第一話:潮招き(6)
――くそっ、今日は厄日か。まさかあの秩序の狂信者どもが〈盟約者〉とはなっ!
狼の見せた背に向かって、老軍人は舌打ちした。
無防備に背をさらしているのは、こちらに逃げ場がないとタカをくくっているからか。それとも、どんな手段で逃げようとも、確実に狩れる自信があるからか。
「鴨目少尉!」
なにかを蹴破る音とともに、鋭く少女の声が発せられる。
振り返れば、脱出用の小穴が官舎の横っ腹に開いていた。そこをくぐりながら、祈は少年を担いで手招きしている。
「重ッ畳!」
老人もまた、それにならって駆けた。
外に出ると、白々しいほどの青空だった。
――とにもかくにも、軍施設を抜け出て、表通りに出る。
町中に出れば人に紛れてどうとでもなる。そのうえで、南へ220m。そこに祈の管理する書庫がある。そこまでは追ってこれないし……そこまで行ければ、手はある。
打算をし、老体にむち打ち走る鴨目の横っ面に、機銃が突きつけられる。
並走する祈が押しつけるそれを、鴨目は渋い目でにらんだ。
「これを使って下さい!」
「おい、これ弾入ってねーぞ!?」
「でも殴れますっ!」
「じゃあアンタが使えっ!」
雷鳴や砲撃にも似た、衝撃音が全身を痺れさせた。
さっきまで自分たちがいたはずの武器庫を、極彩色の剣閃が切り刻んでいく。
崩れゆくその官舎から、羽虫のように縦横無尽に人影が飛んで、屋根から、あるいは地面を這うようにして、老人と少女と、あと少年とを猛追した。
その軌道は、まるで生きている虹のようでもあり、波打ちながら家屋を破壊し、大地をえぐる。
うぉぉー……はい!
うぅおおおおお……ハイッ!
銀夜! 銀夜! 義! 愛! 忠!
銀夜! 銀夜! 正! 法! ち・つ・じょ!
銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 愛! ウォォ! 統! 優!
銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜!
銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜!
銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜!
銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜!
銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜!
銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜! 銀夜!
……という、やたら調子の良い奇声をあげながら。
「……なんなんですか、あの耳障りな歌!?」
「歌というか名前の連呼だなっ!」
老人は足を止めた。
――思いの外、敵の速度が速い。
連中の足を、止めざるをえなかった。
「少尉!?」
「学者先生、そいつ連れて逃げろ」
「でもっ」
「だいじょうぶだ。オイラァこの手の専門よ。……逃げ時ぐらいは把握してる」
問題は、逃げられるか、だが……。
という言葉は呑み込んで、腰のリボルバーを引き抜いた。
通り過ぎれば木々を幹からねじ曲げ、足踏みするたびに瓦をたたき壊す、高速で、無数の兵隊。
そのうちの最先端を見きわめ、銃口を傾け引き金を引いた。
火薬をまき散らして発射された弾丸は、狼の頭部に命中した。
――だが、くわえている。
前歯が、自分たちと同等の速度で向かってきた鉛玉を、噛んでいた。
――嗤ってやがる。
その無力さへの嘲笑が、狼の口に不自然な力みを加え……その弾丸はあっさりと噛み砕かれた。
そのうちの破片のひとつが銃をはじきとばし、地面をすべる。
拾おうとした老人の首には、桃色の刀身が。
逃げようとした少年少女の前には、黄、青、赤の虹が回り込む。
色とりどりの刀が、それを持つ狼たちが、一瞬の間になだれ込み、彼ら三人を取り囲んだ。
「……お前らのそのケチな力だって、神の与えたものだろ。えぇ? 〈盟約者〉ども」
「違う! 法と正義の使徒たるわれらが、銀夜さまの加護を受けた薬水をさずかり手にした力だっ!」
「あーあー……これだから狂信者ってやつぁ気に食わん。テメェらのかかげる教義と矛盾にまるで目がいかねぇからな」
そう言って軽く嘲笑った鴨目士義の首に、刃先が突きつけられる。
士義はそこから視線を外すように、チラ、と花嫁を見た。そして地面を。湿り気を帯びた土を、つかむ。水が増している。
「……管区長さまの命令である。そこの不穏分子はわれわれの手で排除する。異論はないな」
「ない、と言えばウソにゃあなるが……まぁ言えば殺されるんだろうな」
つとめて冷静を取り繕おうとしているのは、お互い同じなようだった。
「学者先生、それを離せ」
「でもっ……!」
「良いから!」
やや非難めいた視線は向けられたが、しぶしぶと言った感じで彼女は花嫁を地面へと下ろした。
「……なんともおぞましき姿よ。このような風紀の乱れが国の乱れに通ずるのだ」
なるほど、たしかにと老人は嗤った。
国家の晩年というのは、とかく装束のみだれが生じるのも確かだ。
男装女装で踊り狂うひとびとの姿を、時代の変遷と共によく見てきた。
――あと、こいつらのようにやたら秩序正義を主張するのもな。
えてしてそういう奴らは、物事の根幹と……あと足下が見えていない。
「良いんですか!? 引き渡したところでどうせ皆殺しにするつもりですよ、あの連中……ッ!」
そばににじり寄った少女が、低くささやく。
なんだ、こっちもまだ気がつかないのか、と呆れる鴨目は、
「なぁに、ひょっとしたら面白いものが見られるかもしれん」
と、ささやき返した。
「正義! 執行!」
「悪! 即! 斬!」
奇妙なかけ声と共に、刀が少年めがけて振り下ろされる。
血肉を引き裂く音と、飛び散る血しぶき。
祈がちいさな悲鳴とともに目をつぶったが、鴨目はそこから目をそらさなかった。
刀は、少年の肉体をつらぬくことがなかった。
串刺しにされていたのは、彼を襲おうとした側だった。
「なっ……なッ、ナ!?」
「だから、ちゃんと見ろって言ったんだ。まったくどいつもこいつも」
海水に浸された地面から生え出た、サンゴによって。
貫かれた狼が、赤光と熱を発しながら、内側から膨張し、爆散した。
「なんだこれはっ!?」
ここではじめて、彼らの足下を満たすものに、なにに触れようとしているのかに気がついたようだった。
思わず持ち上がった狼の足が、くるぶしまで覆う海水を蹴り上げる。
「おのれっ! やはり魔の物か!?」
その元凶とおぼしき少年に、ふたたび光り輝く刃が向けられる。
だが彼らを、何かが体当たりして食い止める。
火花が散り、水面に落ちるとジュウと音と、白煙を立てる。
宙を舞うのは、奇妙な虫だった。
顔もなく、腕のような触手が何本も生えたもの、牛角のような巨大な牙を持つ、平べったいもの。目のないサメに似たもの。
まるで太古の海にでもかえったかのような光景には、さすがの鴨目の閉口した。
悲鳴とともにバシャバシャと乱れまくった足並みが、無軌道に水紋を広げる。
ぱしゃり
と、騒音を縫うようにして、静かな足音。
白い素足が海水を踏んで、波紋を呼んだ。
白無垢が彼らの目の前で、ゆったりと起き上がっていた。
自分たちの主人に従うように、腹に、腰に、泳ぎまくっていた虫たちがまとわりつき、燐光と共に溶けて、何かを形成していった。
「……ベル、ト?」
さっきとは逆に目を見開いた祈が、思わずつぶやいた言葉が、印象として心に引っかかる。
なるほどそれは自分たちの革製のものとは違い重厚だが、ベルトには違いない。
美しい光沢を持つ青い金属。その留め金として、腹の前には奇妙な意匠のレリーフがあった。
長細い何かが、渦を巻くようにして背を丸めている。
タツノオトシゴのような……いや、ほんものの竜のような。
……胎児、のような。
そこからあふれ出るのは、光か、水か。少年の肉体を覆い包み、甲冑を形成した。
青を基調とし、海を想起させる波の紋様。貝や魚をあしらった直垂は、長めのスカートか、袴のようにも見える。
首から彼岸花をあしらった、小母衣がたなびく。
そしてその上を、頭巾と銀の仮面が一体化しかかのような兜がすっぽりと覆っていた。
彼の首が、わずかに下を向く。
引きちぎられた羽織の切れ端を見つめながら、
「ギン……ヤ……?」
透き通った美しい声が、そこに書かれた二文字を反芻させる。
「……せいぜい、時間を稼いでくれよ? カミサマ」
目の前に新生した英雄の背を鼻で嗤い、老人は少女を伴いその場を離れた。