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スマホがピロンと音を立て、メッセージの着信を告げる。自室のベッドの上にゴロンと転がっていた朱埜は枕元に置いたスマホにチラリと視線を向けるも開くことはせずに眺めるだけだ。
差出人はクラスメイトたちで、先ほどから朱埜のスマホの通知音は止むことなく続いている。
『なんで来ないのー?』
『用事ってなにー?』
『カラオケ楽しいよー!』
『ってか那岐合いの手うますぎwウケるwww』
クラスメイトからの実況中継のような報告と添えられる写真。そこには楽しそうにはしゃぐ様子が見て取れて、胸の奥が僅かにざわつく。そのことに朱埜は気づかないふりをして、気持ちを切り替えるように軽く首を振る。それから大きく息を吸って、そして吐いた。
朱埜は15歳の現役男子高校生だ。普通に友達と遊びたいし、はしゃぎたい。今日だってせっかくの夏休み初日なのだ。当然クラスメイトたちと遊びに行きたい気持ちはあった。
けれども朱埜にはどうしても外せない予定がある。
朱埜は鈴原の退魔士で、その名に恥じないだけの力を手にしたいという思いはあるのだ。剣技を碌に使えず、魔を払うこともままならない現状では駄目だと朱埜自身がきっと誰よりも感じている。だから今は、遊んでいる時ではないのだ。
「朱埜、準備はできた?」
部屋の外から橙湖の声がする。
「今行くー」
扉に向かって返事をし、ベッドから体を起こす。オーバーサイズの白いTシャツにデニムのパンツといったラフな服装の朱埜はスマホを無造作にデニムのポケットに入れて机に置いていた荷物を手に部屋を出た。
鈴原神社は丘陵地帯の一角に建っている。長い緩やかな石段の参道を登ると神門の先に切妻屋根に檜造りの優美な拝殿が見えてくる。
神門を抜け、右に神楽殿、左に社務所が並び、正面の拝殿とその後ろには本殿が続き、本殿の裏には鎮守の森と呼ばれる森林が広がる。楓や銀杏の並木が作る遊歩道が森の中程まで設置されており、遊歩道の先には御神木の楠があった。根元が空洞になっており、まるで天然のトンネルのようなその楠は、樹齢千年を優に超え、生命力に満ち溢れている。柵に区切られていることから、楠のトンネルをくぐることは出来ないが、触れるだけでも御利益があるとされており、神聖な気に包まれた癒しスポットと言われていた。
また社務所の奥には豊かな湧き水が流れる神池を中心とした地泉廻遊式の庭園があり、見晴らしの良いそこからは街が一望でき、春には桜と藤、初夏には紫陽花、秋は紅葉、冬には椿と季節ごとに四季折々の顔を見せることからちょっとした観光名所にもなっていた。
御神木より奥は聖域とされ鈴原の退魔士以外の人間は立ち入ることが許されないとされている。その御神木をくぐったその奥に橙湖と朱埜はいた。
朱埜が霊力を込めて指笛を吹く。するとどこからともなく一頭の白馬が現れた。蒼い炎をまとった鬣を揺らすその白馬は鬣と同じ色の瞳に知的な光を宿しており、神々しいほどに美しかった。朱埜は白馬に近づくと正面からそっと手を伸ばした。優しく頬に触れる。
「十六夜、久しぶり。元気だった?」
笑いながら声をかける朱埜に十六夜と呼ばれた白馬は嬉しそうに鼻を摺り寄せた。
『そうですね。こちらでは久しぶりです。本体には毎日声をかけていただいてますが』
笑いを含んだ楽し気な声がする。十六夜は鈴原神社にある神馬像だ。長い時を経て付喪神となり、鈴原の退魔士を主と慕い、力を貸してくれている。鼻を摺り寄せながら話す十六夜に朱埜もくすぐったそうに笑った。
「そうだねー。毎日掃除しながらお話してるしねー」
十六夜の体を朱埜は優しく撫でる。
「十六夜、今日からよろしくね」
『主の命なら喜んで』
今、十六夜が主としているのは朱埜で、退魔士としてはまだまだ半人前だが、小さな頃から神馬像本体を大事に可愛がってくれていることから十六夜も朱埜を慕っていた。夜になるとたまに一緒に遠駆けに行ったりもしているほどに、仲がいい。
じゃれ合う朱埜と十六夜を橙湖は微笑ましく見つめながら、手にした大きな包みを朱埜に渡す。
「はい、これ今日の和さんのお弁当。初日だから気合入れて作ったみたいよ。行った先で一緒に食べてね」
「ありがとう。ところで母さん、師事する相手はやっぱり教えてくれないの?」
包みを受け取りながら訊ねると橙湖は意味ありげに笑うだけだ。山に籠ることをすすめられた際、その山に住む者に師事するように言われたのだが誰が住んでいるのか、山のどの辺りに行けばいいのかは何度聞いても教えてもらえなかったのだ。曰く、どこでもいいから行けばわかるの一点張りだ。それで朱埜も聞き出すことを諦めたのだ。
「じゃあ行ってくるね」
そう言って、朱埜はひらりと十六夜に飛び乗った。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
橙湖が微笑みながら手を振って送り出してくれるのを見ながら、十六夜は地を蹴ってふわりと浮き上がった。空中を蹴り、高く昇ったと思えば滑る様に空を駆け出していく。
風を切って十六夜は走る。流れる雲を横目に見ながら走ると自身も風になったような気分になる。向かう先は県境にもなっている北方の霊山だ。
しばらく空を駆けた十六夜は朱埜の命でゆっくり降下してゆき、浮き上がった時と同様にふわりと地に降り立った。
朱埜は首を優しく撫でてから、十六夜から降りた。正面に回り頬に触れる。
「お疲れ様。今日はゆっくり休んでね」
朱埜が優しく声をかければ、十六夜も嬉しそうに鼻先を摺り寄せた。
十六夜が降り立った場所は山間の川辺だった。木々の梢がさざめき、川のせせらぎが心地いい。見上げた空は茜色に染まる頃合いで、青と朱と金がグラデーションの様に重なり合う。川の水面には木々の梢や空から降る光の色が映り、どこか幻想的で美しい。
とりあえず言われた通りに山に降り立ってみたはいいが、これからどうすればいいのだろうか。行けばわかると言われていたが……。
どうしたものかと途方に暮れた時だ。
空気が、変わった。
薄い羽衣のような。
柔らかな絹糸のような。
澄んだ膜のような。
暖かくて。
冷たくて。
恐ろしいのに。
安心感がある。
そんな、不思議な力を感じた。
「お主が橙湖の倅だな」
突如、背後からかかった声に驚いて振り向くと。
視界に飛び込んできたのは夜の闇を溶かし込んだ様な漆黒だった。