いやあ、
カチャ
「いいんですか?女中頭との約束を反故にしちゃって。せっかくモテ期がやってきてるのに、それが全部パァになっちゃいますよ?」
「何、俺は戦の女神にさえモテていれば後は何もいらん。」
マッシュヘアーの言葉に返答をしながら、ヨナスは童顔の《イェルク・バシュ》から剣を受け取った。
「それに一番エラいのはお屋形様だ。そのお屋形様を差し置いて、なんでその嫁御の前でわざわざ剣を外さねばならんのだ。そんな戦法、俺の喧嘩の仕方じゃない。」
喧嘩って。いつ嫁御と喧嘩する話になったんだよ。全く、お偉いさんになっても変わる気配がねえな、ヨナスさんは。
長い付き合いのレオンハルトは思った。
「相変わらずですね、ヨナスさんは。無骨というかなんと言うか。」
「まあ、そこが俺のイイところなわけだか。」
「ちったあ貴いお方々の真似事でもしたらどうです?折角言葉使いと取りつくろえるようになってきたんだし。」
レオンハルトは前を向いたまま清々しい笑みを浮かべるヨナスに向かって言った。
「馬鹿言え。この俺が貴族なんかの真似事をしてたまるか。俺の居場所はいつでもどこでも路地に吐き捨てられた反吐のかたわら。それだからこそ真っ当に剣を握れると言うものだ。」
清々しい顔のまま言ってんじゃねえよ、そんなんだから昔からドブガキだのなんだの言われてきたんじゃねえか。ったく、大将として戴いてきたこっちの身にもなれってんだ。
「相変わらず仲良いですね、お二人さん。」
「仲良くなんてねえよ、こんなドブガキ。」
「さて、そろそろ部屋だ。喧嘩の時間だぞ。武具の確認しっかりしておけよ、ドブネズミ。」
三人の目の前には質素だが堅固そうな扉が見えた。いつものように、真っ先にヨナスがノブに手をつける。
ガシャ
虐殺、強姦、総じて略奪と言われる類ーーーーー
朝も昼も夜もとめどなく回り続けるこの世の端緒がそこにあるという、別に見もしなくていい単なる事実に過ぎないものが、私の性根に巣喰い始めたのは、一体いつからだろうか。
最初に浮かび上がるのは7つの時に見た父のあの顔。男爵とは言え、由緒正しき家の嫡男として生まれたあの男の発狂と母の殺害。
生気のない目を血まみれの床に向けたまま、伏して動かなくなった母から目をそらすことが出来ず怯える私の肩を掴んで覗き込む震えたあの目。
『今お前の肩は母の血でぐっしょりと濡れている。これが世界の本当の姿じゃないのか?お前があの母の手に抱かれるのに、一体どれだけの暴力が必要だったと思う?あの母も私もお前を守るためなら王の軍団だって敵に回すだろう。だが何の甲斐があってお前を守る?その軍団の兵士にだって、きっとお前のように可愛い娘がいるだろうに。私は何の権利があってその娘から父親を奪わなければならないのだ。私は何の権利があって、娘をその兵士に奪われなければならないのだ。』
後から聞けば好色な王がその時私を見初めてて、俗世との関わりが深くなる前に私を後宮に入れて仕舞おうとお考えになられていたそうだ。その時事業に失敗していた父は多額の借金からの救済と引き換えに娘を王の妾にするか、それとも親子三人路頭に迷い、自分の妻を売女にするかを迫られていたらしく、結局父は、私の肩を強く握りしめたあと、猛毒をあおって私の目の前で悶え苦しみながら死んだ。
当然の如く、不吉の身となった私に後宮の話はなくなり、それからしばらくは不吉の身のまま親戚の家に婆やとともに厄介になる日が続いた。そのうち初潮をむかえ、齢は16になり、それらしい見た目になった私にまた縁談の話が舞い込み、見せられた先方からの書状にはどこかで見覚えのあったあの王国の印が押されていたのだった。先日街路を馬車で走っていた時に、たまたま婆やと歩く私の姿を見かけたらしい。調べを出して、身元を確かめると、どうやら私だと気付いたらしく、その不幸な境遇から救い出してあげようとお考えになられもしたらしい。
父と母がいない私には最早守ってくれる存在はなく、持参金の前払いを握りしめた親戚に勧められるがまま、春の涼しげな晴れの日に国章入りの馬車に婆やと共に後宮へと連れられていった。
夜、王の到来を待つ寝台の上では、あれ以来ずっと考え続けている父の言葉を思い出していた。
あれはきっと、この王国に軒を連ねる一家の家父としての自分を見失ってしまった父の言葉ではなかったのだろうか?
剣を持ったものが自らに襲いかかるなら殺せばいい。だがそれが法の源泉たる国権に基づいてなければ如何にしようか。恐らくはその日から国権から離れねばならず、国権が自らの保障と護身の最終的な守り手であるならば、そこから離れることは自身を襲う暴力に対し、自らの暴力だけで相対しなければならなくなることを意味するだろう。
そこにある本当の恐怖は剣を握ることではなく、剣を握ることを贖う存在が自分以外にないという呵責だ。
例えばこの腐りきった世の中を変えるとして、一体私は何のために剣を握る?
自分のために剣を握ることが結局のところ虚無と倦怠と原始状態しか招かないとすれば、自らの乙女を我がものとしようとする王のためにだろうか?それとも自身の中に打ち立てた神や正義のためにだろうか?
そんなもののために剣を握ったとして、この国で一体誰が私とともに流れ出る血を贖ってくれる?その存在は、一体誰によって贖われている?
結局世間は私のことなど考えてくれないのだ。私は世間の存立のために求められ、だとしたら私が私である必要などどこにも存在しないではないか。
私は意見や意志など持たなくていい。本当はそちらの方が、世間は私にとって無害になってくれるのだから。
というわけで、世間というものは私が私であることを放棄する方がよっぽど楽に生きられるように作られている。ただ一つ言えるのは私は女で、この世の中が腐ったままでは自分の勝手じゃ生きられないということだ。
ならせめて、自分の意見などいらないという私の意見だけは持っていよう。世界に対し口を噤み、人形のように生きていくという意志だけは持っていよう。
結局その日王は訪れず、私はあつらえられた屋敷に押し込められ、それからは婆やと女中と、付けられた家庭教師と共に平坦な昼夜を送る日々が続いていた。
そんなある日。
「いやあ、君の出身は男爵家だそうだね。僕自身は騎士階級の出だけど、今回男爵になったわけだから、君はめぐりめぐって戻ってきたというわけか。」
馬車の向かいの席に座る優しそうな顔の男が言った。この日から、王に変わってこの男が私の夫になることを暫く前に婆やから聞いていて、今日まですっかり忘れていた。