れもくたびれも無い黒い背広服に、ブラッドオークより鮮やかな真っ赤なコート。
真っ黒な髪はとても短くすっきり切り揃えられていて端正な顔立ちがよく見える。きょろきょろと辺りを見渡す度に結んである長い後ろ髪が尾のように揺れる。
「…もっとさぁ、場所とかシチュエーションとか考えて呼んでくれないかな~?こんなだ~れも居ない湿った森の、鹿の血の付いた丸太の上で、汚いブタとタイマンバトルなんてさ、流石によ、萎えるってこんなのさ~」
綺麗な顔からつらーっと垂れ流される不平不満にヴィルは再び唖然とした。しかも両手はポケットの中と悠長過ぎる、ブラッドオークを知らないのか?
ブラッドオークはまたあの値踏みをするような目をして、ヴィルだけでは血が足りないとでも思ったか背広の男へ歩を進める
「あっ、あぶっ逃げてっ!」
「あー!あー!もういい!散々な気分だ、近寄らないでほしい」
ピョウ、と高い音が前から後ろへ抜けていった。
背広の男は、“手を横へ払っていた”
ポケットの中にあった筈の手は瞬きする間も無いうちに外にあって、振り払ったように横へ伸びていた。
「……? ゴ、ォブッ!? ガアァッ!?」
「ぅわだっ!? な、なに?」
ブラッドオークの口から血が溢れ、胸を押さえて苦しみ出し、その拍子にヴィルは投げ出され地面に顔から落ちた。もがき苦しむ様を呆然と眺める。
よく見れば、ブラッドオークの指の隙間から胸の小さな傷が確認できた。あれが、まさか? どうやって?
「ゴァアアァァッ!!!!」
樹木を揺るがす程の咆哮。人のようだと評した目は獣のそれになり果てて、血の混じった唾液を垂らし怒号を上げながら凶器を背広の男へと振り下ろす。
その衝撃はヴィルの体が跳ね上がる程で、爆発したかのように地面は抉れ、丸太は粉々になり、爆心地にあった鹿は四方八方に飛び散った。
「生き意地も汚いなぁ、僕が死んでって思ったら死んでてくれよ。本当に、お願いだから」
「ガァッ!?」
鹿の飛沫に目を眩ませていたら、背広の男はまたしてもいつの間にかブラッドオークの背後に立っていた。
次の瞬間には武器を振り下ろしたブラッドオークの豪腕はバカッと無数の傷痕が切り開かれた、ハムが輪切りになるみたいに、骨だけ残して
「僕はねぇ、動物を殺すのって好きじゃないんだよ。普段食べる肉だってプロに捌いてもらいたいし、部屋に入ってきた虫も叩かず逃がすくらいにはさ」
「ギャアッ!!」
「動物に手を下すってなんか方向性が違う良心みたいのが働くんだよ。あ~違うな~って思いながら殺すって失礼じゃない?動物に対してさ………」
「ゴブォッ!?」
「あ~ダメだ全然殺せない、近いけど違うってのがより一層に気持ち悪くてダメ!」
「ォ、ガ……」
大量の熱く臭いの強い血潮がバケツをひっくり返したようにヴィルに降り掛かる。あまりの勢いに顔を覆って、蹲るしかなかった。
────そうして身を固めて堪えていたらいつの間にか辺りは静まり返っていた。
顔を上げて確認しようとしたら頭のすぐ近くでガシャガシャと鉄が投げ捨てられる音がし再び固まる。
「それ、返すね。壊れちゃったけど」
「え……? うわぁっ!?」
返す、とは? 怪訝に思い顔を上げれば真っ赤に染まってすっかり歪んで折れて刃こぼれした僕のナイフ。
ブラッドオークに捕まった際に落とした筈のナイフも、腰に下げてあった筈の短刀も、ポーチの中にしまってあった筈のハサミや折り畳み式のナイフも変わり果てた姿でそこにあった。
次に目に入ったのは全身を無惨に切り裂かれたブラッドオークの残骸、そして捕まっていた間は見えなかったその背中には二人の人間の遺体がぶら下げてあった。釣った魚なんかをぶら下げておくみたいな風に、首に荒縄をかけて
「あ……なんで……?」
「お礼は?」
「え……?」
「助けてあげたでしょ?」
「え、あ……ありがとう、ございます……?」
状況の理解が追い付かないのと、何はともあれ命が助かったことへの安堵でぺたんとへたり込む。体が地面に吸い付くように重い、のは比喩でもなく服に血液が染みてずぶ濡れだからで
一方の背広の男と言えば初めに見た時のまま汚れ一つ無い綺麗な姿だ。
「あ、あなたは何なん、ですか……? どうして助けてくれたんですか……?」
「助けてください、って君が呼んだんだろ?」
「……つまり召喚獣……?」
「失礼な、人間様だよ」
人間? 人間を召喚した? いや人間を召喚するなんて規模の大きな召喚陣を熟練の召喚士が使ってやるもので、そもそも召喚される側は召喚されることなんて基本知らないし、なのに、この人は最初から……
「バクチク」
「へ?」
「僕の名前、っていうか愛称?長かったらバクでもいいよ。あ、もしくはお兄ちゃんとかでもいい」
「え? あ、バク……チ、ク……?」
猛烈に馴染みの無い響きの名前。どこの国の言葉の何なんだろうか。
もう考えるのも疲れてきた、数分で色々とありすぎて頭が痛い。ぐったりと息を付いていたらまたも大きな足音が此方へ向かってくるのが聞こえた
またブラッドオークかと思ったがこの足音は馬と手綱の金具や装備の金属が揺すられる音だ。人、冒険者が駆け付けたようだ
「大丈夫か!?」
「うわっ!? 何だこれ、ブラッドオークなのか?」
「倒したのか……?」
異変に気付いた冒険者達は馬から飛び降り惨状を確認しては開いた口が塞がらない様子。中にはその光景に吐き気を催す者もいた。
冒険者の中には“竜の背”のメンバーも居り、ヴィルは思わず俯いて顔を隠した。
「はい!この冒険者が!魔物を討ち倒し僕を助けてくださったのです!召喚術もさることながら身一つで躍り出るその鬼気迫るなりふり構わぬ戦いっぷりといったら!」
「……え!?」
追い討ちのように背広の男バクチクがヴィルを示し声高らかに称賛した。当然ざわつく冒険者たち。
証言を裏付けるようにヴィルの手元には血濡れの刃物
「こ、こんなに小さな子が?」
「召喚獣が居たとは言え一人で……相当な強さだな……」
「一体どこの冒険者なんだ……」
“竜の背”のメンバーも居るのでバレたらと肝を冷やしていたが、そうだ、今は全身血濡れで服の色も様変わりしているし気付かれないのか。いや、そうではなくどうしてこんなことに