Q.幼馴染みが猫である確率を求めなさい。 A=プロポーズできないヘタレな僕/(アルル@家出中×1週間の拗ねた沙希)
「例えば、君が嘘をついているとしてさ――」
恋愛小説『日向の彼女』を読み終えた僕は、上機嫌で鼻歌を歌いながら朝食を作る彼女に声をかけた。
「ん? どうしたの?」
こんがりと焼けたトーストにバターを塗る手を止め、僕の投げかけた他愛もない疑問にとぼけたように返した。
「実はさ、沙希って猫だったりする?」
結構、真面目な顔で聞いてみる。
「ん? 猫っぽい?」
出来立てのハニートーストと、目玉焼きプレートをテーブルに置き、悪戯っぽく彼女は笑ってみせた。
僕の彼女。松田沙希とは小さい頃からの幼馴染みで、恋人で、そして同居人である。
幼い頃から頃から家族ぐるみでの付き合いで、小学校の頃はよく沙希の家に遊びに行った。
でも、中学になって沙希に年上の先輩彼氏が出来たのを知り、自然と沙希とは話さなくなってしまった。
高校は別々に進学して、大学卒業して就職。
彼女とはもう会うことはないだろうな。と思った矢先。運命的な再会をした。
社会人1年目、仕事で失敗して落ち込んでいるときに、先輩が気を利かせ連れて行ってくれた小洒落たバーで、同じく先輩OLと来ていた社会人の沙希と、7年ぶりの再会を果たしたのだ。
そのまま昔話に花が咲き、意気投合。
「けいすけ。あれからどうせ女に縁がなかったんでしょ?」
「うるさい。最近まで付き合ってたわ。別れたけどな」
「はいはい。そういうことにしておきますよ」
「沙希は今彼氏いるのか?」
「いませーん。フリーだよ。今日偶然再会したのも何かの縁だと思うし、付き合っちゃう?」
年齢=彼女いない歴の僕の悲しい彼女いたよ。アピールの嘘は沙希にあっけなく見破られ、あまりにも軽いノリで沙希は、ごくごく自然に、一番欲しかった提案をしてきた。
僕の心は沙希に掌でコロコロと転がされているようで悔しかったが、心は躍っていた。二つ返事で頷いた。
そして、付き合って半年、沙希の両親に挨拶をした。
「やっぱり。けいすけ君。あんた達くっつくと思ったわよ。沙希を宜しくお願いします」
「啓祐けいすけ君。娘が色々と迷惑かけるかもしれないが色々と助けてやってくれ。君なら、娘を安心して任せられる。娘を頼みます」
本来、彼女の両親に挨拶に行くイベントは、一発目は追い返されると相場が決まっているが、中学校の入学式の写真を撮り合う仲だった僕達は、えらい歓迎されようだった。
両親への挨拶も終わり、僕達は会社の近くにアパートを借りて半年前に同棲を始めた。
『折角だから、小さい頃飼えなかった猫も飼おうよ。猫飼いたかったけど、お父さんがネコアレルギーでさ』という沙希の提案に僕も了承した。
小学校の頃、沙希と二人でダンボールに入った捨て猫拾ってきて、お互いの両親にこっぴどく怒られた事を思い出していた。
家で飼えなかったし、隠れて公園で代わる代わる餌やってたけど。結局保健所に連れて行かれたんだ。
大人の今ではその子猫がどうなったかは想像に難くない。
だから、あの頃のせめてもの罪滅ぼしにと、沙希と相談して保健所で貰ってきた小さい子猫と、2人と一匹の同居生活が始まったのだ。
4月1日 日曜日。エイプリルフール。
今年の桜は開花は早く、アパートの窓から見える県道沿いの街路樹の桜の木は所々葉桜が目立っていた。
「いくら嘘ついても良い日だからって、実はあたし、ネコなんだよって言うと思った?」
「うん、なんとなく。言うかと思ってさ」
僕は曖昧な返事をして読み終わった恋愛小説をテーブルの上に無造作に置いた。
なんとなく、この本を読み終えた僕は目の前のフィアンセが何故か、ネコにしか見えなかった。
そういえば、飼い猫のアルルがいなくなってしまってもう3週間も経つんだな。
残すところ、最後の一大イベントを残すのみとなったが。
なかなか言い出せないまま、同棲から半年が経過していた。
煮え切らない僕に愛想を尽かしたのか、沙希は、3週間前に家出をした。
幸い、1週間で戻ってきたが、今度は飼い猫のアルルが家出をしてしまった。
「あ、それ。その本知ってるよ。恋人がネコだったってやつでしょ?」
「え? 沙希って本読んだりしたっけ?」
「う~ん。漫画とかなら読むけど、小説はからっきしダメ、眠くなっちゃうもん。でも、この前TVでその本特集してたから大体内容は知ってる。今度映画化するんでしょ? あたし、小説はダメだけど、映画ならね。今度二人で見に行こうよ」
「いいよ。それにあの子のビラ配りもね。早く見つけてあげないとかわいそうだ」
「うん。アルル早く見つけてあげないとね」
累計出版部数100万部を突破した『日向の彼女』は連日メディアに取り上げられ程人気沸騰中の恋愛小説である。
幼馴染みの同級生の女の子と社会人になって偶然出会い、二人は恋に落ち、結婚するも、ある日彼女は突然消えてしまう。
探し回る主人公、だが、彼女に関わる全ての人達から、彼女に関する記憶が全てなくなっており、彼女の存在そのものがいないものとなっていた。
実は彼女は主人公に恩返しするために人間に化けたネコで、主人公と過ごすもネコとしての寿命が来てしまい主人公の前から消えてしまう。そんな悲しい物語。
そう。僕達の出会いも。つい今しがた読み終わったベストセラー小説ととてもよく似ていて。
少し、心配になったのだ。物語と同じで彼女は実は人間に化けた猫で、そのまま僕の前から永遠に居なくなってしまうのではないか? そんな非現実な事あるわけないのだけど。
物語では彼女は戻ってこなかったが、沙希はちゃんと戻ってきてくれた。
だから、エイプリルフールの今日。僕のブラックジョークを受け止めてくれるかと思ったのだが。
「沙希は家出しちゃったあるるの気持ち分かるかな? プチ家出の先輩として」
「それを答えるには、凄く凄く。悲しいなって思うの。この意味分かるかな?」
「気持ちをはっきりさせろってこと?」
「のーこめんと」
ほっぺたを膨らませて沙希は拗ねたように返す。
うん。早いうちにイベント終わらせないとな。
またプチ家出されたらたまらない。
「あのさ、沙希」
「ん? 何?」
「旅行行かない? 2泊3日くらいの温泉旅行」
僕は覚悟は決めた。
◆
薄暗い階段を上り、改札の出口に向かった僕達の頬を柔らかい風が頬を撫でていった。
桜散る、春。
アパートから徒歩5分の駅前で、僕達は居なくなった同居人アルルがプリントアウトされたビラ配りをしていた。
お互いの休みが合う日曜日。アルルが居なくなってから、午前中は沙希と一緒にアパート周辺の駅前か公園で地道な捜索活動を継続中だ。
「宜しくお願いします。真っ黒の猫で、オレンジ色の首輪にピンクのリボンがついています」
「見かけましたら、こちらの番号まで宜しくお願いします」
1時間かけて沙希と手分けして配った愛猫の写真と連絡先が印刷されたビラが、残り10枚を切った時だった。
「啓介?」
背後から不意に声を掛けられ、僕は声のする方へ振り向いた。
振り返ると、そこには見知った人物、親友のアキラが立っていた。
「やっぱり、啓介だ。お前大丈夫かよ。何度も電話したけど電話に出ないから心配したんだぞ?」
久しぶり会った親友のアキラは何の冗談か、血相を変えて心配そうに話す。
「大丈夫だよ。彼女ならすぐ見つかるさ。もしかして心配してくれてるのか?」
大学で出会った親友アキラも、たまに家で飲む仲間で、うちのアルルを可愛がってくれていた一人である。そんなに心配してくれるとは思わなかったけれど。
でも、あるるが居なくなったことをアキラに話したっけ?
まあ、ビラ配りしてるのを知り合いから聞いたとか、どうせそんなとこだろう。
「……いや、立ち直ったかどうか心配だったからさ……大丈夫そうならいいんだ……そうだな。お前が元気そうでちょっと安心した。俺でよければ力になるから」
「じゃあ。アルルを見かけたら連絡してくれよ。それが一番だ。お前も、早く戻ってきて欲しいだろ」
そんなやりとりをして、僕たちは別れた。
猫くらいで、心配しすぎだな。アキラは。
いや、あれだけアルルを可愛がってたアキラに失礼だな。
アルルは立派な家族だ。
自分の家族が居なくなったように心配してくれるアキラは本当に良い親友だよ。全く。
今日の成果。沙希とあわせてビラ122枚。目撃報告なし。
◆
約束の温泉旅行は、日曜日の捜索活動から2日後の事だった。
週末を待たずに、急遽有休を取り温泉旅行を手配したのは、もたもたしているとまたプチ家出をされかねないと思ったからだ。
ああ、解ってる。
覚悟を決めたんだ。
今度こそ、沙希にプロポーズする。
決戦の地は熱海。
今主流のネット予約ではなく、熱海のホテルの受付に直接電話して「記念日ですので」と念を押して予約を入れた。
生涯一度の大勝負に打って出るのに、ネット予約では何故か、いい加減な気持ちで決戦の地に望むようで嫌だったのだ。
この日のために貯金の3分の1を投じて用意したダイヤの指輪を懐に忍ばせ、僕は2日間の内にどのタイミングで話を切り出そうか迷っていた。
1日目の夜。チャンスはやってきた。
ジャズミュージシャンの生演奏が流れるホテルの最上階のレストランで僕は機会をうかがう。
神崎様と書かれたネームプレートが置かれた席に僕たちは着席し、料理を注文することにした。
ホテルの最上階のレストランから見える熱海の夜景はとても綺麗で、沙希も上機嫌で、軽快に流れるジャズのBGMを鼻歌で歌っていた。
彼女から、ふわりと、ラベンダーの香りがした。沙希のお気に入りの香水だ。
『ここぞって言う時につけるんだよ。私、滅多に香水なんてつけないんだからね。特別な日だけ』
そんな事を昔、沙希は言っていた。
確かに、ラベンダーの香水を付けていた日は片手で数えるほどしかないが、沙希にとって特別な日だったのかもしれない。
つまり、今日は沙希にとって、片手で数えるしかない、特別な日なのだ。
「けいすけ。めちゃくちゃ綺麗だよ。なんか二人で旅行って久しぶりだね」
「うん。あの時はアルルも一緒に行ったじゃん。沙希が家に置いていくのはかわいそうだからって言って」
「そうだね。あの時は二人じゃなくて二人と一匹だ」
「ふふ、アルルも連れてきたかったなぁ」
「いや、今回ばかりは二人で来たかったんだよ」
「それってどういう意味?」
「それを言わせるのかい?」
「ん?なんのことだか」
とぼけた顔で、沙希はそんな事を話したあと、「ちょっとお化粧直しに行ってくるね」と言い残し、席を立った。
完全に、はめられたよなあ。
プチ家出という交渉のカードをちらつかせる沙希はどうしても、僕にプロポーズをさせる気らしい。それに乗っかってしまう僕は沙希の事がどうしようもなく好きになってしまったんだ。
でも、沙希ってこんなに戦略的だったっけ?
先に飲み物と料理を注文しておくか。
呼び鈴を鳴らし、二人分の飲み物と、二人分料理を運んで欲しいと若い女のウェイターに伝える。
「お客様。お連れの方がまだいらしていませんが、お料理をご用意してもよろしいですか?」
「え?もう到着しているよ。今はお化粧直しに行ってるんだ」
「失礼ですが、お客様。本日はお一人でいらっしゃったようですが、本当にお料理を運んで宜しいのですか?」
「今日は記念日なんだよ。それに君は僕たちが一緒に席についたのを見てなかったりする?」
おかしな事をいう。レストランに入るときも沙希と一緒に来たはずだ。
誰かと勘違いをしているのだろうか?
と、そこへ年輩の女性ウェイターが割り込み、
「大変失礼しました。お客様の大切な記念日に申し訳ありません。他のお客様と勘違いを致しておりました。今からお料理を運ばせていただきます。ごゆっくりとおくつろぎくださいませ」
そう言って、若いウェイターを連れて奥へと引っ込んでしまった。
何なんだ。一体。
沙希がしばらくして、戻ってきたが、結局。プロポーズは言い出せなかった。
何故か、沙希は料理には手を着けなかった。
ああ、分かってるよ。僕はヘタレだ。
◆
「なあ。沙希」
「ん? 何?」
「結婚しようか」
「は?」
プロポーズは突然だ。
家族湯の湯船に二人で浸かり、未だに機嫌が治らない沙希に僕はそう切り出した。
「……あのねえ……」
「ダメか?」
「ムードもへったくれもないよ! 何で今!? しかも温泉入ってる時!?」
「…………ダメ?」
「ダメじゃないけど……もっとこう。言い方ってもんがさ。はい。じゃあやり直し。今度はちゃんとやってね。テイク2だよ。はい。3。2。1。アクション!」
僕のド直球のプロポーズに意義を唱え、映画監督が、リテイクするように沙希は両手でぱちんと慣らして催促した。
「沙希。お前のことを愛している。これからもずっとずっと側にいて欲しい。これから沙希を幸せにする。だから結婚してくれないか?」
べたすぎる僕のテイク2に沙希からまたダメ出しが来ることを覚悟していた。
「凄く凄く嬉しい。今日死んじゃってもいいくらい。はい。不束者ですが、よろしく御願いします」
だめ出しは来なかった。
「こちらこそ。よろしく御願いします」
涙を流しながら。
彼女は小さな声で「ごめんね」と呟いたのを僕は聞いた気がしたが、あえて尋ねるのはやめた。
誰に対しての。
ごめんねなのか、今の僕には分からなかった。
◆
4月8日。日曜日。今週もアルル探しに進展はなし。
アルル探しの帰りにちょっと遠出をしていろいろと買い物をしていたら、日も落ちて大分暗くなっていた。僕たちの愛の巣に戻ったのは、19時を過ぎた頃だった。
2泊3日のプロポーズ大作戦は大成功を納め、正式なフィアンセとなった沙希は薬指に光る婚約指輪をマジマジと見つめながら、「奥さんになっちゃうのかぁ」とまんざらでもなさそうに呟いた。
「ねえ、私ってずるいと思う?」
「いきなりなんだよ。確かにプチ家出作戦といい、沙希は結構ずる賢い性格してると思うけど」
「そっかあ。ねえ。けいすけは今幸せ? 私、今でも夢見てるみたいで、こんなに私幸せでいいのかなって」
「さっきから、沙希変だぞ。そりゃあ、幸せに決まってる。だって、最高の嫁と一緒になれたんだからさ」
「夢から覚めないようにしていくのって。案外難しいんだね。でも、けいすけがそれでいいなら、私も努力するよ」
「今日の夕食どうしようか。カレーとシチューのルーも材料の野菜も買ってきてあるし。どっちにする?」
沙希に夕食の選択を委ね、ずっしりと重い買い物袋2つリビングに下ろすと、テーブルに書置きを見つけた。
『けいすけへ。一人になってから、あんまり食事を取ってないだろうから、ご飯を持ってきました。冷蔵庫に肉じゃががあるので食べてください。寂しかったらいつでも実家に帰ってきなさい。 母より』
一人? 母ちゃん。沙希が戻ってきたこと知らないのかな?
沙希が1週間プチ家出をしたことは言ってない筈だけど。
プロポーズしたこと、まだ伝えてなかったっけ?
「おーい沙希。ご飯作るの中止だ。うちのおかんが肉じゃが作ってきてくれたみたい。冷蔵庫に入ってるからレンジで暖めといて」
とりあえず、夕食のお礼と、近況をおかんに伝えないとな。
おかんに御礼の電話をかけようとスマホをポケットから取り出そうとして、そこでやっと僕はスマホを家に置き忘れてきたことに気が付く。
おかしいな。出かける前にちゃんと確認したはずだけど。
リビングに置き忘れたスマホを手にし――
不在着信97件。留守番電話52件あります
今日
おかん17:22
おかん16:20
アキラ12:11
アキラ10:16
アキラ9:35
アキラ8:46
アキラ8:10
スマホの画面に表示された、異常なまでの着信履歴と、伝言通知。
何だよ。これ。
何があったんだよ。
僕はスマホを耳にあて一番最新の留守番電話を再生する。
『ピーーーーーッ おかんだけど……ご飯作っておいたからね。もうすぐ沙希ちゃんの49日も近いからね。
沙希ちゃんの親も大変だけど、あんたもしっかりせんといけんよ。先方にもちゃんと出席するか連絡しておきなさい。いつまでもグジグジしてても沙希ちゃんも浮かばれないよ。あんたがしっかりすることが沙希ちゃんの一番の弔いになるんだから。いつでも戻ってきなさい。また電話するからね』
「何を…………言ってるんだ……? 沙希はここにいるじゃないか」
震える手で。
僕の中に呼び起こされた。想像も出来ない感情。
これが一体何なのか。僕には分からない。
体が、脳が。拒否している――――。
だけど。
だけど――――
何かの間違いだ。
ドッキリだ。
そうであって欲しいのだ。
だからこそ。
本当かどうか。確かめるのだ。
そして、アキラの留守電を再生した。
『けいすけ。本当にお前大丈夫か? この前は大丈夫そうかと思ったんだけど、お前の会社の俺の友達がさ、お前が急に有給を取って旅行に行くって言ってたから、心配になって電話したんだよ。まさか、お前死のうなんて思ってないよな? 沙希ちゃん亡くなったからってお前も後を追って死のうなんて馬鹿な考え起こすなよ。お前と連絡取れるまで、俺は何度も電話するからな。とりあえずこれを聞いてたらすぐに連絡をよこせ!』
『メッセージは以上です。このメッセージを消去する場合には3を――――』
事務的な録音メッセージを最後まで聞き終える前に。
「沙希ッ!!!!!!!!!」
僕は大声で沙希を呼んだ。
そこにいるはずの沙希。
今しがた。
沙希はおかんが作ってくれた。肉じゃがをレンジで暖めてテーブルに持って行く頃合だろう。
しかし、むなしく響いた愛するフィアンセに向けた言の葉は。
返事の代わりに返ってきたモノは。
「けいすけ。何?」
という。聞きなれた愛らしい声ではなく。
『ガチャン』という、暖められた肉じゃがが真っ白いお皿の破片と共に床に飛散した盛大な音だった。
沙希は――――
それから二度と僕の目の前に姿を現すことはなかった。
◆
「―――神崎さん。一度は捜索願を受理しましたが、取り下げてもらえませんか? ご家族のほうにも、連絡を入れました。何度も確認しましたが、病院のほうにもちゃんと死亡診断書が出ているのですよ。何度も言うように、松田沙希さんは6週間前に、亡くなってるんですよ? 死んでお墓に入っている人間を捜索して欲しいなんて警察をからかうのはやめてほしいんですよ」
「そんなはずはない。一昨日まで、沙希は一緒に居ました。一緒に過ごしていました。だけど、急に居なくなったんです」
1時間ほど、現実という名の怪物と戦い。警察署を後にする。
無慈悲ともいえる現実を直視できず。
受け入れられず。
ただ、ただ。
僕は現実に抗う。
沙希と過ごした、プロポーズ大作戦の日々は?
一緒にアルルを探した日々は?
僕の脳内のどこかで。
彼女の死を受け入れられなかったのか?
僕は分からない。
でも、確かに現実だった。
あれから――――
断片的だが、少しずつ。僕は思い出していた。
沙希が3月1日に交通事故に遭いトラックに跳ねられ、危篤状態で病院へ搬送。
医師の懸命の治療の甲斐もむなしく、彼女はその日に息を引き取った。
青信号で横断歩道を渡っていた沙希を歩行者に気づかなかった右折してきたトラックに跳ねられたのだ。
トラックに跳ねられたことを知り、大急ぎで病院に向かった僕を待っていたのは、大学病院で、人工呼吸器と何本ものチューブと点滴と心電図の機械に繋がれた沙希の変わり果てた姿。
深夜の大学病院の待合室で、人目もはばからず号泣したこと。
沙希の告別式に出席するも、途中で抜け出して、一人パチンコ屋に向かったこと。
涙は。
流れない。
流れるはずがない。
だって、彼女は死んでないのだから。
僕は選択した。
彼女は。
僕の沙希はこんなところには居ない。
こんなに、体が冷たいはずはない。
『啓祐君が良ければ、沙希の骨を一緒に拾ってくれないか?』
気を使っていた沙希の家族の申し出に。
『沙希は死んでいません。ここにいるのは沙希じゃない』
僕はそう答えて。僕は式場を後にした。
ここではない。どこかへ。
ここに居るのは。沙希じゃないんだ。
僕はここからいち早く離れたかった。
――――だって、こんなところにいたら、本当に沙希が死んじゃったことになるじゃないか。
◆
3月8日
沙希が交通事故にあってから1週間経った。
沙希が家に戻ってきたんだ。入れ替わるようにアルルが家出しちゃったけど。
ほらみろ。沙希はピンピンしている。
いつもどおりの笑顔で。
拗ねた顔も。
全部が愛しい。
うん。今度こそ。沙希に伝えよう。
愛しているよ。結婚しようって。
◆
『1件のメッセージをお預かりしています』
事務的な音声ガイダンスに従い、最新のメッセージを再生する。
「お宅の探していた猫ちゃん無事みたいです。公園で保護したと連絡がありましたよ!見つかってよかったですね。今、保健所で一時的に預かってるそうです。確認をお願いします」
保健所で再会した家族は。僕を見ると申し訳なさそうに「にぃ」と泣いた。
彼女を抱いて、やさしく人差し指で鼻を撫でる。
「お前、6週間も一体どこで何をしていたんだ?」
座敷猫の癖に、6週間も外にいたわりにはご飯に困っていた様子もなく、とても身奇麗だ。
そして、愛猫から香る何故か懐かしいラベンダーの香りが、僕の鼻腔をくすぐった。
全身真っ黒で、オレンジの首輪にピンクのリボン。
6週間。沙希と探し続けた家族。間違いなくアルルだ。
「アルル。やっぱり嘘ついてたじゃないか―――」
彼女の首輪に縫いつけられたダイヤの指輪をみつけて僕は全て理解した。
「お前勝手に沙希の香水使ったろ?」
その問いに、答えるかのように彼女はもう一度、「にぃ」と鳴いた。
僕は黙って、優しく抱きしめ「ありがとう。大好きだよ」と呟いた。
作品が良かった。
アルルは良い彼女
そう感じた方は、下部より評価などしていただけると励みになります