第二十七話 骨董品屋にご用心
今日、愛奈ちゃんと勇子ちゃんと友香ちゃんの三人は、夏休みの宿題の読書感想文に使う本を借りる為、町立図書館に来ていました。
学校の図書室で借りてもよかったのですが、相談の結果、もっとたくさんの本が納められている所で、思いきり探したいという事になり、ここに来たのです。
「いい? 私達はあくまでも、宿題に必要な本を借りる為に来たんだからね?」
「わかってるよいさちん。何でそんなに念を押すのさ~?」
「あんたがふざけないように念を押してるのよ!! ほっとくとすぐふざけようとするんだから!!」
「……ちぇっ」
「ほらふざける気だった!!」
「二人とも、そろそろ行く。急がないと、お盆までに宿題が終わらない」
「……そうだったわね。愛奈、くれぐれも、真面目に本を選びなさいね」
「わかってるってば」
いまいち信用出来ない勇子ちゃんでしたが、こんな所で話し込んでいては、いつまで経っても宿題を始められません。勇子ちゃんは何度も注意しながら、愛奈ちゃんは何度も注意されながら、友香ちゃんはそんな二人を白い目で見ながら、図書館に入っていきました。
◇◇◇◇
図書館内部。
(予想通り、すごい数の本ね……)
図書館では静かに。マナーを守る為、思った事を心の中で呟くだけに留めておく勇子ちゃん。
ここに来るのは実は初めてだったりしますが、本の数に圧倒されています。
(いけないいけない。早く本を探さなくちゃ)
見とれている場合ではありません。勇子ちゃんは本を探し始めました。
(どれがいいかしら……)
なかなか使えそうな本が見つからない勇子ちゃん。あんまり難しいと内容が理解出来ませんし、かといってあんまり簡単すぎると周囲から浮いてしまいます。
(やっぱりここは、無難に世界の名作とか………ん?)
勇子ちゃんは、後ろから右肩を叩かれました。何かと思って振り向いてみると、無表情で立っていた愛奈ちゃんの人差し指が、ぷに、と勇子ちゃんのほっぺに刺さりました。
(言ったそばからふざけてるし)
今ここでスーパーハリセンでしばく訳にはいかないので、じろりと睨み付けるだけに留めておきます。愛奈ちゃんを無視して、また本を探し始めました。
(世界の名作なら、その類いの本をまとめて置いてある、コーナーみたいなものがあるはずよね)
探す勇子ちゃん。一分ほど探して、世界名作全集コーナーを見つけました。
(あったあった! じゃあこの中から一冊選んで……)
本を吟味している最中、また肩を叩かれました。絶対愛奈ちゃんです。
(今度は何よ……)
うんざりしながら振り向く勇子ちゃん。
そこには、両手を広げて片足で立ち、頭と左腕に分厚い百科事典を三冊ずつ乗せている、愛奈ちゃんがいました。右腕には乗せていません。
バランス感覚の自慢でもしたいのでしょうか、ものすごいドヤ顔をしています。
(ツッコまないわよ)
またしても睨み付け、勇子ちゃんは吟味の作業に戻ります。
次の瞬間、後ろからドサドサドサッ! という音が聞こえました。
(今落とした!!)
調子に乗っていた愛奈ちゃんは、百科事典を落としてしまいました。
(……これにしようかしら? でもちょっと難しそうね……こっちなら……)
それすらも無視して、あれでもない、これでもないと本を吟味する勇子ちゃん。もう六年生ですから、難しい本に挑戦する事も必要ですしね。
(よし、これにしよう!)
ようやく借りる本を決めた勇子ちゃんの肩を、また愛奈ちゃんが叩きました。
「……」
無言で振り向く勇子ちゃん。そこには、左手で鼻の頭を押し上げ、右手で吊り上げるように鼻の穴を広げている、変顔の愛奈ちゃんがいました。
何度注意しても、何度無視しても、全く懲りずにふざけ続ける愛奈ちゃんに、勇子ちゃんはとうとうキレました。
(テアーラさん。今すぐ私と愛奈以外の時間を止めて)
(了解でーす)
心の中で勇子ちゃんが語りかけると、手元にスーパーハリセンが現れ、時間が止まります。
「え? あれ?」
愛奈ちゃんは雰囲気の変化に困惑しています。勇子ちゃんにとっては二度目に見る光景であり、特に驚いてはいません。
誰にも怒られる事のない空間を作った勇子ちゃんは、愛奈ちゃんに素早く近付き、
「ふざけんなっつってんだろうがこのドグサレがーーーーーーーー!!!」
「ノンストップアワー!!!」
スーパーハリセンで高く打ち上げました。
「時間を動かして」
「はいはーい」
愛奈ちゃんが落ちるのを待ってから背を向けた勇子ちゃんは、テアーラさんにお願いして時間停止を解除してもらいます。
スーパーハリセンも消えるので、結果、勇子ちゃんは本を選んでいるのに、愛奈ちゃんが勝手に倒れているという、愛奈ちゃんだけが痛い思いをする状況が出来上がりました。
◇◇◇◇
図書館の外。
「二人は本当に仲がいい。こんな所でじゃれ合える人なんて、なかなかいない」
「じゃれ合ってたわけじゃないわよ!!」
反論する勇子ちゃん。
「そんな事より、あんたはちゃんと選んだわよね?」
「もちろん」
勇子ちゃんに訊かれて、友香ちゃんは持参したバッグの中から、一冊の本を取り出します。
表紙には『もう有情』と書かれていました。
「後ろに書いてあったけど、主人公が何度もひどい目に遭いながら、それでも生きる事は素晴らしいって感じる話、らしい」
「タイトルはふざけてるけど、結構難しそうな本ね……まぁあんたには大した事ないんでしょうけど」
友香ちゃんはよく読書をしているので、ある程度は難しい本も読めるのです。
「まるであたしみたいな主人公だね!」
「あんたは自業自得でしょうが。で、あんだけふざけてたんだから、もちろん真っ先に選んだんでしょうね?」
皮肉交じりに言う勇子ちゃん。もし選んでないとか言ったら、またツッコミを入れるつもりです。
「当たり前じゃん。二人を待ってて暇だったからふざけてたんだよ」
そう言いながら、愛奈ちゃんも借りてきた本を見せます。
表紙には、『見習い魔女ルア』と書かれていました。
「ルアっていう修行中の魔女が、吸血鬼と人間の間に生まれた魔女と出会って、自分達の命を狙ってくるハンターと戦いながら成長していくって話。元は『Blood Red』っていう小説で、子供でも読めるように訳した本なんだって」
「あんたが好きそうな話ね。まぁ読書感想文の題材としては、そこそこって感じかしら」
「面白そう。感想文に使い終わったら貸して欲しい」
「いいよ! いさちんは何借りたの?」
「私はこれ」
最後に、勇子ちゃんが本を見せます。
表紙には、『巌窟神』と書いてあります。
「洞窟で自殺しようとしてた人が、洞窟に封印されていた神様と出会って、成功していく話よ。最後には神様に恩返しする為に、協力するの」
「なるほど、サクセスストーリー」
「あたしはあんまり神様とかにいい思い出がないんだけどなぁ……」
「いいじゃない別に」
ともあれ、これで読書感想文に使う本は決まりました。あとは、読んで内容を理解し、感想を書くだけです。
「帰りにアイスでも買っていかない?」
「あんたにしてはいい事言うわね。今回は賛成よ」
「私も」
アイスを買って食べる事にした愛奈ちゃん達は、コンビニを探して歩きます。
「そういえば、あんた勝希は誘わなかったの?」
「忙しいからって断られちゃった。わざわざ探しに行かなくても、私の家には世界中から取り寄せた名著があるからいい。だってさ」
「流石大企業の御曹司ね……」
「抜かりがない」
次期総帥ともなれば、読書による教養の錬磨にも余念がないのです。
「ん?」
三人がそんな話をしながら歩いていると、突然勇子ちゃんが足を止めました。
その視線の先には、人通りの全くない、薄暗い路地裏が続いています。
「どしたのいさちん?」
「……こんな所に路地裏なんてあった?」
「えっ?」
言われて、愛奈ちゃんと友香ちゃんも、路地裏を見ます。
「ホントだ。いつできたんだろ? ね、ちょっと入ってみようよ!」
「え、アイスは?」
「後!」
知らない道を見て、子供の血が騒ぎ、愛奈ちゃんは先導して路地裏に入っていきます。
「勇子。追い掛けた方がいい。何だか嫌な予感がする」
「え?」
どうやら友香ちゃんは、この路地裏に対して、何かただならぬ気配を感じたようです。
「……しょうがないわね……」
このまま放置して、大惨事にでもなったら大変です。勇子ちゃんと友香ちゃんは、どんどん路地裏に入っていく愛奈ちゃんを追い掛けました。
見慣れない路地裏を進んだ先。一番奥の行き止まりに、小さな古ぼけた木造の店がありました。
「何、この店?」
「……読めないよ」
愛奈ちゃんは、店の上の方に架けてある看板を読もうとしましたが、英語で書いてあって読めません。友香ちゃんは看板を、じっと見ています。
「中に入ってみようよ。売り物で何の店かわかるかも」
「あっ、ちょっと愛奈!」
構わず店内に入っていく愛奈ちゃんと、慌てて追い掛ける勇子ちゃん。二人の喧噪に気付いて、友香ちゃんも入ります。
店の中には、誰もいません。しかしそれ以上に、売っている物を見て、勇子ちゃんは戦慄しました。この店、とにかくおかしいのです。
壺や花瓶に掛け軸、ブレスレットや懐中時計など、たくさんいろいろな物があります。
見た目だけなら問題はないのです。しかし、それら全てが妙な雰囲気を放っていて、店内の空気が不気味でした。
「骨董品屋さんかな? あたし骨董品屋さんなんて初めて来たけど、こんな不気味な所だったんだね~」
「……私も初めて来たけど、こんな空気出ないでしょ」
勇子ちゃんはツッコミます。骨董品屋が、こんな雰囲気を出すはずがありません。それに、もう一つ奇妙な点があります。
どれもこれも、異常なほど安いのです。高くて千円で、中にはどう見ても数万円はするはずなのに、数十円などという、商売をする気がないのではないかと思うような値段の品もあります。
「それにしても安いのばっかだねー。これならあたしでも買えるし、何か一つ買ってみようかな?」
「ちょっとあんた正気!?」
こんな不気味な店で何かを買おうという神経が理解出来ません。
その時でした。
「おやおや、可愛らしいお客さんだねぇ」
突然背後から、しわがれた老婆の声が聞こえて、愛奈ちゃん達は驚いて振り向きました。
そこには、声に違わぬほど年老いた、お婆さんがいます。
「うわっ! 誰!?」
「誰って、店員さんでしょ……」
勇子ちゃんはお婆さんが店員だと気付きます。それはわかるのですが、今まで全く人の気配を感じなかったのに、何もないところから突然現れたような、よくわからない感覚が残っていました。
「いらっしゃい。この店はあんまりお客さん来ないから、いつも退屈してたんだよ。ゆっくりしていってね」
「はーい!」
「は、はぁ……」
にこやかに笑うお婆さん。愛奈ちゃんは元気よく返事をしましたが、勇子ちゃんは、完全には警戒を解いていませんでした。
この笑顔は、絶対に信用してはいけない。勇子ちゃんの中の何かが、お婆さんに対して警鐘を鳴らしていたのです。
「そうだ。今日はせっかくだから、何でも一つ、タダで持って行っていいよ」
「ほんと!?」
「え、いいんですか!?」
「いいのいいの。趣味でやってるようなものだからね」
突然無料で商品を買ってもいい事になり、愛奈ちゃんは喜び、勇子ちゃんは困惑しています。
と、
「結構です」
友香ちゃんが言いました。
「え、友香?」
「何もいりません。急いでいるので、失礼します。二人とも、突っ立ってないで、早くする」
「ちょ、友香!」
そのまま、有無を言わせずに二人を連れて、店から出てしまいました。
「……ちっ!」
三人の姿が見えなくなってから、お婆さんは舌打ちしました。
「離してよ!」
結局、友香ちゃんは路地裏の出口まで二人を引っ張っていき、愛奈ちゃんは友香ちゃんの手を振りほどきました。
「何するの!? 無料のチャンスだったのに!」
「……どうしたの?」
愛奈ちゃんはさておき、勇子ちゃんは友香ちゃんに理由を聞きました。一刻も早くあの店を出たかったので助かりましたが、友香ちゃんの表情には少し焦りが見られ、まるであの店が何なのかを知っていたかのようです。
「これ、さっき一緒に借りてきた本」
友香ちゃんはバッグの中から、『超最新!! 怪奇情報読本』と書かれた本を出しました。
「あんたこんな本借りて」
「ここを読んで」
勇子ちゃんの言葉を遮り、友香ちゃんは『超最新!! 都市伝説』と書かれたページを見せます。
そこには、こう書かれていました。
『もし見慣れない路地裏を見つけて、その一番奥に、マジックネストと書かれた店を見つけたら、そこに売られている商品を絶対に買ってはならない』
「マジックネスト?」
「さっきの店。看板にそう書いてあった」
店の看板を見た時、友香ちゃんだけは英語が読めたのです。そのおかげでこの本の内容を思い出し、二人が買う前に連れ出せたのでした。
友香ちゃんはマジックネストについての情報を読み上げます。
『この店は悪魔が経営しており、仲間の悪魔が取り憑いた商品を、格安で売りつけてくる。商品を買った客を、取り憑いている悪魔に殺させ、魂を奪う為に。既に数十人の来客が、この店の犠牲になっている。もしも値段に騙されて買ってしまったら、急いでお祓いにいかなければ、命を落とす事になるだろう。また、心に何か足りないと感じている人間は、この店に引き寄せられるらしい。普段から充実した生活を送る事で、最初から近付かないようにする事も大切だ』
「あ、悪魔!?」
愛奈ちゃんは驚きます。確かに不気味なお婆さんでしたが、だからといってそんな恐ろしい存在には見えませんでした。ですが、店の名前にヒントがあります。マジックネスト、魔の巣です。
「見ただけじゃわからない悪意もある。もう少し警戒心を学んだ方がいい」
辛辣な言葉ですが、何でもかんでも善意だと思って受け取る事は危険です。現に、愛奈ちゃんはもう少しで、悪霊が憑いた商品を買ってしまうところでした。
「……ここは素直にお礼を言うべきだね。ありがとう友香」
「あんたが気付いてくれたおかげで助かったわけだし、感想文に関係ない本を借りてきた事は許すわ。ありがとうね」
「どういたしまして」
愛奈ちゃんと勇子ちゃんは、友香ちゃんにお礼を言いました。
これからは、見慣れない道を見つけたら、気を付けようと、二人は思いました。
愛奈ちゃん達が、宿題をする為に帰宅してから、数時間後。
「あら? こんな所に路地裏が?」
健康の為、日傘を差して散歩していた浩美先生は、見慣れない路地裏の前で立ち止まりました。
そのまま、路地裏の中に入っていってしまいます。
(何でかしら……足が、勝手に……)
何かに引き寄せられるように、路地裏の一番奥、マジックネストまで辿り着きました。
(マジックネスト……魔法の巣? すごい名前……)
辿り着いただけでは止まらず、店内に入る浩美先生。
「おやおや、今日はお客さんが多いね」
カウンターには、不気味な雰囲気を漂わせるお婆さんが。
「す、すいません。何だか、引き寄せられちゃったっていうか……」
「いいよいいよ。この店は見ての通り、普通の店じゃない。売っている物全てが、不思議な力を備えているんだ。そして、その中の一つが、時々お客さんを引き寄せるのさ。何か、心に不足感を抱えているお客さんをねぇ」
「でも、私、不足感なんて……」
「まぁ落ち着きな。不足感の中には本人が自覚出来ない症状もある」
そう言うと、お婆さんはカウンターから離れ、ある商品棚の前に行きます。
「ああ……この子だねぇ、あんたを呼んだのは」
そこにあったのは、手のひらサイズの、女の子の人形でした。
「この子をあげよう。お代はいいよ」
「そんな、無料だなんて」
「いいよいいよ。これも私の役目だからねぇ」
棚から人形を取り、浩美先生に渡すお婆さん。浩美先生は断って人形を返そうとしますが、お婆さんはあげると言って聞きません。
「……では、頂きます」
「それがいいそれがいい。その子が必ず、あんたの中の足りない部分を埋めてくれるよ」
押しに弱い浩美先生は断り切れず、人形を受け取って帰ってしまいました。
浩美先生が帰って直後、お婆さんは笑いました。
「今度は上手くいった」
それは、もし浩美先生がこの場にいたら、気絶してしまいそうなほど、恐ろしい笑みでした。
◇◇◇◇
夜。
愛奈ちゃんは自分の部屋で、今日借りてきた本を読んでいました。
「……本一冊読むのって結構時間掛かるよね」
読みながら呟きます。子供向けとはいえ、結構なボリュームがあり、今日一日で読み終わるのは無理そうです。
「面白いからいいんだけど」
読んでいると、見習い魔女ルアの多大な努力が伝わってきます。同時に、ダンピールの魔女がルアの事を好きな事にも気付きます。
「このメアリーって魔女、女の人なのにルアの事が好きなんだ……」
まるで自分と浩美先生のようだと、愛奈ちゃんは思いました。それから、いつか原典であるBlood Redも読んでみたいと思いました。
「あ、そろそろ寝なきゃ」
時計を見ると、もう10時です。小学生は寝る時間です。まだ先が気になりますが、このままだと梨花さんが寝かしつけに来るかもしれないので、その前に寝る事にしました。
同じ時間。
浩美先生は自室の机に突っ伏して、今日買わされてしまった人形を見ていました。
「不足感、か……」
それから、お婆さんに言われた事を思い出しています。
あの店には、心に不足感を抱えた者が訪れる。そして、この人形はそれを満たしてくれる、と。
「私にそんなものがあるだなんて、思いもしなかった」
いつも満たされているつもりでした。不足に感じている事など、何もないと思っていました。ですが、そうでもなければ、あんな不思議な店に迷い込む事など、あるはずがないのです。
「私に足りないものって、何だろう?」
考えても答えは出ませんでした。しかし、この人形があれば、それは埋められる。それは間違いない事だったのです。事実、この人形を見ていると、何だか満たされていく気がしました。
ただ、自分自身の問題を、道具なんかで解決しようとしているのだと思うと、少し悲しくなりました。
「……寝よう」
明日は仕事があるというのもありましたが、このまま起きているともっと悲しくなりそうな気がしたのです。それが嫌だったので、浩美先生は電気を消して、ベッドに入りました。
◇◇◇◇
時間は進んで、深夜。
「!」
急に寝苦しくなって、浩美先生は目を覚ましました。
窓から月明かりが差し込んできます。今夜はやけに月が明るく、レースのカーテンを引いているのに、部屋の中がよくわかりました。
時計を見ると、今はちょうど、2時30分。
(うわぁ……嫌な時間に起きちゃったなぁ……)
草木も眠る丑三つ時です。何でよりによってこんな時間に起きたのかと、浩美先生は自分の眠りの浅さを恨みました。
トスッ
「?」
何か物音が聞こえました。浩美先生はベッドに入ったまま、音がした方向を見ます。
人形です。昼間あの店で買ったあの人形が、風もないのに床に落ちていました。
そこで、浩美先生は自分の身体に起きている異変に気付きます。
(か、身体が動かない!?)
金縛りです。
続いて、人形にも異変が起きました。人形が勝手に動いてこちらを見たかと思うと、見た目が浩美先生をデフォルメしたかのような姿に変わったのです。
それだけでなく、人形が倒れた状態のまま浮かび上がり、その後ろに、人間と同じ大きさの黒い影が現れました。
影から細い二本の腕が飛び出てきて人形を掴み、それが完全に、ローブを纏った黒い女の形に変わります。しかしその顔は人間ではなく、口から牙を生やした悪魔のそれでした。
浩美先生は恐怖で逃げようとしましたが、身体は動きません。依然金縛りのままです。
と、悪魔が人形を、ちょうど立ち上がるような姿勢に変えました。
「!?」
それと同時に、浩美先生も起き上がります。
悪魔は人形を、窓の方へ向けました。すると、同じく浩美先生も、窓を向きます。悪魔が人形の足を掴んで、歩くように左右の足をゆっくり動かすと、浩美先生も歩くのです。
「わ、私、操られて……!!」
「お前は私の人形だ」
悪魔の声が不気味に響きます。もう疑う余地はありません。浩美先生の動きは、人形と連動しているのです。
浩美先生の家は二階建てで、浩美先生の部屋は二階にあります。そして、窓に向かって歩かされているという事は、あの悪魔は浩美先生を自殺に見せ掛けて殺そうとしているのです。
「いやっ!」
浩美先生は身体をよじって逃げようとしますが、身体は言う事を聞いてくれません。
「拒絶するな。これはお前が望んだ事だ」
「わ、私が望んだ……?」
一度浩美先生を操るのをやめて、悪魔は語りかけます。首だけが動くようになり、浩美先生は悪魔を見ながら問い掛けました。
「お前の中には間違いなく不足感がある。それを埋めたいと、お前の深層意識が願った。だから私は、お前の不足感を満たしてやったんだ。しかし、タダでお前の欲求に応えてやるわけにはいかん。見返りをもらわなければな」
「見返り!?」
「本当に何もかもがタダで手に入るなどと思ったのか? 人間はどこまでも、欲深い生き物だ! だからこそ、その魂は美味いのだがな」
一時の満足と引き換えに、見返りとして購入者の魂をもらう。あの店の商品は、その為にあるのです。悪魔にとって本当に値打ちがある物は魂だけであり、お金なんて飾りです。それに気が付かない者を罠に掛けるという意味でも、格安の値段をつけていたのでした。
「そんな! 無理矢理相手を満足させて、それで見返りをもらうなんて、こんなの詐欺です!」
満たされたいと願っていた。それはもう、否定しません。ですが。その為の手段を押しつけた挙げ句、理不尽に殺そうとするのが理解出来ませんでした。
「黙れ! どんな理由だろうと、お前は店の商品を買って満たされた。代金を払ってもらうぞ! お前の魂でな!」
悪魔は聞く耳持たずで、再び浩美先生を操ります。
(愛奈さん、助けて!!)
もうどうにも出来ない。何も出来ない。死にたくない。助かりたい。浩美先生は心の中で、愛奈ちゃんに助けを求めました。
「!!」
ぐっすり眠っていた愛奈ちゃんは、浩美先生の危機を感じて目を見開きます。
「浩美先生が危ない!」
助けを求める、浩美先生の心の声。その源である浩美先生の家へと、愛奈ちゃんは飛んでいきました。
どんなに抵抗しようとしても、悪魔による肉体操作は絶対的なもので、全く抗えません。浩美先生の手は、勝手に窓に掛かり、ベランダへの道を開きました。
「さぁ死ね! 死んでその魂で、代金を払え!」
悪魔はさらに強く人形を操り、それに操られた浩美先生は、一歩一歩確実に、死への道を歩いていきます。
「もう、駄目……!!」
ベランダから突き落とされる。そう思った浩美先生は、強く目を閉じます。
「浩美先生!!」
その時、外から愛奈ちゃんが飛び込んできて、浩美先生に飛びつき、部屋の中へと押し倒しました。
「ま、愛奈さん……」
「お待たせ。浩美先生」
どうにかこうにか、浩美先生が飛び降り自殺させられる前に間に合いました。
「何だお前は!? どうしてここに!?」
浩美先生の部屋にいた黒い怪物は、あたしが乗り込んできてすごく驚いてるみたいだった。まぁ、相手がどう思ってようと、あたしには関係ないんだけど。
それより、あたしは状況を知らなきゃいけない。今、ここで何が起きてるの?
まず最初に気付いたのは、浩美先生の部屋が、不気味な雰囲気でいっぱいになってる事だった。この雰囲気は知ってる。あの骨董品屋と同じだ。
次に、怪物が持ってる浩美先生そっくりの人形に気付く。不気味な空気は、あの人形から出ている。もしかして浩美先生、あたしが来た後あの店に行って、あの人形を買っちゃったの? あそこが危ないって、知らなかったんだね。
「……ふん。お前が何者だろうと、関係ない。こっちには、この人形があるんだからな」
「あっ!?」
浩美先生があたしを捕まえようと、覆い被さってきたから、かわす。どうしたの浩美先生?
いや、その前に怪物が、人形を覆い被せるみたいに動かしてるのが見えた。あの怪物、人形で浩美先生を操ってるんだ!
だとすると、まずい事になる。もしあたしがあの人形を殴ったら、たぶん人形が受けたダメージが、そのまま浩美先生に伝わっちゃうと思うから。
実質浩美先生は、あいつの盾に使われてる状態か……。
なら、あの技が使えるね。
あたしはおじいちゃんとの修行を思い出す。
それは、前に浩美先生が、科学工場で人質に取られて、その後すぐの事だ。もしまた浩美先生が人質にされた時、その時も友香がいるとは限らない。あたし一人の手で、浩美先生を助ける方法が必要だ。っていうか、浩美先生はあたしが守るんだし。
『では、お前にこの技を教えよう』
うちの庭で、おじいちゃんが机を置いて、その上にコンクリートブロック、そのすぐ後ろに、少しだけ離れるようにして空き缶を置く。
『よいか愛奈。どんなものにも、気は流れておる。人間や動物のような生き物だけでなく、石や土、このコンクリートにも、気は流れておるんじゃ』
それはわかるよ。気功術の基本だって、おじいちゃんが教えてくれたからね。
『呼吸法でその流れを見切る』
本番はここからだった。おじいちゃんはコンクリートブロックの前に立って、呼吸を整える。
『流れを見切ったら、障害物の気だけを狙って、打撃とともに、己の気を叩き込め!』
おじいちゃんはコンクリートブロックに、拳を放つ。
すると、殴ったのはコンクリートブロックなのに、コンクリートブロックは全然動かないで、後ろの空き缶だけが吹き飛んだ。
『そうすれば、障害物の気が押し出され、押し出された気は衝撃波となって、後ろの相手のみを倒す。打撃といっても気だけを殴っておるから、殴った障害物へのダメージはゼロじゃ。お前なら、自分の闘気を上乗せして、威力を倍増させる事も出来るじゃろう』
おじいちゃんが拳をどけるのを待ってから、あたしはコンクリートブロックを調べる。おじいちゃんが殴った所には、ヒビ一つ入っていない。
『これぞ高崎流気功術奥義、護破拳衝。本来は、頑丈な防具で身を固めた相手を倒す為の、鎧通しの技なんじゃが、人質を取られた時も使える。覚えておいて損はなかろう』
あたしはおじいちゃんの説明を聞きながら思った。あたしは必ず、この技を覚えてみせるって。
あの技を使うとしたら、今しかない。あたしはあの技で、必ず浩美先生を助けてみせる。
まず、呼吸法で、人形の気を見切る。
「お前には何も出来ないぞ。こうなったら、お前の魂も手に入れやる!」
怪物が何か言ってるけど、気にしない。とにかく、呼吸法だけに集中する。
……見える。見えるよ。人形の中に流れてる、黒くて気持ち悪い気が。
ここを狙って、
「おい、聞いてるのか!? こっちには人形が」
あたしの闘気と一緒に、
「おい!!」
拳を叩き込む!
「がっ――!!」
愛奈ちゃんの身体が、真紅の闘気に包まれたかと思うと、愛奈ちゃんは目にも止まらぬ速さで、人形に拳を叩き込みました。
人形の背中から、赤と黒の気が飛び出します。人形の気に愛奈ちゃんの闘気が上乗せされて、人形から押し出されたのです。
「高崎流気功術奥義、護破拳衝!!」
人形を狙わぬ、気だけを狙った一撃。人形には傷一つ付かず、悪魔の腹にだけ大穴が空いていました。少しでも狙いがずれると、人形にも大穴が空く危険な技ですが、愛奈ちゃんは上手く成功させました。
「こ、こんなやつが守ってるなんて、聞いてないぞ……」
悪魔は人形を落とし、
「さ、詐欺だ……」
黒い闇となって崩れ、消滅しました。人形もまた、同じです。
「愛奈さん!!」
身体が自由になった浩美先生は、愛奈ちゃんに抱き付いて泣き出しました。
「まだだよ」
「……えっ?」
「まだ終わってない!」
愛奈ちゃんは浩美先生の家から、外に飛び出します。
そうです。事件はまだ、終わっていません。
全ての元凶である、マジックネストが残っているのです。浩美先生を危険な目に遭わせた、あの悪魔の店員に、落とし前を付けてもらわなければなりません。
「ない!」
愛奈ちゃんはマジックネストを上空から探しますが、マジックネストどころか、あの路地裏すら見つからないのです。
路地裏があったはずの場所に、愛奈ちゃんは一度降り立ちます。
そして考えました。
(もしかして、逃げた?)
その可能性はあります。自分の商品に憑いていた悪魔が倒され、それに気付いて逃げたのかもしれません。
ではどこに逃げたのかと考え、先日の出来事を思い出しました。
少し前に死んで、その時に辿り着いた神様の領域。あそこのような、普通には辿り着けない場所に、隠れているのではないかと、愛奈ちゃんは思いました。
両手を腰溜めに構え、闘気を集めます。今、愛奈ちゃんは浩美先生からの声援を受けていません。
しかし――、
(よくも浩美先生を殺そうとしたな!! 絶対に許さない!!)
今の愛奈ちゃんの中は、浩美先生への愛しい気持ちと、浩美先生を危険な目に遭わせた事への怒りでいっぱいでした。
この気持ちがあれば、自分の闘気を絶対に届かせられるはず。そう思って、愛奈ちゃんは、闘気を解き放ちます。
「紅蓮情激波ーーーーー!!!!!」
愛奈ちゃんが放った紅蓮情激波は、路地裏があったはずのただの壁に、空間の穴を空けて、そこに吸い込まれていきました。
「まさか失敗するとは……」
異空間。
悪魔の店員は悔しがっていました。
上手くいけば、浩美先生の魂を回収したあの悪魔と、魂の山分けをするつもりだったというのに、予想外の展開です。
「だが、ここまでは辿り着けまい」
しかし、愛奈ちゃんがここに来るのは無理だと、タカをくくっていました。
「ん?」
その直後、空から真紅の閃光が降り注ぎ、店員も、マジックネストも、異空間ごと消滅しました。
「手応えあり!」
悪魔に落とし前を付けさせたと確信した愛奈ちゃんは、浩美先生の家に戻りました。
「愛奈さん!!」
再びベランダに降り立ち、部屋に入ってきた愛奈ちゃんを、浩美先生は心配した様子で迎え入れます。
「安心して。全部終わらせてきたから」
愛奈ちゃんはマジックネストという店の事、そしてそれを消滅させてきた事を、浩美先生に教えました。
「本当にありがとうございます。私、駄目ですね。愛奈さんにこんなに心配させて……」
自分の軽率な行動。そして弱さが今回の事件を引き起こしてしまったと、浩美先生は落ち込んでいます。
「浩美先生」
そんな彼女に、愛奈ちゃんは話し掛けました。
「友香から聞いたの。あの店には、心に何か足りないって思ってる人が、引き寄せられるって」
「そ、それは――」
「だから!」
弁明しようとする浩美先生に、愛奈ちゃんはその言葉を遮って言います。
「あたしが埋めてあげる。その足りないもの」
「えっ?」
それから浩美先生をベッドに押し倒し、ほっぺにキスしました。
「ま、愛奈さん……」
「今夜、一緒にいてあげるね。こんな事しか思い付かなくて、ごめん」
少しでも長く浩美先生といる事で、その足りないものを埋める。子供なりに思い付いた、解決法です。
愛奈ちゃんと浩美先生は、ベッドで一緒に寝ました。
(愛奈さん、体温高い……)
隣で眠る幼い少女の顔を、優しく撫でる浩美先生。子供の高い体温は、夏の夜長に心地よい感覚を与えてくれます。
同時に浩美先生は、自分が満たされていくのを感じました。
(そっか……私は愛奈さんが欲しいんだ……)
自分に何が足りないか、ようやくわかりました。
それは、愛奈ちゃんそのもの。愛奈ちゃんとの、より深い交わり。教師という立場上、どうしても得られないそれを、自分は欲しがっていたのだとわかったのです。
自分が歪んでいるというのはわかっていました。ですが、それでも、今夜だけは、愛奈ちゃんと一緒にいたかったのです。
「ありがとうございます。愛奈さん」
「う……ん……」
大好きな生徒の寝顔を見ながら、浩美先生はようやく、眠りにつきました。




