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鬱蒼と茂る木々に囲まれた林道の僅かに開けた場所。
人の気配は全くなく、ただ梢の風に揺れる音だけが穏やかに流れていく。
木々の合間を縫うように差し込む、影が出来るほどに明るい満月の光に照らされて。
いくつもの漆黒の羽が空を舞う。
その羽に狙いを定め、朱埜は矢を番えて弓を引く。
ひらりひらりと舞うそれらは突如ぐるりと回転し、漆黒の翼をもつ鴉へと姿を変えた。一帯を何羽もの鴉が取り囲む様に羽ばたき、その羽音と啼き声で辺りは俄に騒がしくなる。
鴉の、ギョロリとした金色と目が合った。その刹那、鴉は朱埜に向かい一斉に急降下をしてくる。同時に朱埜もギリギリまで引き絞った弓から矢を放った。
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見上げれば雲一つない青空が広がっていた。ギラギラとした夏の日差しが降り注ぎ、真っ黒なアスファルトが日差しに焼かれて熱気を放つ中、通りを行く高校生たちの制服の真っ白なカッターシャツが光を弾くようにまぶしい。
茹るような暑さの中で、それでも通りを歩く彼らの足どりはどこか軽やかだ。それはこれから始まる長期休暇への思いの表れだろうか。彼らの表情はどこか開放的で晴々としている。
その中で、鈴原 朱埜だけがどこか張り詰めた様な面もちで歩いていた。
一学期の終業式も終わり、高校最初の夏休みが始まろうとしている。本来なら楽しい予定が満載のはず。しかし……。
「~~っ!!」
後ろから声がする。呼ばれた気がして振り返れば、こちらに向かって手を振る少年と目があった。
手を降り返すと、少年― 天邑 那岐―は朱埜に向かい駆けてきて、横に並んで歩き出した。
「朱埜ー!先帰んなよ。終業式の後、クラス皆で遊び行こうって言ってたじゃん」
言いながら不服そうに口を尖らし眉を寄せる那岐に朱埜はきょとんとした顔を向ける。
「そうだっけ?」
知らないよ?とでも言いたげなその顔に那岐は大袈裟にため息をついた。
「そうだよ!朝言ってただろ!お前また話きいてなかったな!?」
「ごめんごめん」
語気を強める那岐に朱埜はへらりと力の抜けた笑顔を浮かべる。そういえば、朝のHRの後に学級委員が言っていたような気もする。
「ほら、行こうぜ!朱埜連れてこいって言われてるんだよ」
皆待ってんぞ!と笑う那岐に朱埜は頬をかきながら申し訳なさそうに眉を下げた。
「悪いけどさ、今日ちょっと用事あって。皆にもごめんって伝えといて」
「マジでー?じゃあ夏休み中にどっか遊び行こうぜ!海とか行きたい!あと朱埜んとこの祭りも!」
楽しそうに夏休みの予定を話す那岐。朱埜の家は鈴原神社という古くからこの地にある神社だ。この辺りの鎮守神として人々から慕われており、来月には毎年恒例の祭りもある。
「あー、それも、ごめん。夏休み中は知り合いの所に行くことになってて……。いつ戻るかわかんないんだよね。祭りまでに戻れたらなぁとは思ってるけど……」
困った様に朱埜が笑う。那岐はつまらなそうに朱埜を見つめ、ため息をこぼした。
「……仕方ねぇな。戻ったら連絡しろよ」
「もちろん!絶対する!」
打てば響く様に返ってきた言葉に那岐は一瞬目を見開いて、それからぶはっと吹き出した。
朱埜と二人、顔を見合せて笑い合う。
一頻り笑い合い、それから「またな」と手を振って別れた。
友人たちの元に戻る那岐を見送り、朱埜もまた歩き出す。
見上げた空はどこまでも高く、澄みきった青だ。照りつける太陽の日差しがアスファルトを焼き、ジリジリとした熱気が立ちこめる。
高校生活最初の夏休みの開始は、朱埜にとって修行のはじまりでもあった。
世の中は様々な怪異にあふれている。
それは、人々の間で実しやかに語られる都市伝説の様なものから各地で祭とされる伝承や伝説、持つことで幸運を運ぶとされる物や、持ち主に不幸を呼ぶ物。或いは悪魔や悪霊と呼ばれ人や物に憑いては人々に危害を加えるもの。
それらの内、特に人々に災いをもたらすものを妖魔と呼び、それらを治めることを生業とする者たちがいる。その者たちは退魔士と呼ばれ、霊力という力を用いて怪異、ひいては妖魔から人々を守ってきた。
朱埜の家系である鈴原家は代々この退魔士を生業とし、優秀な退魔士を輩出してきた。中でも鈴原家の当主であり鈴原神社の宮司でもある、朱埜の母親の鈴原 橙湖は稀代の退魔士と呼ばれるほどの高い霊力を持っており、一人息子である朱埜は退魔士としての裏の顔を知る者たちから多大な期待を寄せられていた。
しかし、朱埜には周囲が期待するほどの力は見られなかった。霊力の質は高いものの、その力は橙湖には遠く及ばない。
鈴原の退魔士は主に刀による剣技を得意としていた。刀身に霊力をのせ、妖魔や災いを打ち払うのだ。
しかし、朱埜は剣技の才能が全くなかった。朱埜が初めて刀を握ったのは8年前、小学生の時だった。それから毎日欠かさず鍛練は続けてきたが、上達する兆しは見られなかった。
周囲からの期待は次第に失望と嘲りに変わっていった。影ながら囁かれる声は朱埜の耳にも届いていたが、朱埜自身、それらの声を否定する言葉を持たないのも事実だ。
己の不甲斐なさは己自身が一番わかっている。それでも、朱埜は鈴原の退魔士だ。橙湖の力を継ぐ者だ。その意志だけが朱埜を支え、刀を握らせていた。そんな折……。
「朱埜、少し修行に出てみない?」
「へ?」
鈴原神社から徒歩1分。すぐ隣に建てられた鈴原家の母屋で夕食を取っている時だった。橙湖が唐突に口にした。
「もうすぐ夏休みでしょ?しばらく山に籠るのもいいと思うの」
夕食の煮物を食べながら、「ちょっとそこまで」くらいの気安さで言われ、朱埜は口に運ぼうとしていた唐揚げを箸からポロリと落とした。幸いにして落下地点は炊きたての真っ白な粒が艶々と輝くホカホカご飯の上だ。
「朱埜はね、伸び代はあるのよ。努力もしているし。ただ方向性というか、鈴原の技が合っていないんじゃないかしら。ならいっそ別の技を学ぶのも良いかなって」
「……退魔の技って合う合わないとかなの?代々継承されてくものとかじゃなく?」
だとすれば、鈴原の技を身につけようと必死になっていたのはなんだったのか……。
「継承はしていくわよ。でもそれは必ずしも朱埜が継がなくてもいいものだから。実際に今、朱埜に教えている紫築は退魔士ではないでしょう?」
橙湖の言葉に確かにと頷く。朱埜の師範で橙湖の従弟にあたる沢村 紫築は退魔士ではない。鈴原に生まれた者は霊力の有無に関わらず退魔の技は習うのだ。その中で霊力のある者が退魔士となる。紫築は剣の腕は良かったのだが、霊力はほとんど無いため剣技のみを継承し、次世代に教えている。
「何事にも得手不得手、合う合わないはあるのよ。技に拘る必要はないわ」
……そういうものだろうか?
それならそれで、新たなものを学ぶのは朱埜としてはやぶさかではない。ただ……。
「……修行するのはいいけど、山に籠るってことは暫く家を空けるってことだよね?和さんのご飯が食べられないのはちょっとさみしいかなぁ……」
困った様にふにゃりと笑い、朱埜はご飯の上に着地していた唐揚げを頬張る。
食卓に並ぶ、山盛りの唐揚げ、根菜の煮物、青菜のおひたし、ナスとキュウリのぬか漬け、ネギとワカメと豆腐のお味噌汁、ご飯は全て住込みの家政婦である鳴子 和によるものだ。
カラッと揚がった唐揚げは一口頬張れば、サックリとした衣の歯触りとガツンとくるニンニクと生姜の香り、むっちりとした弾力のある柔らかな鶏もも肉から溢れだす肉汁の旨味が口の中に広がる。噛めば噛むほど溢れだすオイリーな肉汁は旨味の大洪水、美味しさの暴力だ。その美味しさを噛み締める朱埜の頬は自然と緩み、眉尻は嬉しそうに下がっていく。
にんじん、蓮根、ゴボウ、大根、こんにゃく、絹さやと彩り鮮やかな煮物はじっくりと煮込まれ柔らかく、出汁の旨味が染み込んでいる。
おひたしはほんのり甘く箸休めに最適で、ぬか漬けはほどよい酸味と塩味でご飯がすすむ。
丁寧に出汁をとったお味噌汁は優しい味でほっとするし、ご飯は土鍋で炊かれ、米の一粒一粒がたっていてふっくらもっちりとして甘味がある。
和の作る食事は文句なく美味しい。基本的に和食が多いが洋食やアジアン、エスニック、イタリアンなどなど食べたいと言えばだいたいの料理は出てくるほどだ。昔から食べなれた味であることや身内の欲目を差し引いてもそこらの店よりよほど美味しいと思う。
「一日一回は和さんのご飯が食べたいし。毎日楽しみなんだよね。今日のご飯なんだろって」
お茶碗についたご飯粒を最後の1つまで摘まんでから、朱埜は「おかわり」とお茶碗を元気に差し出す。和はそれを笑いながら受け取って、横に置いている御櫃からご飯をよそう。
「私も坊ちゃんがいつもいっぱい食べてくれるから作り甲斐がありますよ」
ふんわりとご飯をよそい、朱埜の前にお茶碗をそっと置いた。「ありがとう」と礼を言ってから朱埜はお茶碗を手に取ってご飯を口にと運ぶ。口に入れれば甘みとコクが広がり噛むほどに増していく。美味しい。
「では坊ちゃんが修行に出られる日は気合を入れてお弁当を拵えますね。お帰りの時は腕によりをかけて好物を用意します」
「……というか懸念事項がご飯だけなら届けるけど」
「本当に!?」
橙湖の申し出に朱埜は思わず食いつく。
「えぇ。和さんには少し手間をかけさせてしまうけれど。折詰にしてもらえたら持っていくわよ」
「その程度、手間でもなんでもないですよ。いくらでもご用意します」
微笑みながら答える和に橙湖も笑顔を向ける。
「それじゃあ朱埜、夏休みから修行開始ね」
「はい」
告げられた言葉に朱埜はしっかりと頷くと、唐揚げにと箸を伸ばす。溢れる肉汁の旨味を堪能する。美味しい。これが毎日食べられるなら修行に出ても安心だ。
あぁでも……出来立てが食べられないのはやっぱりちょっと寂しいな。
修行に出るまでは出来立ての美味しさをたっぷり堪能しよう。そう決めて、朱埜は煮物を口にと入れた。