第二話:招かれざる浦島の子(1)
「……よしっ! だいたい洗い出し終えたッ!」
小早祈が書を勢いよく閉じるとほこりが舞って、隣に座る老人はおおいにむせ込んだ。
小早文庫。
その通名を持つ小早家別邸へ花嫁をかくまった『文正庁歴史編纂室』のふたりは、少年の正体、来歴に見当をつけるべく調べに調べまくっていた。
州内……いや公国内屈指の蔵書量をほこるこの家こそが、少女学者小早祈の探求心や知識欲をつちかってきたことは考えるまでもない。
二層建ての大陸風のこしらえに改築するのにのべ三年を要し、その甲斐あって新時代の到来の象徴として、人々にはありがたがられていた。
「やっぱり少尉の予測どおり、鐘山家ゆかりの者だったみたいですね……その、『彼』は」
「説明はかいつまんで頼むぜ、学者先生」
「……では、結論から言います。彼の名は皆戸翡翠。結束をかためる名目で皆戸家に養子入りしていますが、旧姓は鐘山。……鐘山銀夜の、異母弟です」
ヒュウッと鴨目は口笛を吹いた。
「それはそれは。今をときめく稀代の英傑、銀夜姫様の弟御で! しかも姉君の信奉者どもと刃をまじえたと!? 嗚呼、なんという運命の皮肉かッ」
立ち上がり、大仰に身振り手振りし、歌劇のまねごとのようなことをする老軍人を、少女学者はにこにこと、ただし薄く引き伸ばしたような笑いで見守っていた。
鴨目士義はせき込んだ。今度はほこりのためでなく、場の空気を変えるべく、故意に。
「……にしても、学生先生にしてはずいぶんと時間がかかったな。日をまたぐのなんて、めったにあるコトじゃねぇだろ」
「ふしぎなほど……いえ、事実を知って納得しましたけど……資料が少なかったので。実父の鐘山宗善側の資料がまったくないんですよ。ただ、彼が殲滅した皆戸家から方々へ逃げた巫女の証言が、口伝として残ってただけです」
その巫女たちの言を集めてまとめると、以下のような事実になる。
皆戸家は代々秘術をもって、家の繁栄を保っていたらしい。
その秘術というのが、水神との婚礼であるという。
一族の中でもとりわけ美しい娘を嫁として選定し、薬や酒に酔わせて小舟に押し込め、鎖と重石で戒め、海底深くの竜宮に住まうといわれる神、とやらの下へ『送り届ける』のだ。
そうして竜宮に嫁いだ娘は、海神の寵愛を受ける。
「品なく言えば、カミサマとやらとまぐわって精を仕込まれるってわけだ」
言いにくそうにしている祈の説明しようとしていることを、老人は代弁した。
生娘学者は顔を赤くしながら神妙にうなずいた。
やがて孕まされた神と人の子は、新たな海神としてとってかわり、皆戸家ならびに鐘山家に次代まで豊穣をもたらすのだという。
「……」
老人は、おぞましい風習を知って口の中が急にかわいたように錯覚した。
それになにやら口寂しい気もして、葉巻の一本でも手元にあれば、気も晴れるだろうにと惜しむ。
「……どう考えても迷信悪習のたぐいですけど、彼、翡翠の件はそれに輪をかけて悪辣でした」
時節は樹治六十五年。
この頃には宗善側の勢力の動きは、すっかり封じ込められていた。
東の怨敵鐘山環は東に西に版図を拡大し、日に日にその声望を増していた。
南では彼の盟友である佐古倉直が圧迫してきていた。
宗善側の盟主である藤丘王朝は完全に砂上の楼閣となっていた。
そんな苦境が狂わせたか、あるいはなにか魔的な存在にでも示唆されたのか。
主家より養子を預けられるほどに密接な関係にあった皆戸家は、禁じ手に出た。
花嫁は、皆戸家の人間ではなく鐘山家の出であった。
その花嫁、皆戸翡翠は美しくはあったが女ではなく、子をもうけられぬ男子であった。
神とまじわり、決して産まれるはずのない種子を体内に生み付けられた少年は、出されることなく留まり続ける神の力を内包することになった。
それが皆戸家のみならず鐘山家全体に、永遠に恩恵をもたらすものとして。
一度沈めた花嫁を、ふたたび引き上げる気であったのかは定かではない。
ただその前に、皆戸家は宗善みずからが率いる軍勢によって殲滅させられた。
……元来宗教嫌いの彼は、利と理によって皆戸家を従えていたにすぎず、狂信にはしった彼らを生かしておくような温情はなかったのだろうと推測される。
「……だが、皮肉なカミサマは、他の真偽はいざ知らず翡翠の件だけはかなえちまった」
祈は唇を湿らせて頷いた。
「もともと、鐘山家の人間はそういう神性のもの、もしくは魔的な存在に惹かれやすい体質とも言われています。彼の姉、鐘山銀夜の生死は実のところ判然としません。異なる世に飛ばされそこで英霊となって奮戦した、という荒唐無稽なウワサもあります。彼女らの敵である環の家中には、歳をとらない尼僧など、超常の能力を持つものも多かったそうです」
「……余計な力身につけやがって」
そうした存在は古来『天恵人』としてあがめられてきた、あるいは恐れられてきた。
そうした存在があるからこそ、『銀の星夜会』などという存在が現れるのだとも、鴨目は思っている。
今このとき、皆戸翡翠の件だってそうだ。
「なんだって、めでたく新時代になってから現れるんだろうねぇ、あの時代遅れども……『盟約者』ってヤツは」
老人がぼやいたその時、靴音がカツ、と背後で鳴った。
忍び足で近づいてくるのはわかっていた。だからこそ、あえて聞こえよがしに言ったのだ。
「『盟約者』とは、なんだ」
振り返れば、美少年がいる。
革靴にせよ、鴨目が着せ替えた余りの軍服にせよ、身の丈に合っておらず着られている感がある。
それでも格好じたいはすべて男物のはずで、口調も強いはず。
目つきだって険しいのだが、その目元や唇にかけて、妙な色気というか、「女」の気配はたしかにある。
しなやかな手つきで手にした歴史書をパタリと閉じると、その妙なる目の輝きはいっそうに冷たさを増した。
「ひとのことをずいぶん詮索してもらったようだが、今度はこちらからお聞きしたい。……『盟約者』とはなんだ? 僕の知らない間に、いったいこの世に何が起こった?」
数百年の時を超えて浮かび上がった少年……皆戸翡翠は、歳不相応なかたい口調でまっすぐに尋ねた。




