希被殺願望
あなたよ、早く殺してくれ。そう願い続ける一日である。ここで言う"殺す"とは、読者の想像するあまりに暴力的な行為のことではないことは、私がこの行為の実行者に想い人を挙げている時点でお気づきであろう。そう、私はいま一世一代の大勝負である告白の時間を待つ者である。
きっと死刑が宣告されてから独房で数年待たされる死刑囚もこのような気持ちだと思うと、気が狂うのも無理はないと今ひしひしと感じている。法務大臣(私の場合はそれが彼女なわけであるが)の決定のその瞬間まで、まるで死刑囚の命を、私の心を、弄ぶかのように残酷に時を感じさせるのである。
きっと全人類がこの感情を体験したならば、この日本に今のような死刑制度は存続し得なかったであろうし、復讐などという気持ちは起こらなかったであろう。殺人事件の被害者遺族はその手を悪に染め復讐の炎に焼け焦げるのだろうが、この残酷に刻まれる時間こそ復讐よりもよりグロテスクに我らの体を痛めつける。
私は生物学に明るく、半ば狂信的なまでの理論派である。そんな私からしてみれば個人の状態など脳から発せられる電気信号か、あるいは液性のホルモンによってのみ支配されると信じてやまないのだがそんな私の往年の思考さえ、死の瞬間を待つこの胸の高鳴りによって音を立てて崩壊するのである。動物は頭、つまり脳を使ってのみ思考を行うはずであろう存在のはずであると信じてやまなかったが、私の心臓という感情を持たぬ臓器は重い疾病を抱えた病人のように苦しいのである。
今日といえば仕事も手につかず、ただ徒に時間を浪費し、煙草をくゆらせるだけで精一杯であった私であるが、徒にと文学的に書いただけであり、その実一瞬一瞬が、いつもなら刹那的に過ごしていたはずのその一秒が、今日は体の震えとなってその身に刻まれていることを思い知らされる。
私は弱い人間である。私が告白をするのはその想いの強さからでも、決意の固さからでもない。早くこの地獄から彼女の手によって解き放されたいのである。逃げるために告白をするとは何とも愉快な話であるが、それが今の私の真意であると断言できよう。その上、何度もリハーサルした告白の言葉に彼女の入る余地はない。自分の想いだけを吐きかけて逃げ遂せる気概でいるから救われない。私は理論派であるに伴い無神論者であるが、これ程までに私を弱い存在に創りたもうた神を呪わずにはいられず、また、もし神が存在するならば私の様な弱い人間を産むはずが無いので結局神などいないのである。という帰納法的な考えのみが逡巡と頭を駆け回っている。
この物語を書く時に自分に決めたことが二つある。一つは今日必ず彼女に殺されること。もう一つはこの文章を推敲しないことである。誤字や脱字、稚拙な文章でさえ私がこの世に存在していた証明になると信じてやまない。彼女から否定される未来は哀しくも辿るべき未来、いや、未来という言葉に確定要素を残すべきでは無い(ラプラスの悪魔がいないように)ので運命というべきか。つまり私は彼女に殺されることになるわけであるがその最後の瞬間まで私が存在していたと私だけでも信じていたいのである。嗚呼、なんと弱い人間なのだろうか私は。所詮、いくら知識をつけたところで片田舎の娘になすすべもなく蹂躙されるのである。こんな愉快な話がどこにあろうか。
"人"という字は互いに支え合ってできていて、誰も一人では生きていけない。なんて言葉を昔のテレビショーで聞いたことがあるが、正直私はこの言葉を馬鹿にしていた。しかし、彼女の前に素面で出ることに怯え酒を煽るこの私には最早この言葉を馬鹿にする権利など微塵も無いのである(最もテレビショーでは人と人が支え合うというような意味合いであったが)。
"文字"と書いて"きせき"と読ませたい。このきせきは奇跡とも、あるいは軌跡という意味でも良い。書き手の心情が時を超えてこの瞬間に蘇る奇跡。書き手がその文を書き上げるまでの軌跡。そのどちらをも文字を使えば表現出来うるのである。その事を鑑みると"文字"とかいて"きせき"と読ませるのも痴呆の戯言と片付けられないのではなかろうか。しかし、奇跡は文字を包含しているが、文字が奇跡の母集合であるとは断じて思わない。私が彼女に巡り会えた奇跡を私は文字に起こせないし、それはどんな賢人であろうと不可能であるに違いないからである。起こし得たとして、その文章が私と彼女を包含しうると認めたくない幼稚な心こそ私の程度であると言われてしまえばそれまでであるが、それほどまでに私が彼女のことを想う気持ちは深いと私だけが信じていれば私達の軌跡こそ完璧な文章は存在しないという証明になるのではなかろうか。この私を論破するには世の物書きを全員廃業にしてからにして欲しいものである。と、言ってはみたものの私の在り来りな恋心など私以外誰も興味はなく、その事に対する八つ当たりでしかないのもまた真理である。このような幼稚さが故に彼女のお眼鏡に掛からない悲しい男の性格であることもまた、真理であろう。
人はいつも悩みもせずに真理を知ろうとする愚かな生き物である。例えばあなた方の学生時代を回顧して見てほしい。あなた方の知力向上のため教師という職業の者が課した壁に対しあなた方が解答集という最強の矛を持って立ち向かっていく姿などまさにその通りではないか。無論私もその一派であったわけでその件に関しては何も言えないのであるが、彼女のことを想い、悩み、決断した私のこの文は真理であると、反論の付け入る隙もない事実であると、そう願うばかりである。
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さぁ、執行の時間が来たようだ。僕を殺してくれてありがとう。
君と出会って色々なことを知った。恋とは楽しいもの。苦しいもの。殺して欲しくなるほど胸が苦しいこと。その全ての痛みが今心臓にのしかかっている。嗚呼きっとこれが恋なのだな。彼女に想いを告げた時に今の私は終わる。あと十数分後の私は違う私なのだ。それがこんなにも息苦しく、望ましく、不快で、心地よいのだ。行きたくない。会いたくない。早く会いたい。伝えたい。こんな矛盾がきっと恋なのだろう。君よ、どうか僕を殺してくれて