見えない星
二艘の小舟が緩やかな渓流を下っていく。星明かりの中、廃城のシルエットが背後に浮かび、バックグラウンドの渓谷とともにゆっくりと彼方へと離れていく。暗闇の中で、ミチタカは初めて自分のいた古城を外から眺め、その全容を知った。一か月にも満たない期間だったが、住み慣れた我が家を離れるような、親友と別れるような、そんな哀愁を感じた。
ミチタカが乗っている船には、瀕死のイリスが横たわっていた。リズが膝枕をしている。呼吸が弱く、いつ止まってもおかしくなかった。
他の四人が、並走するもう一艘の船に乗って、こちらの様子を伺っている。
「待ってろイリス、今助ける」
「助けられるんですか? 霊薬はないんですよ」
「魔石を使う」
イリスの襟元から魔石を手に取った。ひとつはすでに光を失っているが、もうひとつは透明の輝きを放っている。アリシアが驚いた。
「魔石……あの城に、本当にあったの?」
「あの宝箱の天板に隠してあったんだ。俺と同じ世界から来た先輩が残していってくれたものだ。イリスに預けておいたんだよ。これからイリスの体に魔法陣で術式を描いて、それで魔石のエネルギーを使って蘇生させる。イリス、これ借りるぞ」
ミチタカはイリスの腰からナイフを抜き取った。そして自分の指先を切ると、血でイリスの額に紋様を描いた。魔法陣の外円部だった。術式は顔だけでなく首にも描き、さらにナイフで服の襟を裂いて、鎖骨や肩、そしてその下まで……
「見るな!」
アリシアが叫んで隣のニコラスを引っ叩いた。クレマンとフィーは仕方なく横を向いた。
血の魔法陣は乳房から脇腹へと描かれていく。
そこでミチタカの体が、突然淡い緑色に光り始めた。しかもその存在が少しずつ透明になっていく。驚くアリシアとリズに、ミチタカは笑って答えた。
「いいんだ。地脈で生かされているから、城を離れたらこうなるのはわかっていたんだ」
「ま、待ってよ、ミチタカ消えちゃうの? だったら城に戻らないと……」
「船で流されているんだから、戻るのは無理だよ。でもいいんだ。この魔術を使うには、人ひとりの魂が必要だから」
「どういうこと?」
「この魔石を作った男も、俺と同じように地脈に生かされている、魂だけの存在だったんだ。だからあの城を出たら消えてしまう。でもずっと城にいるのが辛かったその男は、魔石を使って外へ出るための方法を二つ作ったんだ。ひとつは、元の世界に戻る方法。でも、すでに肉体が滅んでいたら、そこで成仏するだけだ。だからもうひとつの方法を使って、城を出たらしい。それは、自分の魂と人格を他人に移す方法だ。この透明な魔石は、他人の体を乗っ取る術式が組まれているんだ」
リズが顔を上げて、躊躇いながら訪ねた。
「あ、あの、それだと、イリスさんの人格は……」
「ああ、俺がイリスの体を乗っ取って、イリスは消えてしまう。だがそうならないように、イリスの体に魔法陣を描いて、魔石の術式を上書きするんだ。そうすれば俺の人格はフィルタリングされて、魔力と魂のエネルギーだけ送り込むことができる。それで蘇生するはずだ」
「でも、でも、それじゃあミチタカさんが死んでしまうんじゃ……」
「……すでに死んでいるよ。それにどっちみちこのままじゃ消える。だったらこの命、誰かを生かすために使った方がいい」
「でも、でも……」
「いいんだ。ここに来て、俺はようやく、生きている意味を見つけた気がするんだ」
「え……?」
「俺の産まれた世界はな、人生の選択肢が多すぎて、何が最良なのかわからない世界なんだ。将来の進路を決めろといわれても、俺は何になりたいのかわからなかった。目標がないから、ただ仕方なく親の期待に応えようと頑張ったけど、でもずっと何のために生きるべきなのかわからなくて、苦しくて、悩んでいたんだ。けど、みんなを見ていたら、甘ったれてるだけなのかなって思ったよ。みんなは辛い過去を背負って、その日のパンにも困っているのに、それでも必死に生きてた……。そんな姿を見ていたら、俺はなんてつまらないことで悩んでいたんだろうって……。ニコラス、お前、生きている意味なんて考えて悩んでいる奴は、真剣に生きてない証拠だって言ったよな」
「お、おう……」
「いいこと言うな、流石は俺たちの王子だ。なかなか堪えたよ。俺は……こんなのは本当の自分じゃないって、変な理屈をこねくり回して、ゴチャゴチャ余計なこと考えて、何をしてたんだろう……。もっとシンプルに、自分の望むものを求めればよかったんだ。本当は死にたくなかったのもわかった。あんなことで死ぬことはなかったんだ……。俺の人生、後悔と未練だらけだった……けど、最後にみんなに会えてよかったよ……。生きててよかったって、初めて思えたんだから。死んだ後なのにな……」
魔法陣はイリスの足の指先にまで描かれた。彼女の全身、余すことなく血の紋様が描かれている。
「これで完成だ」
ミチタカは魔石を手にした。
「待ってください。消えないでください! 私たちにはまだミチタカさんが必要なんです! それに私……、私……」
リズが泣きながら懇願した。
ミチタカは振るえる口角を無理やり上げて、笑顔を作った。
「俺も、みんなとこの世界を見て回りたかったな……」
そう言って夜空を見上げた。ここの星はいつも輝いていて、よく見える。
「地上の光が強すぎると、空の星は見えなくなる。でも、見えていなくても、星は確かにそこにあるんだ。同じように、見えなくなっても、俺はみんなの傍にいる……必ず。だから……これで、俺を外の世界へ連れて行ってくれ……」
ミチタカの髪が再び緑色に染まり、その魔力を受けて魔石が輝き始める。さらにイリスの体に描かれた血の魔法陣も、共鳴して緑色に光りだした。
「…………ダメ」
意識を失っていたと思われていたイリスが、魔石を持つミチタカの手を取っていた。
「死んだふりして聞いていたのか……。そうだイリス、苗字をつけてやる約束だったな。色々考えたんだけど、ラクシュミーってのはどうだ? 俺のいた世界にインドって国があるんだけど、そこで植民地支配と戦った勇敢な王妃で、戦士の名前だ。今日から君は、イリス・ラクシュミーだ。気に入ってくれたかな? ネーミングセンスないけど、結構頑張ったんだぜ」
言い終えると、ミチタカはイリスに唇を重ねた。
キスをしている二人を、より一層神々し光が包む。
やがて唇が離れた。イリスが最後に見たのは、ミチタカの満面の笑みだった。
光が消え、再び深い闇がイリスたちを覆った。体中の痛みと気怠さ、そして描かれていた血の魔法陣が消えていた。
同時に、ミチタカの姿も消えていた。
彼女は見えない暗闇の中、手探りで捜したが、何処にもいなかった。全ては幻だったかのように。誰かのすすり泣く声が聞こえた。
小舟は行先の見えない川を静かに下っていった。