アリシア
日が沈むと、いつものように居館で夕食になった。長テーブルの上には、光る水の入ったコップが置かれている。洞窟に溜まっていた地下水だ。魔鉱石の地層から染み出た水だけあって、魔力を与えるとゆっくり光って消えていく。魔力の量にもよるが、だいたい三十分くらいは継続して光る。今日から灯りは、松の木からこれに変わった。
俺はアリシアと隣に座って、魔術書を開いていた。戦火の中、アリシアが実家から持ち出してきた魔術書の一冊だ。
「これはどういう意味だ?」
「風」
「これは?」
「接続詞ね。文法的には術式の中で一度だけ使えるものよ」
「じゃあこれで、火と風で魔法陣を組むときはどうすればいい?」
「ええと、それは連立術式を使うから、初心者には難しいわよ」
「教えてくれ。それと、こっちの接続詞だと無限に術式を組めると思うんだけど」
「理論的にはそうだけど、術式が大きくなると、魔力の消費も半端ないわよ。だから術式を細かなブロックにして、リターン・システムで編成構築していくの。そうすれば消費量を押さえられるわ。まあ、それでも数人がかりで発動することになるけどね」
「でも魔石と魔法陣で補助すれば、もっと低コストで出来ないか?」
「それだと地脈の力も借りることになるわよ」
「ひょっとすると、個人の消費魔力が小さくなる代わりに、他から代用品がほしくなるのか?」
「ええ、魔力保存の法則ってのがあんのよ」
「……なんとなくわかってきたぞ」
「こっちは二人が何言ってるのか全然わからないよ。完全に二人だけの世界って感じだね」
クレマンがバケットをむしりながら言った。他のみんなも不思議なものを見るような顔をしている。すると俺とアリシアの間に、リズが後ろから割って入ってきた。
「お嬢様、ミチタカさん、お行儀が悪いですよ。食べている間に本を読むなんて!」
「……すいません」
思わず謝ってしまった。アリシアはため息をついた。
ランナーズ・ハイっていうのはこういう感じなのだろうか。魔術の術式を次々に理解し、覚えることができた。試しに魔術を使っても全然疲れないし、眠くもならない。アリシアに文字を教えてもらって、魔術書も少しずつだが読んでいけるようになった。
彼女の持っている魔術書は、炎の魔術についての記述が多い。アリシアの実家の秘術だからだろう。
俺が得意とする雷の魔術についての記述はほとんどない。どうやら手探りで身につけていくしかないようだ。
俺は寝床に戻っても、魔鉱石の地下水を光らせて、魔術書を読みふけっていた。
「いつまで読んでるの?」
あくびをしながらアリシアが訊いた。読めない字があったときのために、傍にいてもらっている。残念なのは紙と鉛筆がないことだ。翻訳して日本語にしておけない。術式を一言一句間違えずに覚えるしかない。多分俺、人生で一番熱心に勉強しているかもしれない。受験勉強よりも、大好きな歴史の勉強よりも……。
「ねえ、聞いてる?」
俺がいつも寝ている板の上に、アリシアが寝っ転がっている。
「聞いているよ。ここは何て意味だ?」
「雪。ねえ、そんなに急いで魔術を覚えてどうするの?」
「別に、どうしたいとかじゃないよ。面白いから勉強しているだけだ」
「面白い? てっきりこの城と仲間を護るため、って言うのかと思ってたわ」
「それもあるよ。でも、魔術を覚えること自体、面白くなってきちまった」
「……あんた、やっぱり変わってるわ。魔術の勉強なん、て私は辛かった……。でも出来ないとバカにされるし、プライドもあった……。二番目の姉様がね、“私があんたの歳にはこれくらい出来た”ってよく言うのよ。それが悔しくて、悔しくて、好きでもないのに必死で勉強した。魔術なんて、ホントは嫌い……」
「……悪いな、そんな嫌いな勉強に付き合わせて……」
「いいわよ。そんな真剣な顔している人に魔術を教えるのは、悪くないわ。けど、地位でも財産でも見栄でもない、魔術のために魔術を学ぶなんて……真理を得たのは、あなたみたいな人だったのかもしれないわね……」
「伝説になるほどの力なんて、そこまでは考えてないよ。みんなを護れるくらいでいい」
「…………それは難しいと思う……」
「……」
「本当は気付いているんでしょ。どんなに知恵を絞っても、どんなにすごい魔術を使えても、数には勝てない……。あの領主は無能もいいところだけど、親族や周囲の領主が介入してきたら、そのときは農兵じゃなく、軍隊や傭兵が相手になる……。いずれ、みんな殺されるわ……」
戦争経験者は鋭いな。
「私たちの活躍を知ったどこかの物好きな貴族が援軍をよこしてくれたら話は別だけど、そんなのアテにはできないし……。私のときも……戦争が始まる前は、お父様にあんなに媚びへつらっていた連中でも、形勢が不利だとわかると、尻尾を巻いて逃げていったわ……。そしてうちの家族はみんなバラバラ……。一番仲がよかった、魔術を教えていた八歳の弟とも離れ離れになって……それで……」
「……策はある」
俯いていたアリシアが顔を上げた。
「ここを脱出する。段取りがついたら、アリシアがみんなの面倒を見てくれ」
「わ、私が? ど、どうして?」
「貴族って、親戚も貴族なんだろ? 同じくらいの身分の相手と結婚するから。何処かの親戚のところへ行って、面倒見てもらえないか? あの五人は家来ってことで」
「五人? あなたは?」
「俺は自分の世界に帰る」
「それって、異世界ってこと?」
「ああ。そのために、最後までここに残る。この城には、異世界との境界線があるらしい。次元の歪みみたいなものが。その境界線は魔術でしか開けられない」
「だから魔術を覚えるの?」
「そんなつもりじゃなかったけど、今はそれも目的だな。それより、みんなを任せていいか? 宿無し、金無しの生活に慣れている連中みたいだけど、袖振り合うも多少の縁っていうし、アリシアだってリズとだけの旅は心細かったんじゃないのか? あいつらいい用心棒になるぞ」
「……嫌よ、頭悪いから。特にニコラス」
「そう言うなって。腕はたつ……かもしれないじゃないか」
「……腕力だけの人間なんて、安心できない……。もっと頭がよくて、教養のある人に護ってもらわないと……」
「贅沢言うなよ」
「……私は、あなたに……」
「ん? 何て?」
「何でもないわ……」
しばらくすると寝息が聞こえてきた。アリシアは猫のように丸くなって寝ていた。無防備だな、男と二人きりなのに。箱入り娘だからだろうか。
俺はその後も魔術書を読みふけった。魔術の術式をひとつ解くと、次の魔術が解読できるようになる。それを解くと、また新しい魔術が使えるようになる。そうしてどんどん新しい魔術を覚えていくと、読むのを止められなくなった。次の展開が気になって読むのをやめられない小説のようだ。気分が高揚して、疲れも感じなかった。
気付くと辺りが白み始めていた。俺はそこでようやく例の宝箱の中身を見た。改めてじっくりと中の文章を読み直した。これを置いたのは、帝国大学を卒業した海軍士官候補生だった。俺と同じように、百年以上前、この城に迷い込んだらしい。ここは当時まだ魔鉱石を採掘していたという。彼はここで魔術を学び、十数年かけて日本に帰る方法を見つけた、と書いてある。
「イフタフ・ヤー・シシーム」
宝箱に向かって唱えると、蓋の内側がズレて外れた。仕切りが二重になっていたのだ。それも中に全部書いてあった。この世界の人間は日本語を知らない。例え宝箱を開けられても、重要な秘密は守られる。同郷の人間だけに伝えられる暗号として、これ以上のものはない。旧帝大卒だけあって頭がいいな。
二重蓋の中には、黄色と透明な魔石のペンダントが入っていた。黄色の魔石は時空間に干渉するらしい。この城の中で最も次元の歪みが大きい場所で使うと、時空の裂け目が開き、日本に戻れるという。必要な魔術の術式もすべて魔石の中に封じられている。いきなりゲームクリアのアイテムを手に入れてしまった。そしてもうひとつの透明の魔石は……
「おはようございます」
リズの声だった。俺は魔石を慌てて隠した。宝箱の宝を独り占めしたと思われたら厄介だ。
「朝早いんですね、ミチタカさん。せっかく起こしてあげようと思ってたのに♡」
「ああ、魔導書が面白くってね、徹夜しちゃったんだ」
「ふあ~……もう朝……?」
俺の横でむくりと起き上がって、白いシーツの中から顔をのぞかせたのはアリシアだった。リズの表情が固まった。
「あ、あの、お嬢様は……ど、どうして……ここに? もしかして一晩ここで一緒に……?」
「え? うん、そうよ。色々教えてたんだけど、いつの間にか寝ちゃったのね」
アリシアはもう一度あくびをした。
「い、色々教えて……? ひ、一晩中、お、同じ部屋でな、何をしていたんですか?」
「リズ、君何か勘違いしてないか?」
「しかも三人で……」
「……? 三人?」
リズの視線の先を追うと、俺の隣にイリスが居た。今まで全く気付かなかった。
「不潔です!!」
叫ぶとリズは走って去っていった。
「どうしたの、あの子?」
アリシアがキョトンとしている。しかし問題なのはリズではなく、イリスの方だ。
「お、お前、いつからそこに居たんだ? しかもマっ……」
俺は慌てて口を噤んだ。イリスが持っているのは、宝箱から取り出した二つの魔石だった。
「これ タカラ?」
早くもバレるとは……。彼女は魔石のペンダントを胸元に入れて出ていこうとした。
「お、おい、それどうするつもり……」
だがアリシアの手前、しつこく追及するわけにもいかない。イリスが部屋を出て行くのを黙って見ているしかなかった。アリシアが首を傾げる。
「あの無口女、何か持って行ったの?」
「な、何でもない……」
イリス……槍の腕はたつけど、一体何を考えているかわからない女だ