川辺
食事が済むと、みんな思い思いに自分の決めた部屋に引き上げていった。アリシアは相変わらず馬車で寝ている。
みんなが寝たのを見計らって、俺は城の下を流れている川に下りた。この世界の住人は二、三日に一度しか体を洗わないようだが、日本人はやっぱり毎日風呂に入りたい。といっても川での水浴びしかできないが。
満月のおかげで、火を灯さなくても、岩を削った崖の階段をおりることができた。他に明かりがないと、月はこんなにも明るいんだな。
傍の岩に、用心のための剣を置いた。夏も終わりで、川の水は結構冷たい。だが満月の夜に、全裸で思い切り手足を広げて泳ぐのは気持ちがいい。
しかし、この先どうすべきか……。背泳ぎで月を見上げながら考えた。
あの領主とピエールが相手なら負ける気はなしない。でも食料が豊富にあるわけじゃない。ずっとここに住むわけにもいかない。だがここを出て、俺は生きていけるだろうか。俺の知識は、この世界でどこまで通用するのだろう……。
水面の闇がやたらと不安を煽る。さっきまでのにぎやかな食卓と違い、一人でいると虚無感が津波のように押し寄せてくる。それに溺れないよう、水中で必死に手足を動かした。
実はこの川辺は、俺がこの世界に来た場所だった。気づいたらずぶ濡れでここに倒れていたのだ。俺は思い切って川底まで潜ってみたが、日本に帰る道なんてなかった。仕方なく水面に上がって空を仰いだ。
この心細い気持ち……、俺はホームシックなのか?
「あの月は、同じ月なのか?」
そこで不意に誰かのくしゃみが聞こえた。
「誰だ?」
水面に人影がよぎった。川岸に上がってすぐに剣を手にした。領主のスパイ、あるいは暗殺者か。岩陰に隠れたのがわかった。
足元の石を拾って、岩の反対側に投げた。石がぶつかった音に驚いて、敵は飛び出てきた。すかさず腕を取り、剣の切っ先を突きつけた。甲高い悲鳴が渓谷に響いた。月が照らす少女の顔を見て、俺も悲鳴を上げそうになった。
「り、リズ……?」
涙目で俺を見上げるリズ。しかも彼女は全裸だった。そして俺も全裸だった。
「あ、あああぁぁ、わ、悪い!」
慌てて手を離すと、リズはその場に膝をついた。俺は彼女を見ないように後ろを向いた。
「な、何で君が? 女の子たちが水浴びする時間はもっと前じゃ……」
「そ、その時間はお嬢様の体を拭いていたので……。私はみなさんが寝静まった後に……」
使用人は主と一緒に食事も風呂もダメってことか。
「ご、ゴメン。俺、出るよ」
「ま、待ってください。あの……腰が抜けて、立てないのです。手を貸してくれませんか?」
マジか……。
しかし水の中に置いておくわけにもいかないので、背を貸した。おずおずとリズが身を預けてくる。
衝撃だった。背負った瞬間にふくよかな脂肪の塊が、俺の背中に、しかも直接当たってる……。なんてこった、リズ……。君、着やせするタイプだったんだな、何て大きさなんだ。しかも女の子って、体全体が柔らかいんだ。卑しい気持ちはない、全くないと誓えるのに、それでも反応してしまう男の体が恨めしい。リズに俺の前面が見えないか心配だ。
彼女を川岸に置くと、急いでズボンを履いた。裸のままでいたら何をするのか、自分で自分の行動が予想もコントロールもできそうにない。
リズは本当に腰が抜けているみたいで、裸のまま動かなかった。剣を突きつけたりして、本当に悪いことをした。と思うのと裏腹に目がいってしまうのは、両手で隠した豊満な胸だった。
俺は自分のパーカーを彼女にかけてやった。
「あ、ありがとうございます」
「じゃ、俺は戻るから」
このままここにいて煩悩を抑えていたら、精神的におかしくなってしまいそうだ。だが……
「すいません。服がなくて……」
「……何処に置いてある?」
リズが指差した木の枝に、メイド服と下着が掛かっていた。服はいいが、下着を手にするときは流石に躊躇した。が、ただの布切れだと己に言い聞かせ、彼女に手渡した。
「ありがとうございます。あの……」
「まだ何かあるのか?」
「着せて……くれますか?」
「……………………………………んん?」
リズは俺の顔を見てクスクスと笑った。よほどマヌケな面をしていたのだろう。
「冗談です。お願いしたら何でもしてくれそうで、つい……。後ろ、向いていてくれますか?」
「ああ」と短く頷いて後ろを向くと、衣擦れの音が聞こえ始めた。
「……ひょっとして、からかってる?」
「……ご不快になりましたか?」
「いや、君にもそういうところがあってほっとしたよ。ご主人様には献身的で、料理は美味しいし、誰とでも折り合いつけてやっているし、俺とそう歳は違わないはずなのに、メイドとして完璧に振舞っていて。でも頑張りすぎている気がして……無理してたんじゃないか?」
「……」
「アリシアの家族が行方不明ってことは、君の家族も行方不明ってことだろうし、領地を失ったってことは、故郷を追い出されたってことじゃないのか? しかも行き着いた先が、身元の怪しい奴らが集まった廃城じゃ、安心できないよな」
「……」
「俺も、無性に自分の故郷を思い出すときがあるんだ……。今のところ上手くいってるけど、ピエールとの戦いはいつも不安でしょうがないし……それに、こんなところで争いを続けて戦利品を巻き上げていても、いつまでもってわけにいかないから、将来が見えなくて……怖くなる……」
不意に暖かな感触が背中を伝った。リズが後ろから腕を回し、俺のパーカーを羽織らせてくれた。彼女の湿った髪からいい匂いがした。
「そのままでは風邪をひきます。失礼します」
ステップを踏むような足取りで、リズは崖の階段を上っていった。彼女の髪の匂いが、なかなか鼻腔を離れなかった。
住人が寝静まった城は、深夜の学校より不気味だ。自分の部屋に戻ってきたが、辺りはほとんど見えない。月明かりが入らないから、城内のほうが外よりもずっと暗い。
ベッド代わりにしている木の板の上に座ると、想像以上に柔らかい感触がして、「ぎゅっ!」という声が響いた。俺は反射的に声を上げ、飛び退いた。目の前でごそごそとうごめく陰が、小さな口を開いた。
「……リズと 水浴び」
声でイリスとわかった。
「見てたのか……」
褐色の肌は闇に溶け込んでいるが、金色の瞳がコントラストとなって浮かび上がっている。
「水浴び よく見る オレのも……」
「ん……」
実はこの世界に召喚されたときの話には続きがある。川辺に放り出された俺はの目の前には、水浴びをしている全裸のイリスがいたのだ。小柄で線は細いが、無駄な贅肉が一切なく、腹筋の引き締まったスレンダーな身体だった。
だが眼福にあずかる余裕もなく、俺は槍を持ったイリスに追い掛け回された。必死で城に逃げ込むと、そこにニコラスとクレマンとリズがいた。彼らに事情を説明して匿ってもらった。その後も誤解を解くのが大変だった。
「まだ、根に持ってるのか?」
俺が言うと、イリスは顔を近づけて尋ねた。
「……見た か?」
俺は全力で首を振った。
「見てない、見てない……って、どっちのだ?」
「……いつも 見張って る。誰にも 言うな」
イリスは立ち上がって俺の部屋を出て行った。