第二話:招かれざる浦島の子(2)
人が人ならざるものの力を借りるという異形の法は、神代の時代よりおこなわれてきた。
この世界の成り立ちがそもそもそれであるし、翡翠の生きてきた時代からも事の真偽や成否や是非はともかくとして存在していたのはたしかだ。
代わり、人ならざるものは人に代償をもとめる。
あるいは必要な原動力として、あるいはそれを神通力の依り代として、あるいは……戯れや欲求を満たすために。
あるいは祭礼、あるいは感謝、あるいは人の肉体や肉親をそのために欲した。
人はいつしかそのやりとりを、かけひきを、〈盟約〉と呼んだ。
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歩きながらに手にした古書は、上から伸びてきたしなやかな指に取り上げられた。
「読書も大事だけど、世界を見ようっ。君がいた時よりももーっと、世の中は開かれてる!」
小早祈、といったか。
自分よりも一回り年上の少女だが、年齢差は三百年以上あるという。それも、自分のほうが年上という状況には、もはや乾いた笑いしか出てこない。
順門府の神官、幡豆家所蔵であった文書の中にはこの〈盟約〉について書かれた書のほかにも、出所不明の寓話があったという。
その中の一巻いわく、亀を救った若者が龍の住まう海中の宮でもてなされ、いざ地上にあがった時には、すでに世は移り変わって、ひとり取り残されたとか。土産の箱を開けば老人になったとかツルになって飛翔したとか。
噴飯物の絵空事だが、皮肉なことに今の自分と似た境遇ではある。
活字から顔を上げてみれば、なるほどそこははるか先の世の市井か。
あるいは翁が海中で見たという龍宮の都か。
多くの建物は自分が生きていた時代とさほど技術力の差はないように思える。
だが、まるでそこだけ切り取られたかのように、端正な赤い石垣でつくられた壁に三角屋根。
いわくそれらは焼き煉瓦といい、大陸風の建築には必要な資材でつくられているという。
さらにその内部では生糸づくりや検査、海運、裁縫の専門店や女子を教育するための学問所まであるという。
その隙間を縫うようにして伸びる鉄柱に吊り下げられているのは、瓦斯なる燃える気で光をともすランプというビードロ製の提灯が吊り下げられている。
最奥には四階の楼閣で、城かと思えばそれは医療を専門とした館だというものが建てられている。
薬草の処方のみならず、人の腹をさばき、病んだところを切り取るという外科手術、というものも行われているらしい。
「どう? どう?」
彼女にとっては日常の光景だろうに、それらが初体験の翡翠よりも祈がはしゃぐ。
彼女の衣服にしても、自分の衣服にしても、肌触りもよく、縫い目も規則正しく美しい。
だからこそ……そう、だからこそ、現実味を感じさせないのだ。
とは言えあどけなくこちらへ期待の目を向ける祈の気を害するわけにもいかない。
「たいしたものですね」
と、当たり障りなく翡翠が褒めると、
「おいおい、順門府のご子息に褒められちまったよ。どうする? 『ありがたきしあわせにそんじまするゥ』ってか? 頭下げましょうか?」
……隣の老人に、絡まれた。
――なんなんだ、この男は。
初対面の時からそうだったが、どうにもこの男には敵意のようなものを感じる。こちらとしても、嫌悪を本能的におぼえさせる、いやなヤツだった。
「……ごめんねー、このひと、いつもこんな感じだから」
「いやぁ、たしかにいつもこんな感じだが、コイツに対しちゃわざとやってる」
「中尉ッ!」
自分が男の胸ぐらをつかむよりもはやく、少女が制止の声をとがらせて放った。
「たしかにわたしたちの行動は秘密裏ではありますけど、あなたも『盟約者』をあつかう部署の人間なら、それなりに彼らに敬意をはらってください」
「はっ、バケモノどもにはらう敬意なんてあるもんかい。俺が出世蹴ってまでこんな端役についてんのはな、こいつらを合法的にブッ潰せるからよ」
「……僕だって、好きでこんな格好をしてるわけではないし、こんな時代に蘇ったわけでもない。まして貴方にいちいち許しを乞う必要もない」
どこか屈折していて高飛車な物言いは、実父ゆずりだ。姉がそうであったように。
この言い方も、もはや時代おくれということか。
少なくともこの男に小馬鹿にされない常識は、身につけておく必要があるだろう。
――自分が、本当にここで生きる意味があれば、の話ではあるが。
黙りこくった男ふたりに挟まれて、居心地が悪そうなのは祈だ。
「あぅー」
と意味のない吐息をもらすと、露骨に視線をさまよわせて、空気の緩和の糸口を探している。
やがて、ある店舗の前に立つと「あっ」と救いを得たように声を弾ませた。
「今日、大陸の雑誌の注文が届くころだったっ。ね、あなたも見てみない? っていうか、寄っていい?」
「……かまいませんが」
というよりも、どこに行けば良いのか、どう生きていけば良いのかさえわからない自分だ。
あらゆる物事の取捨選択は、彼女たちにことごとく委ねなければならないのが現実だ。
この空気から脱出できる喜びと、新たな本が得られる喜び。そのふたつがないまぜになった浮かれようで
、少女はその書店に立ち寄った。
色鮮やかな写本の一冊を手に取り、新品同然のその装丁を見てみる。
民間の人々が、気軽に本を手に取り売り買いができる。
表面には出さないがその事実ひとつとっても、驚嘆に値する。
幡豆家や皆戸家がそうであったように、翡翠のいた時代では多くの本は寺社仏閣、あるいや武家が保存や管理をしていた。その秘伝や知識が彼らの既得権益のひとつであり、手放し、公開することなど考えられないことだった。
良いことなのだろうが、時代の進みようを実感し、胸にぽっかりと穴が開いたようだった。
「ちなみに、こうした書の貸し出しや売り買い、公開を推奨したのは晩年の鐘山環公の発案だという」
異邦人よりはしゃぐ少女の背を見て呟いたのは、鴨目とかいう老軍人だった。
枯れた手で本の表皮をまさぐり、冷やかしながら続けるその顔は、渋く、苦々しいものだった。
従兄弟の名が出てきたとき、翡翠は少々意外の念にとらわれた。
情報や思想の統制に、もっとも心を砕かなければならない人間だろうに。
まして、終戦六公中最長、九十五歳という長寿を得た男の晩年といえば、多くの競合相手や政敵はすでになく、彼の天下は盤石だっただろう。
今更人気とりをする必要もなさそうだが。
いぶかる美少年に、老人はつづけた。
「公曰く、『知識や思想なんてものは、保持し、遵守するだけでは、意味がない。どれほど饒舌に語り、用いて得意になったところで、己自身の空しさは変えられない。事の是非、物事の真偽、有用無用、利便。それ自体は問題ではない。大切なのは、それに対し自分がどう考え、どう問い、どう答を導くかである』」
「……あの人らしい」
「『あ、やっべ語りすぎた。ごめん、忘れて。おいやめろ、書くな、記すな』と後に続く。かわいいおじいちゃんだな」
「…………あのひとらしい」
若き日の彼に出会ったころのことを思い出す。
片意地張った息苦しい姉とはちがい、自然体でおおざっぱで放蕩でいい加減な
血筋や環境からして、自分の性質は前者に近いはずなのに、強烈に焦がれたのは彼の生き様だった。
順門府と順問府、どちらかを選べと言われれば、迷いなく前者に従う。実際にそうした。
だが鐘山銀夜と鐘山環を選べと言われれば……そこまで考えて頭から振り払う。
すべて過ぎた話だった。それも、三百年前に。
――どう考え、どう問い、どう答を、得るか? か……。
だが、懐かしい親類の、聞き慣れないその遺言は、混乱と昏迷の泥に沈められた胸に火が、ぽっと差しこむようだった。
「おいらぁ、こっちのほうが好きなんだがね。今じゃ、『絶対正義』とか『絶対秩序』とやらが主流らしい」
鴨目に促されて見れば、鐘山環ゆかりの古本はまるで紙材のように軒先に、しかも土の上に投棄されていた。
代わり店先に燦然と飾られて、大々的に喧伝されているのは、銀髪の乙女の表紙だ。
「知ってるか? いや知るわけねぇか。鐘山銀夜よりも環のほうが目立つ場所で売られている書店は、石を投げ込まれるらしい」
「……だれが」
「さぁな。だが店先で銀夜姫を罵ってみな。どこからともなく、そのお仲間が飛んできて姫様をお救いするだろうぜ」
声高に老人がそう言うと、背後に刺すような視線が飛んでくる。
まして『盟約者』となり五感が強化されている翡翠には、よく分かった。
その視線の主は、無数にいる。
「ま、気持ちはわかる。絵面だけで見りゃ、おいらだってムダに長生きしたあげくカキに当たって死ぬとかマヌケな死に方した爺さんより、銀髪の姫将を拝んでいたいさ」
「そういうものか」
「なにしろ、こっちのは見栄えがいいしなぁ。散り様も立派で、銀髪で、しかも美しいときた。それだけで若いのは条件反射的に食いつきやがる。中身の良し悪しは考えずにありがたがる」
この明暗分かれる比較には虚心になり、翡翠は思いを馳せる。
悪党鐘山環の奸計にやぶれた美しき悲劇の女名将。その本を手に取れば、末路からすくった気分になれるのだろうか。その読者たちは。
彼女はおのれの短い生涯に、本当に無念を感じ、従兄弟を呪って逝ったのか。そのことにさえ想像もおよばずに。
たしかに自分から見れば憐れな人ではあった。
それは潔く、清らかな死であったのかもしれない。環や自分にはマネのできない逝き方であったのかもしれない。
だが、決して美化されてはいけない末路だった。
彼女は幼子を殺したことがある。町を焼いた部下を咎めず、ただ現実から目をそむけ、正義と称して蛮行を行ってきた。
そして姉は静かに、壊れ、狂いつつあった。
最終的に姉を壊したのは環だ。
彼女の斬った幼子の首を見せた。その無言の非難は、彼女に自らの業と信念の矛盾を突きつけたことにより、銀夜は完全に壊れた。
もし彼が止めていなければ、彼女はもっとおぞましい生き方をし、みじめな末路を迎えていただろう。
だが、その首を策謀に用いた環の罪の所在は、いかに。
苦難に満ちた往年でありながら、天寿をまっとうしたということは、それだけ手を汚してきたということに他ならない。
それら生前の行いを思えば、神だの英雄だのと崇めてはいけない人たちだった。
――それでも……
幼き日、朝帰りでこっそり城に帰ってきては家臣にどやされていた従兄弟の顔が、今でも目に浮かぶ。
慣れない訓辞を滔々と垂れ、途中で舌を噛んで赤面した姉の姿を記憶している。
鐘山環にせよ、鐘山銀夜にせよ。
皆戸翡翠にとっては、功も罪もある、等身大の人間であり、家族であり、理屈抜きにいとおしい存在だった。




