雪女の話
雪というのは怖ろしいもので、在りもしないことを見せたりする。
静かに降っているうちは、優美。積もった雪に月の照り映え、白く輝く様は清冽。音無き中に、シンと音を聞くほどに、冴え渡る。掌中に落ちた雪粒の溶け失せる様の儚さに、人はまた雅趣を見る。
かと思えば、轟轟、風に乗っては人を巻き、目を潰して途に迷わせる。人と云わず獣と云わず、熱を奪って殺してしまう。或いは屋根の上に積もり積もって、一夜のうちに家人諸共、家を押し殺す。
真白で美麗な軍勢は、春の陽に追われて去り、跡には何も遺さない。
だからこそ、雪の怖ろしさは、その冬のうちにしかわからない。記憶された雪の怖ろしさなどは、後知恵に組み立てた知識でしかない。理解の範疇に収めるべく薄められた、知識としての怖ろしさしか伴わない。肌身に凍みた怖ろしさは、本能をざわつかせる薄気味悪さは、冬の終わりと共に癒され、忘却されてしまう。
この怖ろしさは、千言万句を尽くしても語りつくせるものではない。
さて、それは聞けば、明治がもう終わろうという頃のことであったらしい。
越中立山に寛蔵という猟師がいたという。
寛蔵はある冬、山に狐を獲りに入った。
狐の毛皮と云うものは、春夏に獲ったものより、秋の終わりから冬の入りがけに獲ったものが珍重される。その時期に獲った毛皮は、秋に蓄えた栄養で色艶も良く、暖かな冬毛を生やしていることもあり、高値で取引されるのである。
寛蔵は山に入って直ぐに、一頭の白狐を見つけた。
狐がまだこちらに気づいていないことを確かめると、寛蔵は手近な枯れた草叢に身を潜めた。臭いで気づかれることの無いよう、風の流れには十分な注意を払っている。
寛蔵は息を殺す。音を潜め、弓に矢をつがえる。
最近は鉄炮を用いる猟師も多いのだが、寛蔵は未だに弓を引いていた。鉄炮は扱いに気をつけないと、冬山では凍りついて思い通りに動いてくれないばかりか、暴発し、指を失くすことさえある。また、弾丸が毛皮をズタズタに引き千切り、売り物にならなくなることもある。
何より、寛蔵は鉄炮の火薬の臭いが嫌いだった。あの金臭いような、焦げ臭いような臭いを漂わせていたのでは、寛蔵の集中が保たない。
寛蔵は狐の白い頸筋に視線を突き刺したまま、ゆっくりと弦を引いた。
雪景に独り佇む狐を見据え、寛蔵は深く静かに息を吐く。狐の呼吸を読むかのように、寛蔵は弓を構えたまま、じりと睨み、その時を待った。
ふい、と狐が首を廻らせる。
その瞬間に、寛蔵は矢を放った。
カン、という弓鳴りが、冷たく冴えた山々に響く。
雉が二三羽、肝を潰し、羽音も高く宙に立つ。
矢は風を切り、一直線に狐の頚を目掛けて飛んだ。
狐が身を翻し、撥ねる。
矢は、狐の尾の毛の三つ四つを掠め取り、虚しく雪の上に刺さった。
「畜生っ!」
鼻息荒く、寛蔵はいきり立った。
ほんの数寸ばかりも逸れていれば、手傷を与えられたものを。
歯噛みして口惜しがる寛蔵が、狐の後を目で追うと、そこには奇異な姿があった。
矢をかわしたあの白狐が、逃げ失せることもなく、五六間ばかり上手に立ち、寛蔵を見下ろしている。
凛と立つその姿には、人に対する恐れなど無いように見えた。傲然と、山野の威厳の化身であるかのように、寛蔵を睨めおろしている。
寛蔵は底知れない畏怖を感じた。本質を掴み得ない何かが、寛蔵の心を拉ごうとしているかのようだった。
だが、寛蔵の本能が慄くほどに、猟師としての自尊心がむくむくと鎌首をもたげる。
何を畏るるものや。帝都に陸蒸汽駆け、海に壮麗の敷島艦、天を仰げば帝の御稜威遍く世を治めたもうこの大神州。名も知れぬ、神に紛いたる狐狗狸の何するものぞ。吾は過ぎし日、オロシヤの夷人共を、討ちて果たした大和武人ぞ。銃捨て、弓を取りたれど、意気は已まず、血は冷めず。何を畏るることがあろうや。
寛蔵は雪に刺さった矢を取るや、再び狐に向けて弓を引いた。見下ろす狐の眉間に、ピタリと狙いを定める。
狐の目が、笑みに歪んだように見えた。
カン。
手元が狂った矢は、見当違いの野っ原に飛び、消えた。
狐は嘲るような一瞥をくれると、パッと雪を散らし、白い原野に撥ねた。
寛蔵は一瞬躊躇した。言いようの無い畏怖が、寛蔵の脚に絡みつく。
しかし、寛蔵は雪を蹴った。畏怖も躊躇も振り払って、狐を追った。
猟師の自尊心が、文明の尖兵であったという矜恃が、曖昧模糊たる畏れを一蹴した。
寛蔵は狐を追う。
狐は、積もり積もった雪の斜面を飛ぶように駆ける。そして、ピタリと足を止め、振り返る。息を荒げて寛蔵が追いつき、弓を構えるのを見るや、再び雪原に跳ぶ。
寛蔵は知らず知らずのうちに、普段冬のうちは踏み入らない山の奥へと誘い込まれて行った。
日が傾き、雪がちらつき始める。
寛蔵がそのことに気がついたのは、狐が闇に消えた時だった。
辺りはすでに黄昏と夕闇とが深く入り混じり、五間と先は見通せない。
「畜生め」
寛蔵は毒づくと、頭によぎる、狐に謀られたという考えを振り払った。
狐に人を欺くほどの能が有るはずも無い。こうなったのは、自身の未熟さによるものだと。
だからこそ、酷く歯痒く、憤ろしかった。
寛蔵は肩から提げた頭陀袋を下ろすと、ランプを取り出し、火を点した。
灯りを掲げ、周囲を見渡す。周りに立つのは葉を落とした冬木立。動くものは夥しい数の雪粒ばかり。
途方に暮れて、寛蔵は寂しい雑木の斜面を登った。斜面を下れば平地には出られる。しかし、下れば崖に行き当たる惧れも大きくなる。崖から落ちれば、最悪死ぬことになるだろう。難儀でも、山道を登ればいつかは山頂に行き着く。山頂に辿り着ければ、あとは登山道に従って下ることが出来る。
雪は次第に激しさを増す。夜気はどんどん周囲に満ちる。ランプの明かりは荒び吹く雪に遮られ、一丈先さえ見通せない。目とランプの間にさえ、びょうびょう声を上げて雪が駆け過ぎる。その先は、何も見えない壁のような真黒な闇が聳えている。
自分一人が、何も無い世界に取り残されたようだった。寛蔵は、恐慌を起こしそうになるのを抑え、一歩一歩と歩を進めた。
真白い雪が吹いているのに、辺りは真黒。明かりが消えれば闇に飲まれる。明かりの下さえ、白く塗り潰されようとしている。
「山の神様、氏神様、山王様、阿弥陀様、お救い下され。お守りくだされ」
知らず、寛蔵は己が軽んじた神々に縋り、祈りを呟いていた。
動くものは目と鼻の先を飛びすぎる雪しかない。その白い帳と闇の壁の遥か先に、寛蔵は確かに動くものを見た。何も見えないはずの真黒な闇の
中で、吹き荒ぶ雪の白にも溶けず、白い人影が動くのを、寛蔵は確かに見た。
寛蔵はその方向へと近付いた。怖れなどは無い。
人がいるならば、自分以外に一人でもこの世界に人がいるならば、今の自分にとっては百人の歩兵よりも心強い。何も無いこの世界に、ただ一人置き去りにされているのではないという、確かな証が欲しかった。
寛蔵は、孤独に駆られていた。
積もる雪で、足元はどんどん悪くなる。疲労が肩に、脚に、しがみ付く様に貯まっていく。雪は蓑笠に浸みて肌を侵し、風は容赦なく熱を奪っていく。心臓は焦燥に早鐘を打つも、思い通りに進めない歯痒さに苛立つばかり。
「おお」
ようやっと、人影を見た辺りに到り着き、寛蔵は大きな声を漏らした。
そこに、人影は無かった。切り立つ岩盤が高く聳えているだけであったが、その足元には、山の裂け目のような洞窟が口を開けていた。
寛蔵はそろりと洞窟に踏み込んだ。雪原とは違い、明かりが奥まで届く。奥行きは精々二丈といったところだろう。熊が冬眠している様子はない。雪は入口から二尺ぐらいまでしか吹き込んでおらず、風は奥へは届かない。
寛蔵は、これぞ天の配剤、神仏のお導きと喜んだ。洞窟に在るのは石ころばかりで、焚き木に出来るような木っ端は無い。仕方もなく、寛蔵は洞窟の奥に腰を下ろした。雪の野っ原を当て所も知れず夜通し歩き回るよりは、マシな居所を見つけたと思うべきだった。
頭陀袋を下ろし食べ物を漁ったが、握り飯はカチカチに凍りつき、喰えたものではなかった。適当に放り込んであった薩摩芋が三本だけ、無事に残っていた。寛蔵は生の芋を齧った。当然、美味くは無い。それでも僅かずつ齧り、執拗に噛み砕き、口中で唾液と擂り合わせると、仄かな甘みが舌の上に漂った。決して美味いものではないが、身体に染み入る味――滋味があった。
寛蔵は芋を齧りながら、なるべく熱を逃さないように、身を縮めた。
たとえ雪風が吹き込まずとも、ここで眠れば朝を迎えられまい。寛蔵は洞窟で芋を齧りながら、朝を待とうと決めた。
寛蔵の頭に、あの白狐の姿が過ぎった。やはり、あの白狐は山の神の使いであったのだろうか。傲った人間に、山の神の力を思い知らせるべく、自分をここまで誘い込んだのだろうか。
聞けば、過ぎし日露の大戦の前にも陸軍の一個大隊が冬山で遭難したという。軍機とされた話と聞くが、人の口に戸は立てられない。まして、三百人からの大人数が死んだの、行方知れずだのともなれば、そんな話は封殺すること自体が無謀というものだ。
あの事件も、冬山を踏破しようとして違った道に踏み入って遭難したのだという。一個大隊もいれば、誤った道に入ったことに気付きそうなものだが、誰一人気付くことなく、夥しい犠牲を払うことになった。
冬山は、人の踏み入るべきでない、神神の庭なのではないか。寛蔵の脳裏に、そんな考えがぞろりと浮かび上がった。そして、禁を犯した者は、神神からの罰を下されるのではないか。
莫迦莫迦しい、と思った。だが、そう思えば思うほど、その莫迦莫迦しい仮説を打ち砕くに足る論拠が、自分の手の内にはないことに気付いていく。
もし、万が一にも、そうであるのならば。
自分も、件の陸軍大隊の兵士達のように、裁きを受けねばならないのだろうか。
ふっと、影が揺れた。
寛蔵は慄え上がった。
ランプの炎が激しく揺れ、みるみる小さく萎んでいく。
「待て、待て、消えるんじゃない!」
寛蔵は泣きそうな声を上げてランプに縋りついたが、炎は無情に、震えて消えた。
寛蔵は、闇の奥にぽつり、取り残された。
頭陀袋の燐寸を探ろうとしたが、手探りでは全く見当がつかない。諦めて、寛蔵は膝を抱えた。
真暗だった。鼻を抓まれてでも分からぬ闇、というのは、こういうものかと思った。自分が今、目を開けているのか、閉じているのかも曖昧だった。寒いのか、寒くないのかもあやふやになってくる。洞窟の外を吹く、びょうびょうとも、ごうごうともつかぬ吹雪の音も、一本調子で響き続ける。すると、自分は今、音を聞いているのかどうかも分からなくなってくる。果たして今、自分は息を吸っているのか、吐いているのか、止まっているのか。生きているのか、死んでいるのか。何もかもが曖昧になってくる。
感覚が曖昧だと、果たして自分がここに存在しているのかも確信が持てなくなってくる。これは悪い夢で、目が覚めれば煎餅布団の上に寝ているのではないか。
しかし、僅かでも身を捩れば、筋骨深くに喰い込んだ疲労感が鈍い痛みを伴って軋む。これもまた、靄の向こうから痛んでくるような暈けた痛みだったが、その鈍痛が、寛蔵の夢想への逃避を妨げていた。
寛蔵は、巨大な獣から身を隠す鼠のように息を殺し、身を縮め、洞窟の奥でじっと入口の方を睨み続けた。何に怯えているのか、寛蔵は分からない。山の神を畏れているのか、自然の威力に怖気を成したか、冬眠し損ねた熊の襲撃を警戒しているのか。寛蔵は、自分が今、何を怖れているのかが分からないことが、怖かった。
どれほどの時間が経ったのかも分からない。一刻か、二刻か。ほんの吐息の五、六度か。何もかもが曖昧で、有耶無耶で、漠然としていた。自分は、闇の中に溶けてしまったのではないかとさえ考えた。
ふと、真黒に塗り込められた中に、一点、動くものがあった。
白い。雪の粒のようだった。
点は、焦れったいほどの速さで大きさを増し、形を成していく。
寛蔵の目は、それに杭で止められたように動かせなかった。
点はじりじりと人の影を成し、ゆっくりと、寛蔵に近付いてくる。白い影は、長襦袢を着た女の姿をしていた。
この猛吹雪の山中を女が一人、薄着で彷徨しているなど、ありえない。
寛蔵は恐怖に呑み込まれた。視線を逸らしたいが、逸らすことが出来ない。
自分が何を恐れているのか、その答えが今、そこにあった。だからこそ、寛蔵は目を背けることが出来なかった。
白い人影は、寛蔵の前に立った。
光っているわけでもないのに、人影は闇の中で切り抜いたように白く冴えていた。
女の形をした白い影の目が、嗤った。
人影は膝を折ると、寛蔵の頬に手を添える。そして、耳元で何かを囁いた。
寛蔵が覚えているのは、そこまでだった。
翌朝、寛蔵は一人で山を降りてきた。
夜になっても帰らない寛蔵の身を案じ、捜しに出ようとしていた村人の一団と落ち合うと、寛蔵は意識を失ってばったりと倒れた。
寛蔵は顔と耳に酷い凍傷を負っていた。一箇月に亘って熱病に魘され、訳のわからない譫言を叫んでは、風の音に怯え続けた。結局、傷は癒えたが痕は残った。
寛蔵は、それ以来山に入らなくなったという。村で養蚕をして老境を迎えたそうである。
寛蔵が山で遇ったものがなんだったのか、寛蔵が白い人影から何を聞いたのかは、誰も知らない。
寛蔵は、それを墓の下まで持って行ってしまったのだという。
戦後間もない頃のこと。私が立山で、片耳の無い、頬に掌のような形の黒い痕のある老人から聞いた話である。
(了)