第一話:潮招き(7)
なんだ、これは。
なにが、起こった。
未だ彼の意識はぼんやりと宙に浮いたままだったが、周囲と、自分の身に起こった異常を彼は知った。
身体が燃えるように熱い。
だというのに、全身をめぐる血は冷水のように冷えていた。快いほどに。
視界はおそろしいほどに鮮明に広がり、背後の異形たちの位置さえも見えてしまいそうだった。
「ありえぬ」
「真に神の力などというのか……ありえぬっ、この世に神などいない! 秩序こそが絶対である!」
「では我らと同じ施術か」
「なおさらにありえぬ! 銀夜姫に選ばれたのは我ら! 我ら『銀の星夜会』こそが彼女の意思を引き継ぐ義士!」
獣たちの囁きが、透き通って耳に入ってくる。少年自身の意識は、覚醒しないままに。
……その語調から、彼らが殺意を持っているのは理解した。
――こいつらは、敵だ。
すべてが未経験の世界で、見覚えのある文言の書かれた切れ端が、水面に浮いている。
「ぎん、や……姉、上」
すがるように、知らず手が伸びていた。
「おのれっ! 不浄なる手で、我らが盟主の御名に触れるなッ!」
背後の一体が水を切って駆け出した。
近づいてくる速度、体重……正確な位置。
それらが波紋をつたって、頭の中へと染み込んでくる。
まるで、足下に満ちる潮水が、自分の身体の一部になったかのように。
軽く振り払うつもりだった。だが、余りあまった力は裏拳となって、狼の側頭部に叩き込まれた。
激しい水音と共に、暴風をともない、肉薄してきた敵は十数メートル先の壁へと激突する。
「秩序を保て! 突出するなっ! 山攻めるが如く、囲んで敵を撃ち破れ!」
握りしめていた右裏拳を引き戻し、力をゆるめる。
生じた指の隙間に、何かが湧き出てきた。純度の高い、水の塊。それが形を変えて、弾薬のように丸まった。
使い方は、頭の中に流れ込んできた。
それらを散らすように、右手を開いて振りかざす。
無数の水弾が指先からはなれる。
敵に、壁に、水面に、家屋に、着弾しては水蒸気の爆発を起こし、前方の敵を吹き飛ばした。
「お、ばっ……! ちゃんと狙え! 見境無しか、クソッ!」
塀に逃れたふたりの男女がいた。老人と、少女。
少年の爆撃は、塀さえも揺さぶり、その二人組を振り落とそうとしていた。
その中で、老人の方がわめく。
――とりあえずは、あれは、敵では、ない。
頭の中で誰かがささやく。
その言葉には理がありそうだったので、彼は無差別な攻撃は避けようと決めた。
とまれ、有り余る力は制御しきれない。
力を絞って集中させる何かが、海の力を注ぎ込む器が、必要だった。
水面に、銃が落ちていた。
――六匁弾……足軽筒。いや違う。
もっと構造は複雑で、自分のいた時代とりも、合理化されている。
古ぼけたそれは実弾を込めれば暴発のおそれがある。そもそも芯まで水に浸かっては、撃てるものも撃てまい。
だが、構造は理解した。それで十分だった。
中折れ式のそれに水を注ぎ込むと、機構に合った弾丸のかたちとなって装填された。
右手で持つと、感触がなじむ。
身体を旋回させて、引き金に指をかける。
発射された一発は、軌道をえがいて飛んでいく。が、途中で弾道は直線ではなく波打つ曲線へと変化した。得物を狙うサメのように。
呼吸を合わせて攻め寄せる狼たちを、その心臓や頭部を、けっして実弾ではありえない加速と変化で射貫いていく。
「た、退避! 退避ぃ!」
弾の軌道から逃れようと背を向けた獣がいた。
だが、その『負け犬』の肩に、剛刀が叩き込まれた。
ひときわ背の高い狼が、逃亡兵を切って捨てたのだった。
「退くな、退くものぁ、斬る! 隊ヲ脱スル者、許サズ!」
胴間声で吼え立てるその男は、浅黄色に光り輝く刀を振りかざし、雄弁ぶった。
「我らが盟主、鐘山銀夜もまた、緑岳にて苦戦を強いられた! だが彼女は悠然と白馬にまたがり、敵の中央を突破! 敵将亥改大州はじめ多くのものを殺傷してついに百倍する敵兵を壊滅せしめたのだ! すべては彼女の秩序への信念が成せる業! 我らもそれにならい! 義と律と法とを胸に抱き、いざ前・進!」
……わけのわからないことを、言っていた。
「おまえらに、なにが、わかる」
知らず、口から静かに、怒りが漏れていた。
姉や、彼女の敵将であった鐘山環の代弁であるかのように。
だが、身体を流れる冷血が、激情することを許さない。持て余した感情が、この蒼い甲冑を突き破って弾け飛びそうだった。
――これは、直接叩き込まなくては気が済まない。
引き金にかかる指に、力が加わる。
二発目を発射したと同時に、彼は腰に騎銃を差し込み駆けた。
指揮官らしき長身の狼は、今斬り殺した味方を、人間に戻った死体を盾にした。
食い込んだ水弾もろとも死体を投げ捨て、手を挙げる。尖った口先が、勝利で歪む。
「今だ、囲めい!」
居残った敵兵が、藤色の羽織をたなびかせて高く飛び上がった。
四方から迫る彼らを顧みず、少年は走りもゆるめない。
だがその指は、印字を切っていた。
その水面を、なにかが這っている。
死体から自力で抜け出たそれは、潜行したまま、射手に意思に従って跳ね上がった。指揮官の足へと、食らいついた。
「な、にぃぃ!?」
悲鳴をあげる指揮官を貫通した弾丸は少年の背後に回り込み、無軌道に残る敵兵に食らいついていく。
巻き起こる爆風と断末魔を追い風に、蒼い武者は水面を蹴り上げた。
白い小母衣が夕闇に舞い、縦に旋回した後爪先を突き出した。
指揮官の顔面に蹴撃がめり込む。高い鼻を砕く。
爪先から流し込んだ神水が、傷口から染み込み、脳を浸食して破壊するのがわかった。
紫電のようなものに巻かれながら苦悶の声をあげる野獣が最期に発したのは、
「静謐なる銀夜のため……に! ご照覧あれっ銀夜さまァ! 我ら喜んで、貴女がおわず新世界へ馳せ参じますぞぉぉぉぉ!」
という、騒がしい遺言だった。
――いや。
そも、感情のままに吼え立てる怪物たちは、その一部始終が静謐とは無縁のものであった。
彼らが去った後にこそ、真の静寂がやってきた。
三人分の息使いだけが聞こえる。
やがて光を帯びた泡となって、装甲が溶け、少年はふたたび白無垢姿にもどった。
「あ、ありが、とう……?」
難を逃れた少女が、塀の上からお礼を言った。
逆行が彼女の輪郭だけを浮き彫りにして、少年からは真っ黒な影しか見えない。
ただ、長い黒髪が磯風でなびくと、脳裏で雷光のように過去がよみがえる。
かつて、格子戸越しで今生の別れをした肉親の影が、少女の姿と重なった。
「……あね、うえ……」
それだけ呟くと、体内の血がふたたび熱を持ち始めた。
せき止められていたかのように疲労がどっと押し寄せて、少年から力を奪っていく。
無理に動かそうとした身体がぐるんと回転し、後頭部が水面に打ち付けられる。
海神の花嫁は、ふたたび冷たい海に抱かれて沈み、眠りについたのであった。
銀夜「こんな部下いらねぇ……」