プロローグ:わだつみの花嫁(1)
――樹治六十五年。
しゃん、しゃん。
鈴の音が、規則ただしく夜の海に響きわたる。
その音に導かれるように、挟まれるように、追い立てられるように、花嫁は神官に手を引かれ、闇の桟橋を歩いていた。
角隠しに覆われた肌地は白かった。だが、花嫁の肌は熱に浮かされ、紅く染め上げられていた。
父祖伝来という儀式に用いるための神酒と、薬物によって。
手を引くのは、養父であるはずだった。
そのはずなのに、顔が闇と酔いとで判然としなかった。いや、それは父の肉体を借りた別の存在ではないか、とさえ思った。
ふそつにかみずまります
てんとちにみはたらきをあらわしたまうなかはらきはるは
こんげんの
みおやのみつかいにしてももちれっかとやあわせたまひてばんこひとつとなりて
われらいっさいをうみ
よろずのものをごしはいあらせたまうよう そのみたまをいやすよう
ばんりゅうのかみがみをつくりたまひねむりたまひ……
ゆったりと、おぼつかない嫁の足取りに合わせて、歩きながらそれは聞き慣れない祝詞を唱える。
……ゆえにべにのよめごをふねにおきてはらいきよめたまいて
きよきむねかりて ささげたてまつりて そのつまとす
ちょうをうけし つま かならず みのりにひたがいて
……誓って、子孫を、孕み、産み育てたもう
「……子を、産む?」
ぽつり、と嫁はその違和感を拾い上げてつぶやいた。
子を孕むとは、産むとは、どういうことか。
そもそも自分は……男ではないか。
「さよう。もはや、お家を、鐘山家の危急を救うには、神の力を頼りにするほか、いえ、いかなる外法を用いようとも、その力を、我がものとするほかございません。……若様」
養父の言葉に、胃の腑を舐められるようなそのおぞましさに、花嫁に扮した少年は、ビクリと身を震わせた。
その男の背の向こうに、黒々と、無限に広がる海原があった。ぽつねんと浮かぶ、小舟の筺があった。
氏子たちにそれが開かれ、少年の手足は鎖に固く縛られる。
「この危急も、すべては天意をないがしろにしたお父上、今は亡き銀夜姫の暴走から端を発したもの。ならばその血縁の末である貴方が、彼らの負った罪を流し清めるのです。……わだつみの、花嫁となって」
いつもは温厚で、篤実で、誠実な養父。その皆戸家の長が、常軌を逸した儀式を用いようとしている。
そのことは分かった。それによって自分が今、この海へと人柱として投げ出されようとしていることも。
「その力を孕み、やがてその恩恵が……お家を救うのです」
狂気に取り憑かれた父を、彼は止めることができなかった。
抵抗もできず、頭さえもはたらかない。窮屈な小舟の中に、再開された、呪いの言葉と共に押し込められていく。
――だが、おれは……何者なのだろうか?
花嫁か、男子なのか。
武家なのか、
神の側の人間になるのか、人の側なのか。
生きているのか、死んでいるのか。
生きたいのか。こんな目に遭ってまで、生きていたいのか。どうして?
皆戸家の人間なのか。
鐘山家の人間なのか。
その鐘山家にしても、今はふたつに割れている。
従兄弟である鐘山環が新たに作った国と、父と亡姉が受け継いだ国と。
そして自分は、後者に身を置いている。
だけれども、本当は……肉親の、家族としての情を感じていたのは、その温かみをくれたのは……
――もし、あの時、あなたについて行っていれば……もう少しわかりやすく、生きられたのかな。環兄さん。
小舟が鎖と、容れられた人間の重みで海中深くに沈んでいく。
元々海を渡るためのものではない。たちまちのうちに隙間から、つめたい水が流れ込んで、白無垢と肌を犯していく。
少年はうっすらと目を閉じ、やがて深い眠りへと落ちていく。




