第一話:潮招き(4)
しばらく、立ちこめる潮の薫りにくらくらとした。
はだけだ白無垢は、苔がびっしりとこびりついているが、その若い嫁の肌にはなにひとつついてはいなかった。
――つーよりか、は、これは……
そしてその『嫁』が、肉体的には女性ではないことを、
「……えーと、つまりこりゃあ、あれだ」
やっとのことで我に返り、老軍人はひとつの推測を立てた。
「つまりこいつは最近、どこぞの変態にかどわかされて、さんざんになぶられた挙げ句に、適当な筺に詰められて沈められて殺された。うん、きっとそうだ。さぁて警邏の連中にさっそく」
「それは、ありえないですよ」
即座に否定したのは、落ち着きを取り戻した祈の声だった。
「この筺の経年劣化は、保存状態こそ良いですけど、間違いなく三百年以上が経過してます。開けられた形跡もなかったです。……それに、仮にそ、そういう……ごにょごにょ……ことをする人がいたとしても……ここまで凝った代物を証拠隠滅に使うとは思いませんけど」
――学者先生、生娘確定、と。
繊細な部分はにごされたが、少女の見解には「ふむ」と老人も同意した。
祈の考古学的見解はともかく、確かに野党が溺死させるにしても、この筺自体が相当の価値を持っているだろうし、手間もかかるだろう。
では犯人が金持ちで、悪魔じみた道楽がその動機だとすればどうだろうか。
これも、否、だ。
わざわざご丁寧に、しかも家紋つきの特殊な筺など用意すれば、家紋の真偽はともかくとして作ったこと、持っていたことそれ自体でアシがつく。
「あと、もうひとつ」
「なんだ?」
「このコ、まだ生きてます」
……今度こそ、鴨目士義は思考さえも凍らせた。
だが実際に耳を澄ませてみれば、しずかな寝息が潮騒のように押し引きしているのが、聞こえてくる。
目を凝らせば、閉じられた瞼の上、まつげがかすかに揺れていた。
覚醒の兆候が、わずかに見られた。
「それこそ、ありえねーだろ」
辛うじてつぶやき、乾いて引きつった嗤いを浮かべる。
「だとしたらなおさら、このガキが沈められたのは最近だ。それともなんだ? こいつは三百年も前から、ずっとこの中に入れられていた、ってか?」
「ありえると思います」
おおよそ常識からかけ離れたことを、今度は少女はあっさりと肯定した。
さきほど否定したちいさな矛盾とはわけが違う。その理由を説明できない事象。
だが、少女学士のさざ波ひとつ立たないまっすぐな瞳、そこから伝えられようとしていることは、
――三百年前の筺に容れられ続けた、生きた少年……
――性別に反して着飾られた、花嫁衣装……
――身分を隠す気配のない、特殊な形状の筺……
それら一切の矛盾を、一本の糸でつなげようとしていた。
「……そういう、ことかよ。くそっ! 神と契りを交わしたのか、こいつはっ!」
忌々しげに『文正庁歴史編纂室長』は舌打ちした。
と同時に、思い出さざるをえなくなった。
その長ったらしい閑職の裏側に隠れた、真の任務を。
科学と技術の発展したこのご時世、言ったところで誰も信じようとは思わない、鼻で嗤われるのがオチという、不名誉職の役務を。
「学者先生、悪いがそっちの書庫から樹治時代の郷土史を当たってくれ。こいつの身分、相当に高いはずだ。よほどじゃなけりゃ、きっとどこかで取り上げられてる」
「わかりました」
「オレはとりあえず上役に」
口を足とを素早く動かしていた鴨目は、それらを入り口手前で止めた。
藤色の腕章をつけた白シャツ部隊が、彼らの唯一の出入り口を塞いでいた。