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廃城の七人  作者: 中遠 竜
20/33

ミチタカ1

                     ■


「せんぱーい、磯崎センパーイ、帰るっスよー」

 その声で、軽いまどろみの中から現実に戻された。ふわふわとした睡魔の感覚が覚め、肩と腰に重力を感じた。ついでに足元の寒気も。座って寝ていたせいで、尻が痛い。

 目の前にはボブカットにした女子高生の顔があった。同じ民俗芸能研究部の一年後輩だ。彼女のくすぐるような柔い声がまだ耳に残っている。

 外を見るともう暗かった。そんなに寝ていたはずじゃないのに、いつの間にか夕暮れは終わっていた。十二月の黄昏時は短い。

「部室、閉めるっスよー」

「ああ、悪い」

 俺は机の上にある赤本とルーズリーフをバッグにしまい、椅子から腰を上げた。

「引退したのに、ここで受験勉強っスか? 図書室か自習室に行けばいいじゃないっスか」

「今日は人が多くて、席がなかったんだ」

 廊下に出ると、底冷えした空気に背筋が固まる。彼女が蛍光灯のスイッチを切った。校舎の三階から見える街の灯りが、澄み切った空気の中に浮かび上がる。その光に彼女のシルエットが映った。部室の鍵を閉めると彼女が言った。

「さあ、帰りましょう。途中まで送るっスよー」

「普通、送るのは俺の方だと思うぞ」

「受験生が風邪をひかないよう、見てあげるんスよー」

 変な後輩だ。まあ、そもそもこの部を選んでいるところで相当変わっている。俺がいた民俗芸能研究部の活動内容は、地元の民俗学や地理の調査、地域おこしのイベントへのボランティア活動、そして祭典のお手伝いなどだ。部員は三十人近くいる、文化部としては大きい方だが、ほとんど幽霊部員だった。部活に来ない生徒はほとんど塾通いだ。いかにも進学校らしい。

 そんな中で、彼女は真面目に参加している部員の一人だった。この前の十月には、大名行列のイベントで侍女役をやっていた。島田髷に黄色の小袖姿はなかなか様になっていた。俺の方は、中間ちゅうげん役で重い鋏箱を担ぎながら、彼女の後を歩いた。

「部長は大変か?」

 校門を出たところで俺は訊いた。

「わかってるんじゃないんですか、元部長? そんなに仕事無いって」

「うーん……そうだったかな?」

「……もう少しで、卒業っスね」

「その前に受験があるんだよ」

「国立の医学部受けるんスよね。すっげー、私は私立の文系かなぁー。でも歴史とかもっと勉強できそうなところにしよーっと。そんで古文書とか読めるようになっちゃおうかなぁ」

「いいな、それ。うらやましいよ。自分で進路決められるなんて」

「ええ、どうして? 先輩の方がずっと頭いいし、医学部っスよ、医学部! 何の不満があるんスか?」

「全部親の都合だって。それに期待されるのって、結構しんどいんだよ」

「何を贅沢なことをー。親が医者で、成績もトップクラス。どう見たって先輩、持ってる側の人間じゃないっスかー!」

「そうかな?」

「そうっスよ、私とじゃ足軽と大名くらいの違いがありますよー。武田の旧臣を手に入れた井伊直政に嫉妬する榊原康政は、こんな気持ちだったのかなっていうくらいのジェラシーっス。持っていない人間の、この気持ちは先輩にはわからないっスよー」

「その例え、俺じゃなかったら校内中の誰もわからんぞ。けど、ホントにうらやましいと思うんだよ。俺も古文書を読んだり、発掘調査とかしてみたいな」

 話しながら歩いていると、街灯の明りの下に、猫が一匹居るのに気づいた。近づいても逃げない。明りの下がいいのか、それとも暗闇が怖いのか?

「来年は私も受験生かー。先輩、そのときは勉強、教えてくれますか?」

「浪人生じゃなかったらな」

「きっと受かりますよ。竹中半兵衛クラスの頭を持つ先輩なら大丈夫っス」

「俺としては太原雪斎の方がいいな」

「えー……」

 受験にも将来の進路にも憂鬱な日々が続いていた。でも彼女といる時間だけは、肩の荷が降りた気がする。受験の重圧も、そのときは忘れられる。

 ただ、こうして二人で帰るようになったのは部活を引退してからだった。

 いい時間だった。駅に着くまでの短い時間がいい。口下手の俺でも話が途切れないからだ。もう少し話していたい、という時間で別れるのがいい。その後は、明日は何を話そうか、という余韻の残る一人きりの帰路が好きだった。

 けどこの下校時間もあと数回で終わりだ。ようやく手に入れた居心地のいい時間なのに……。

 そして高校生活ともお別れだ。

 振り返ると、街灯の下に居たネコは、もう居なかった。


 家に帰ると車庫に赤いアルファロメオがあった。彼女が来ているのがわかり、俺は玄関の前で気持ちを切り替えるために深呼吸した。少し浮かれた余韻のまま眠れるのかと思ったが、最後の課題がまだ残っていたようだ。

 玄関で母が出迎えた。いつもならこんなことはしない。

「タカちゃん、少し身なりを整えて」

 と、手櫛で俺の髪を梳いてくる。俺は短く唸ってその手を払った。

 リビングに入ると、父と向かい合わせのソファにニットワンピースにタイトパンツを組み合わせた格好の女性がいた。父が医局長をしている病院の顧問弁護士の娘で、大学二年生だ。

「おかえりなさい」

 彼女はほほ笑んで立ち上がった。百七十センチ近い長身に、タイトな服からスタイルの良さがわかる。栗色の髪に、鼻筋が通っていて、美人だと思う。

「今日、今年最後の大学の講義が終わったみたいでな、帰りにうちに寄ってくれたんだ」

 ニコニコ笑いながら父が説明した。

 彼女は一か月前に紹介された。それも向こうの親と一緒に。お互いにどういう意図かはわかった。こんな時代に親同士の決めた相手というのはどうか、と思うかもしれないが、地位や財産のある家は気にするものだ。釣り合いがとれないとか、格差婚とかを。

 それに封建的なことでもないと思う。不細工が美人と付き合っていると妬まれたり、別れた方がいいとか言われたりする。しかし美形同士だと何も言われない。そういうのと大差ないんじゃないだろうか。

 母も、価値観や嗜好が違うと上手くいかないものだ、と耳打ちしてくる。価値観の相性は生れ育った環境が似ているのがいいとも。

 ただ彼女は、相手が高校生では困惑しているんじゃないだろうか。

 しかし、そんな素振りは見せない。知的なナチュラルメイクに、香水の香りが自己主張せず漂う。愛嬌があり、コミュニケーション能力も高い。こっちが年下だからか、トークもリードしてくれる。逆に俺が話しているときは、退屈を隠すための長い相槌をしない。自分の見せ方をよく知っているのがわかる。よく知っていて、非の打ちどころがなく、隙も無く、だからなのか、親近感があまり沸かない。

 それに、男をよく知っていそうだ……。

 その日、彼女は夕食を一緒に食べて帰っていった。彼女のアルファロメオを見えなくなるまで送るのは、俺の役目だった。

 家に入る前、玄関から漏れる明りに、俺は立ち止まった。振り返ると、そこは闇だった。

 そうか、俺は進学するのが怖いんだ。ずっと目指してきたけど、いざそれが現実として目前に迫ってきたら、怖じ気づいているんだ。もう高校生こどもではいられないという現実に。

 かといって、光に照らされた場所を出て行くこともできない。

 俺はこんなにも臆病者だったのか? いや違う、これはきっとモラトリアムのせいだ。脳科学的に言えば、思春期における偏桃体の過剰反応にすぎない。この不安は、脳がそう思わせている幻想だ。……と、頭でっかちな理論で押さえ込もうとしても、ホームシックにも似たこの気持ちが消えることはなかった。

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