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最初に目に飛び込んできたのは漆黒。濡れたような光沢を持つ翼がバサリと広がり、空から降り注ぐ赤銅の光を受けて輝いていた。
それから嘴。本来、鼻と口があるべきはずの部位にあるのは猛禽類を思わせる鉤状に曲がった鋭い嘴があった。
最後に黄金。自身を真っすぐに見据えてくる金色の瞳は力強い光を感じさせ、その強さに背筋をぞくりとしたものが駆ける。
「……てん、ぐ……?」
漆黒の大きな翼と嘴。翼と同じ色の髪は短い。修行装束に身を包み、羽団扇を手にした男はいつの間に現れたのか、朱埜を上から見下ろしていた。
震えないように気をつけながら声を出す。そこにいるのは人ならざるものだ。けれど妖魔の様に嫌な気配はしない。その気配は十六夜に近い。纏っているのは妖気ではなく神気。それも途轍もなく強い。そこにいるだけで恐ろしくて震えそうになる。けれども、どこか温かく安心できるような。そんな気配だ。
先ほど感じた空気の変化は間違いなく目の前の男によるものだろう。纏う神気が、同じものだ。
「いかにも。儂はこの一帯を治める鴉天狗と呼ばれし者」
鴉天狗と名乗った男が朱埜の前に降りてくる。大きな翼がバサリと一度広げられ、それから静かにたたまれる。
「お主、名は?」
「……朱埜、です。鈴原朱埜……」
男は朱埜をじっと見据えると、ふむとなにやら納得したように頷いた。
「あの!母さんを知ってるんですか?じゃあ貴方が……」
「お主のことは橙湖から聞いている」
男の言葉に朱埜がやっぱり!と声を上げる。では橙湖の言っていた相手は鴉天狗と名乗るこの男なのだ。
「あ!しばらくお世話になります!よろしくお願いします!……えっと、なんて呼べば?」
鴉天狗と聞いたがそれは種族的なものであって名前ではない。
「……好きに呼べばいい。特に名は持ち合わせていない」
「そうなの?じゃあ僕がつけていい?」
朱埜が訊ねると男は一瞬驚いた様に目を見開いた。それからふと目元を緩めた。
「好きにしろ」
「ありがとう!じゃあ……」
名前がないのは呼びにくい。そう言えば、神馬像であった十六夜も名前はなくて、朱埜が名付けたのだ。確か、初めて会った夜。満月の翌日で月が綺麗に見えた日だった。
「……薄明」
口をついて出たものをもう一度口の中で反芻する。うん。悪くない。
「薄明はどう?名前」
それは今の空だ。夕暮れの青と朱と金が重なり合う幻想的な輝き。漆黒の翼を染める赤銅色の輝きだ。暮れゆく空が見せる刹那の美しさだ。
「好きにしろと言った」
そっけない言葉を、けれどもどこか柔らかく告げると男、薄明はくるりと踵を返した。
「こっちだ。ついて来い」
薄明は顔だけ振り向き、それだけ言うと顔を戻し、整備のされていない獣道をさっさと歩き出した。
「え、あ、はい!」
履いているのは一本歯の高下駄であるにも関わらず、薄明は安定した足取りと速さでどんどんすすんで行く。薄明を林の中に見失わない様に朱埜は慌てて追いかけた。
木々の間の獣道を進んで行くとやがて開けた場所にと出た。そこには下見板張りの板葺き石置き屋根の一軒家が建っていた。
迷うことなく中へと入っていった薄明に倣い、朱埜も家の戸をくぐり中へと足を踏み入れた。そして……。
「すごい!マンガの中みたいだ!」
思わずそんな感想が口をつく。
明かりの無い屋内は窓からの光があるものの薄暗いが見えないほどではない。中は入ってすぐが土間になっており、土間の奥は水瓶が置かれ、流しがある。
それから床が上がった15畳ほどの板間があり、そこの中心には囲炉裏があった。板間の奥には襖があり、おそらくまだ奥に部屋があるのだろう。
鈴原家も築100年を超える古民家だが、屋内は古民家の良さを残しながらも現代風にリフォームされている。土間も板間も囲炉裏も今の鈴原家にはない。
「囲炉裏とか初めてみた!」
朱埜は目をキラキラと輝かせながら、板間に駆け寄る。薄明はいつの間にか下駄を脱いで板間に上がっており、朱埜に上がるよう促す。朱埜もスニーカーを脱ぐと板間に上がり、囲炉裏へとにじり寄った。
「これ!火をつけたりするの!?」
「囲炉裏は火を起こして使うものだからな」
興奮気味の朱埜に薄明は面白そうに目を細めた。パチンと一つ指を鳴らすと囲炉裏に置かれていた薪に火がつく。部屋の中が照らされわずかに明るくなる。蛍光灯の光には遠く及ばないが囲炉裏の近くなら本も読めそうな明るさだ。
「あまり近寄っていると火の粉が飛ぶぞ」
パチパチと音を立てて燃え始めた薪を身を乗り出すようにして興味深げに眺めていた朱埜に薄明が呆れたように声をかける。
「え?あ、あっつっ!!」
言われたそばから爆ぜた火の粉が飛んでくる。驚いて身を引いて、少し離れてから朱埜はまた囲炉裏を見つめる。
ゆらゆらと炎が揺れる。吸い込まれていきそうな、不思議な感覚になる。
あぁ、綺麗だな。ぼんやりとそんなことを考える。
朱埜にとって最も馴染みのある炎は十六夜の鬣だ。しかし十六夜のものは熱を感じさせない。月光の様に蒼白く柔らかな光を放つ。この炎は熱だ。太陽の如く、周囲のものを燃やさんとする力強さを孕むものだ。
「あまり見すぎないことだ。心を持っていかれる」
「こころ……」
「特にそれは術によってつけられたものだ。普通の火とは少し違う」
「あぁ……だから……」
だからこんなに綺麗なのか……。十六夜の鬣も。この炎も。自然のものとは違う、彼らの力で、霊力で、燃えるものだから。だからどこか不思議な惹きつけるような、そんな美しさが……。
「……おい、あか……」
ぐぅぅぅぅぅぅ
目が離せず、魅入られたかのように見つめる朱埜に薄明が声をかけようとした時だ。その声に重なるように盛大な音をたてるものがあった。
「あ……」
己の腹の虫に朱埜がバツが悪そうに頬をかいた。その頬がうっすら赤いのは囲炉裏の炎が照らすだけではないだろう。
「えっと……夕飯、食べない?」
はにかんだ笑みを浮かべながら朱埜は持参した大きな包みを広げる。
出てきたのは木製の三段重だ。
一番下は混ぜご飯のおにぎりだ。具材は梅と大葉とじゃこ、塩鮭と枝豆、きゅうりと茗荷と油揚げ。
真ん中は副菜でズッキーニのベーコン巻き、アスパラの胡麻和え、にんじんとゴボウのきんぴら、揚げなすの南蛮漬け、ピーマンのツナ炒め、だし巻き卵。
一番上がメインでビフカツ、チキンカツ、海老カツ、鯖カツ、コロッケ。
橙湖から和が気合をいれて作っていたと聞いたが確かにこれは豪勢だ。メインがカツなのは揚げ物が朱埜の好物だからか、それとも『活を入れる』にかけているのだろうか?或いはその両方か。
美味しそうーと嬉しくなりながら三段重のお弁当を並べる朱埜。ふと、ひとつの疑問が頭を過る。
天狗ってご飯食べるの?
橙湖には一緒に食べるよう言われたが、十六夜は物を食べたりはしない。付喪神である十六夜は自然の中で精気を吸収し、己の霊力に変換している。では天狗は……?
まぁいい。とりあえず誘ってみたらいいのだ。いらなければきっと断ってくるだろう。
「これどうぞ」
朱埜は三段重と一緒に包まれていた紙皿と割り箸を1セット、薄明に渡した。
「そうか。人は食事を必要とするのだったな」
紙皿と割り箸を受け取りながら、薄明は興味深げに頷く。
「薄明はご飯食べないの?」
「必要とはしていないな。まぁ食べれぬことはないが」
嘴を撫でながら答えた薄明に朱埜はそれなら!と笑う。
「和さんの料理、美味しいよ。ご飯、食べれるなら是非」
せっかく食べるなら一人で食べるよりも誰かと食べたほうが美味しい。
いただきますと手を合わせてから箸を取ると、朱埜は早速お重に箸を伸ばす。
まずはどれにしようか。いやここはメインの揚げ物からいくべきだろう。ビフカツと海老カツを紙皿に取り、齧り付く。
揚げたてほどではなくともサクサク感をもったビフカツは柔らかく、しっかりとした味が付けられていてソースなどなくても十分に美味しい。海老カツはぷりぷりとしたエビの食感が楽しい。
次はどれにしようか。やはりお弁当といえば定番はだし巻き卵だ。それからきんぴらと胡麻和え。
だし巻きはふんわりと柔らかく、だしの上品な旨味が口の中いっぱいに広がっていく。きんぴらは濃い目の味付けでシャキシャキとした歯ごたえがあり、胡麻和えはアスパラ本来の甘みが感じられて胡麻の香ばしさが鼻を抜ける。
「ふむ。美味いな」
「でしょ!和さんのご飯美味し……」
薄明の声に、夢中になっていたお重から顔をあげた朱埜はみるみる目を見開き……。
「えぇぇっっ!?だれ!?!?」
驚愕の声を上げた。
確かに薄明の声だった気がするのに、目の前で梅と大葉とじゃこの混ぜご飯おにぎりを口にと運ぶ相手は見たことのないイケメンだ。すっと通った鼻筋、形の良い薄い唇が大きく開き、その中におにぎりが消えていく。
「……お主が薄明と名付けただろうが」
怪訝そうに眉を顰める相手は、薄明と同じ黄金の瞳と漆黒の髪をしている。その黄金は確かに薄明のものだ。では……。
「え?じゃあ嘴は?あの鷹みたいな鋭いやつ……」
「食す時はこの方が適している」
事もなげに言う薄明に朱埜は驚きを隠すことなくまじまじと薄明の顔を見つめた。強い光を秘める黄金の瞳は切れ長の一重でミステリアスな印象を与えてくる。つい嘴に目がいきがちで気づいていなかったが……。さすがは天狗というべきか。人ならざる美しさに朱埜はただほわぁ~と呆けた声をあげてしまう。
「はぁ……びっくりしたー。でも薄明かっこいいね。嘴もかっこいいけど、その姿でSNSあげたらイケメンでバズりそう」
「……なんだそれは……?」
「なんだろう?注目される?みたいな?山に来る人増えるかも」
朱埜の言葉に薄明は嫌そうに顔を歪めた。
「……山に来る者などお主だけでいい」
うるさいのは好かんとこぼす薄明。朱埜はきゅうりと茗荷と油揚げのおにぎりを口に運びながらイケメンってすごいなーとぼんやり考える。嫌そうな顔が絵になるとか本当すごい。
おにぎりをかじってもぐもぐと咀嚼する。きゅうりのしゃきしゃきとした歯触りと茗荷の爽やかな香り、甘辛く煮付けた油揚げがいなり寿司の様で美味しい。
「そっかー。まぁ僕はそんなにうるさくしないしねー」
笑いながら手にしたおにぎりを食べきり、朱埜は塩鮭と枝豆に手を伸ばす。焼き目のついた皮も細かく刻んで入っていて香ばしく、ほどよい脂と旨味がご飯に染み込んでいる。枝豆の緑が目にも鮮やかで食感のアクセントにもなっている。
「お主だけで十分うるさいからな」
「え!?僕うるさい!?」
思ってもみなかった言葉に朱埜は驚いて声をあげる。そんなつもりは全くなかったし、うるさいと言われたことも今までないのだが……。
「ここら一帯は儂しかおらん。普段は静かなものだ」
口元をわずかに緩め、薄明が笑う。だし巻き卵を箸で摘まみ口に入れた。
あぁそうか。薄明からすれば誰かいるということがうるさいというか、いつもより賑やかなのだ。朱埜一人であればうるさく感じたところで構わないということだろう。
それに、朱埜もSNSは見る専門だ。別にバズりがどうというあれもない。
それはそれとして……。
「美味しいね!和さんのお弁当!」
「……そうだな。よい味をしている」
だし巻きを咀嚼し、目を細める薄明。朱埜は、だよねー!と笑う。
誰かと一緒に食べるご飯は美味しい。その時間が朱埜は好きだ。この時間があるから明日への活力につながるのだ。
お弁当を通して、和も応援してくれている。
修行、頑張らないとな。
チキンカツのサクサクの衣と柔らかな肉の食感の違いと口いっぱいに広がる鶏の旨味を感じながら、朱埜は改めて気を引き締めた。