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第2章  5月(1)

5月は3部仕立てです。

 それからしばらくは寮生活も学園生活も平穏に過ぎている。

 英語の矢崎には相変わらずネチネチとやられているが、予習復習を欠かさないおかげでなんとかしのげていたし、遅刻ギリギリ登校もなくなって、八反田に朝のホームルームで指摘されることも、近頃はめっきりと少ない。そして嬉しいことに、星杜学園では、ゴールデンウィークはカレンダーに関係なく通しで連休になるらしいのだ。

 が、部活をしている先輩たちにも、それを指導している教師たちにも、連休なんてあまり関係なさそうだから、全寮制の一年生に対する心遣いだったりするのかもしれない。しかしそれは、どこかで他の休みが削られるということも意味していたりする。

 

 明日からゴールデンウィークに入るという日の帰りのホームルーム。いつものように担任の八反田が連絡事項を話していて、いつものように私は軽く聞き流していた。

「それと、ゴールデンウィーク中には恒例の寮祭が開催されるので……」

(寮祭?)

 

 聞いてない、聞いてないよ、そんな面白そうな行事。


「きりーつ。礼」

 ホームルームが終わって、クラスのみんながいっせいにカバンを机の上にガタガタと乗せ始め、帰り支度を始める。

「久遠さん」

「あれぇ、小春ちゃん。小春ちゃんから私の方に来てくれるなんて、珍しいねぇ」

「うん、あの、ちょっと寮祭のことを聞きたくてさ」

 視界の端に、仲京香と桐生誠也が並んで教室から出て行くのが映る。並んでという表現で正しいのかどうかは分からない。仲京香がくっついて出て行った、という感じの方が近いかもしれない。

(あんな仏頂面しかしない桐生なんかと、一緒に帰りたいもんかね?)

(私ならお断りです)

 と、なぜだか急に私の脳裏には、中庭で見た桐生の優しい瞳が一瞬蘇ってくる。ぶんぶんと頭を振る。振る。振り回す。

(ぜーったいにお断り!)

 

 麻莉子は無邪気に会話を続ける。

「え~? 小春ちゃんったらぁ、寮祭のこと、知らないのぉ?」

 知っていたら麻莉子に聞いたりはしない、と言いたい気持ちをぐっと抑えているところへ、これまたいつものように友哉が会話に加わってくる。

「あっ、友哉く~ん、ちょっと聞いてよぉ。小春ちゃんったらねぇ、入学して最初の大行事を知らないみたいなんだよ~」

「えぇ? そうなんですか、波原さん」

「う……、まぁそういう感じっていうか」

 二人からの言われようが、なんとなく面白くない。

「波原さん。あのですね、寮祭というのは、生徒会が主催の、毎年恒例の行事なんですよ」

 麻莉子が、友哉の話しを遮って続ける。

「毎年5月5日に開催される、寮の1階から4階をひたすらに走り続けるっていうお祭りなんだよぅ」

「えっ?それってなに?ただ走るだけでお祭り?」

 クラスメイトたちが、一人また一人と教室を出て行く。

「ん~、確かにただ走るだけなんだけどねぇ、でも小春ちゃん、優勝の景品が凄いっていうかぁ~」

「えっ、久遠さん、すごい景品ってなんですか!?」

 友哉が景品に興味を示すとは思いもよらなかった。

 麻莉子の態度がなぜだか偉そうになる。

「景品はぁ、あまり知られてないんだけどぉ、麻莉子が情報網を駆使して集めたところによるとぉ、どうやら『ミスター星杜、ミス星杜とのデート券』かぁ~」

(なんだ? そのつまんない景品は)

 が、麻莉子は会話を続ける。

「もしくは、『学食1年間フリーパス券』!」

「「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」」

 間髪いれずに叫んだ友哉と私の声が重なった。

「麻莉子、マジで!?」

「久遠さん! それ、間違いない??」

 友哉の目がやけにギラギラしているように見えるのは、見間違いか?


 そんなふうに友哉と私は思わず興奮したわけなんだけれども、でも景品に関しても周知の事実のようだった。なんせ寮まで戻る校舎内の壁や、寮内の掲示板にも、寮祭のポスターがベタベタと貼ってあったのだから。どうやら友哉と私の目は、節穴だったらしい。

(なにが『情報網を駆使してぇ』だ)

 麻莉子はなかなか食えないところあり。

 そして友哉は……まだまだ未知の生物。


☆☆☆

 今年の星杜学園のゴールデンウィークは今日からが8連休、同室の林さんは朝からせっせと自宅へ帰る支度をしていた。

「林さん、家に帰るんだ~」

 私が話しかけると、林さんはカバンに荷物を詰め込んでいた手をとめる。

「うん。始めて親もとから離れたでしょ? 寂しいのか、両親が帰って来るようにってうるさくて。波原さんはどうするの?」

 林さんは小さく、あっ、と言うと、しまったという表情をする。

「うん。あたし、まるあし組なもんで、ここの方が気楽なんだ」

 まるあし組というのは通称で、正確にいうと、学園の【あしなが特別枠制度】を使って合格した生徒のことを指している。何らかの理由で両親と死別した生徒が、学園から授業料の減額や免除を受けられるシステムのことだ。

 この制度の恩恵を受けている生徒数は公表されてはいないけれど、わりあいたくさんいるような気がする。

「林さん、気にしないでー。両親が亡くなってから4~5年たってるし、私を引き取ってくれた家族からは、たくさん愛情を貰ったし」

 まだ林さんは複雑そうな顔をしていて、逆にこっちの方が申し訳ない気持ちになる。

「もぅ、そんな顔しないで欲しいなぁ。子どもはいつか親を見送る時がくるんだから、それが人よりちょっと早かっただけのことでしょ? それに、この学園には両親のいない生徒、けっこういるんじゃない? そういう人と出会う度にそんな顔していたら、精神的ダメージの蓄積量、すぐにマックスだよ?」

 林さんは賢い人だ。私に対してどういう態度をとればいいのかを即座に理解すると、ワンテンポ置いて気持ちを切り替えてくれる。

「波原さん。地元のおいしいお土産、たくさん買ってくるからね!」

 そう言って、にっこりと笑った。最高の笑顔!

(おいしいお土産、待ってまーす!)


 寮祭の前日には帰ってくるからと言い残して林さんが出掛けていくと、当然ながら、これから数日間、私は部屋に一人だ。

 新しい環境になり、身心ともに疲れも溜まってきているから、このゴールデンウィークはのんびり過ごそうと、特に予定もいれてない。

 とはいっても、ゴールデンウィーク最終日の5月5日の寮祭だけは別のはなしである。

 麻莉子の事前情報によると、実家帰り組も前日までには戻ってきて、寮祭当日には一年生のほぼ全員が揃うらしい。寮の廊下を激走する生徒の応援をする為と、もうひとつの理由というのが、生徒会役員のお姿を拝謁する為なんだそうだ。

 なんでも、寮祭は生徒会主催だから必ず会長・副会長が来るとのこと。

 しかも麻莉子いわく、星杜学園の生徒会長は代々美男美女で有名、今年の早水坂恭一はやみざかきょういち生徒会長は、これまでの中でもピカイチのイケメンらしい。一年女子の中にも、すでにファンは多数とか。

 ついでにいうと、副会長は藍原琴音あいはらことねさんといい、彼女はこの4月から二年生で、なんと『ミス星杜』だそうだ。色白で、長いストレートの黒髪と涼しげな目元、その儚げな立ち居振る舞いが、これまた男子生徒に絶大なる指示を受けている。

 ……と、麻莉子が言っていた。


 歴代ピカイチのイケメン生徒会長と、ミス星杜の副会長。なんだか出来過ぎな感じで面白くない気もするが、この感情は単なるひがみとも言われている。ただし、私は生徒会長も副会長もまだ見たことがないから、麻莉子情報の真偽については今のところは、なんとも言えないが。


 まぁ、とにかく、波原小春が優勝して、一年間の学食フリーパス券を頂くことになる事だけは間違いないだろう。


 寮生のどれくらいが帰省したのかは知らないけれど、麻莉子と友哉の二人はともに帰省組だ。

 そして、その二人からは毎日、山のようなメールが届いている。メールの量を友情のバロメーターにする程、私は単純じゃないけれど、それでも一人でいる時などは、気にかけてくれる友達の存在は嬉しいものだ。 

 そういえば。

 メール着信音が鳴ったので、確認したメールの送信者が仲京香だった時には驚いた。

『波原さん、いかがお過ごし?』

(いかがお過ごし? なんて言われてもねぇ)

 私には、学園生活を送っていく上で、仲京香が私との距離を探っているように思えてしかたがなかった。

 直接の嫌がらせはそれほどでもないので、根っからの悪人じゃないような気もするけれど、それでも普段の高慢チキな言動が腹に据えかねるのは変わらなかった。

 しかも、どこが気に触ったものか、仲京香は私に特別な対抗意識を持っているようでもある。たいへん迷惑なハナシではあるんだけれども、自分ではどうしようもないことだし、仲京香の傘下に入る気なんて、私にはさらさらない。

『特に変わったこともなく、平穏に過ごしています。桐生くんも寮の居残り組、でも変わりなく元気そうです』

 そう返信した。『桐生くんは』じゃなくて、『桐生くんも』っていうのがミソね。ここには、『(私も)桐生くんも』という意味をこめてある。

(ちょっとくらいのイヤミは許されるよね?)

 イヤミだって分からないかもしれないけど、うん、仲京香なら意外とわからないかもしれない。


 ということで、その桐生はといえば、ゴールデンウィーク中は本当に寮に残っていたようで、休み中に何度か学園の図書館内で見かけることがあった。

 桐生はもしかすると【まるあし組】の生徒で、私と同じように両親を亡くしているのかもしれないけれど、そんなことは私にとっては、どうでもいい事だ。


 その日、私がたまたま図書館で見かけた桐生は、上級生の男子生徒と小声でなにやら談笑をしているところだった。上靴に入っているラインの色をみると、相手はどうやら3年生のようである。入学式からまだひと月あまり、1年生は部活だって本格的には始まっていないし、それに星杜には私たちの中学校からは先輩も来ていないはずなのに。

(なんで桐生には、あんなに親しい上級生がいるんだろ)

 不思議に思ったのを覚えている。

 その上級生は、180㎝くらいある桐生よりもまだ身長が高く、一見冷たそうに見えるけれど端正でキレイな顔立ちをしていた。

 間違いなくイケメンの部類なんだろうけど、彼から無駄にだだ漏れしている威圧感は、まわりにひどく圧迫感を与えていた。

(ましてやあの桐生と二人でいたら、威圧感倍増だよ)

 桐生はまだ一年だけど、あの場にいた人なら同感してくれるに違いない。

(あの上級生、なんだか桐生と同じニオイがする)


 その他は特に変わった事もなく、私の連休は過ぎていった。

 静かだった寮棟も、昨日くらいから戻り始めた生徒たちで、活気が戻ってきている。そして4日の昼過ぎには林さんも戻ってきた。約束通り、美味しそうなお土産をどっさり抱えて。


☆☆☆

 寮祭当日の朝。

 私は二段ベッドの上段で目が覚める。朝が大の苦手というのに携帯の目覚ましアラームが鳴る前に早々と目が覚める。

 すぐに枕元に置いた携帯電話の目覚まし機能を解除し、ついでにメールをチェックする。何通かの中には麻莉子と友哉からのものもあった。

『小春ちゃん、ただいま。明日の寮祭、がんばろうね』

 不思議な事に麻莉子は、麻莉子のくせにあまり絵文字を使わないシンプルなメールをくれる。最初の頃は、読んでいても別人のように思えて違和感があったけれど、そのギャップにも慣れてきた。今では逆に、この簡潔な文章が好感度アップ要素の一つなんだから、人間の感覚というものは面白い。

『波原さん。明日の寮祭では、負けませんからね』

 これは友哉からのメール。

(だから友哉。勝敗は男子と女子で別々なんだってば)

 徐々に私の身体に力が満ちてくる、この充足感。学食フリーパス券は目の前!

 窓のカーテンを開けてみると、五月晴れの一日になりそうな、ご機嫌な空が広がっていた。

 ちょうどその時、外からポンポンと鳴る花火の音が聞こえてくる。

 その音を聞くと、否が応にも気分は盛り上がってくる。寮祭の主催である生徒会のメンバーが打ち上げているんだろう。

「おはよー。なんかね、もう目が覚めちゃってさぁ」

 ちょっと照れ笑いをしつつ、二段ベッドの階段を降りていく。

「波原さん、おはよ。あのね、お雑煮作ろうかと思って。昨日の夜にダシをとってあるか

ら、すぐに食べられるよ。波原さんに、私の作ったお雑煮を食べて頑張って貰いたくってさ」

 にこにこ天使の笑顔で林さんにそんな事を言われたら、そりゃもう。

(本当にこの林さんったら)

 感動して朝から涙が出そうになる。

 が、ここでは『なんでお雑煮なのか』なんて事は、間違っても聞いちゃいけないのだ。林さんのお母さんは、運動会や遠足の朝、お雑煮を作って林さんを送りだしていたかもしれないじゃないの。それぞれの家庭家庭で『普通』ってのは違うもんだからね。

 林さんのお雑煮は、きちんと鶏ガラでダシをとった醤油味ベースで、大根や人参や椎茸なんかの具沢山でとてもおいしかった。林さんのお母さんは、ちゃんと林さんを育てたんだなぁとしみじみと思う。

 けれど、お餅なら5~6個は楽勝な私に、『スポーツ前には、食べないのもダメなんだけど、お腹にため過ぎるのもダメなんだよ』と言って、おもちを2個しかよそってくれなかった事には、ちょっと文句を言いたいところなんだけど。


 そうして着替えも済ませ、飲み物やタオルの準備もほぼ完了して準備万端。

 廊下や窓の外からは、先ほどから少しずつガヤガヤとした雰囲気がしている。

 思わず武者震い。ぱんぱんと両手で両頬を叩いてぐっとお腹に力を込める。


(いざ出陣!)


 私は林さんに見送られて、玄関ドアから一歩出た。

 ちなみに寮祭は、エントリーした生徒だけが走るのであって、応援だけの生徒ももちろんいる。林さんは応援組みだ。

 廊下を軽くランニングする者や、たむろしてキャーキャー騒いでる者たち。廊下の窓から目に入ってくるのは、晴れ渡った空の下で楽しそうにじゃれあう者やストレッチをしている者たち。

 私は大きく深呼吸をして寮の階段を降り、一階へと向かう。

「小春ちゃ~ん。おはよ~ぅ」

 他の人たちに混じって階段を降りる私を見つけた麻莉子が走り寄ってくる。

(麻莉子は、ホント犬コロみたいだ)

 これはもちろんほめ言葉。

(あれ?)

 私は、想定外の麻莉子のジャージ姿に一瞬戸惑う。


「ちょっとちょっとぉ。小春ちゃん、こっちこっち、こっち来て、アレ見てよぅ~」

 麻莉子が指し示したのは、校舎と寮を隔てるガラス扉の方向だった。まずは麻莉子のジャージ姿の理由を聞こうと思っていたはずが、思わず目が釘付けになる。

「なんなの? あの悪趣味な演台?」

 外で朝礼とかある時に、校長先生とかが上がって話しをする、あの台だ。その手の台が、ゲートの前にどーんと陣取っている。しかもその演台は、折り紙で作った色とりどりの輪っかの鎖や、赤やピンクのティッシュで作ったバラの花でけばけばしく、かつショボい感じで飾りたてられていて、生徒数名が、演台の周辺でマイクの設置や調整などで忙しくしていた。

(小学校のお別れ会かっ!)

「小春ちゃ~ん。あの台の上で、会長と副会長が2人で開会の宣言をするんだよぅ」

「あのセンスのない飾り付けをした台の上で?」

「そうぉ~? でも星杜の恒例みたいだしさぁ。あっ、それとね、小春ちゃん。会長の挨拶の時には、女子生徒たちはみんな紙テープを投げて盛り上がるみたいだからさぁ~。小春ちゃんの分の紙テープも、麻莉子、ちゃ~んと用意してきたからねぇ」

 見ると、確かに麻莉子は色とりどりの紙テープを持っていた。

(紙テープって? この時代に紙テープって?)

 毎年恒例とか、紙テープ投げとか、いったい麻莉子の情報源はどこなのか。まぁ情報通の友達がいるって事はありがたいけど。

「なんで紙テープなの?」

「そんなの麻莉子に聞かれたって知らないよぅ。星杜恒例の伝統だって引き継がれてきてるんだからぁ、伝統を守っていくのは、星杜の生徒の努めでっしょ~」

 一家に一人、情報通の麻莉子。


 と、この辺りで、先ほどの疑問を投げかけてみる。

「ところでさ、久遠さんも寮祭にエントリーしてるの?」

「えっ?もちろんそうだよぅ。小春ちゃんと友哉くんと麻莉子の三人、最後まで走り抜こうって固く誓いあった仲っでしょー」

 そういえば、なんとなく思い出す。確か、麻莉子から優勝景品を聞いたあの時、私と友哉はテンションがあがりまくって大騒ぎ、その後でそんなハナシになったような。

「あっ、そうか、そうか……。うん、そうだったよね。思い出した、思い出した。久遠さんも紫月くんもエントリーするって言ってたもんね」

「小春ちゃん、適当にハナシ合わせてないぃ~?」

(そこを追求するか、麻莉子)

 

 ありがたいことに、そこへ友哉も加わってきてくれたので、なんとか助かった。

「波原さん、麻莉子ちゃん、おはようございます」


(麻莉子…ちゃん? へぇぇ~、とうとう2人はそういう関係になったわけね)


「ほら見て下さいよー。ぼく、こんなにクラッカー持ってきちゃいました~」

そう恥ずかしげに話す友哉の手には、これまた麻莉子の紙テープに負けず劣らずなクラッカーの山。

「なんで紫月くんはクラッカー?」

 ここは、やはり情報通の麻莉子に聞いておくべきだろう。

「副会長の藍原さんが話す時には、男子生徒たちがぁ、クラッカーを、こうパンパンとぉ」

 麻莉子は、頭の上でクラッカーの紐を引っ張る仕草をしてみせる。

「そうなんですよ。ぼく、楽しみで楽しみで」

「へぇー、紫月くんってわりとミーハーなんだね。始めて知ったよ」

「あっ、でも波原さん、誤解しないで下さいね」

(何を?)

「ぼく、あの時にも話しましたけど……藍原先輩とは同じ中学校の出身で……それでその、藍原先輩はとっても素敵な方で、ずっとぼくの憧れで……。ぼっ、ぼくは藍原さんに憧れて、ここの学園に進学を決めたくらいです!」

(そりゃ、結構。多いに恋せよ、青年よ)

「だっ、だから思わず、ミス星杜とのデート券が景品って聞いた時には、我を忘れてしまいましたけど」

「えっ?」

 私は聞き返す。

 そんな景品なんてあったっけ? 

 すでに私の記憶にはない。

「紫月くんが狙ってるのって、学食1年間フリーパス券なんじゃないの?」

「誰か……そんなこと言いましたか?」

 いいえ、確かに誰も言ってはいませんが、あの時、私と同じタイミングで狂喜乱舞した友哉の反応をみれば、学食券だと思うのが普通かと。それになんたって、私は学食券ばかりに気をとられて、その後の展開なんて何も覚えちゃいないのだ。

「まぁそうですよね。確かに、ミス星杜が藍原先輩だってシナプスが繋がるまでにはちょっと時間がかかっちゃって……反応がワンテンポ遅れたかもしれませんが、ぼく、天にも昇る気持ちになったっていうか……」

 あっ、そんな感じの流れだったのか。

「なっ、波原さん。あの……でも、でも誤解しないで下さいね」

(だから、いったい何を?)

「藍原先輩のことは、本当にただの憧れであって、その……ぼくの一生の思い出としてデートできたらいいなって思って……」

 うん、うん、良いんじゃないですか、それは青春の醍醐味だよ、友哉。

「だから、ホントにホントにただそれだけで…それ以上の気持ちはないっていうか……」

 奥歯にモノが挟まっているような友哉の話し方が、私をいらっとさせる。

 そんな私たちのやり取りを横で見ていた麻莉子が、いきなり大きくため息をついた。

「はぁぁ~~~~。小春ちゃんはホントにニブチンだよぅ」

 それから麻莉子は手を伸ばすと、友哉の頭をポンポンと撫でた。友哉が恨めしそうな目で私を見ている。

(だから。いったい何だっていうのよ!)


 開会時間が迫ってくる。

 辺りもだんだんとざわつき出したので、後ろを振り返って眺めたところ、なんと廊下は、既に向こうの端まで生徒たちでビッシリと埋め尽くされていた。

 外から窓にへばりついて中を覗き込む生徒たちも黒山の状態。降りてきても既にスペースがなくて、そのまま階段にすし詰め状態の2階以上の生徒たち。もはや誰もが身動きのとれない状態になっていた。

 はからずも麻莉子のお陰で、友哉を含む私たちは演台のほぼ真ん前、いわゆる特等席に陣取る形になっている。

(会長にも副会長にも、私的にはべつに興味ないんだけどな)

 そう言ったら、麻莉子は怒るだろうか、なんて考えていたその時だった。


「「「キャーーーーーーーーーーーーーー!!!!」」」

「「「うぉぉぉぉぉーーーーーーーーーー!!!!」」」


 黄色い悲鳴と、野太い声が一階の廊下中に溢れかえった。外からも。

「小春ちゃん!! 来たよ、来たぁ。生徒会長と副会長!」

「藍原せんぱーい!!藍原せんぱーい!!」

 友哉までもが。


 ゲートが開いて、校舎側の廊下から2人が連れ立って入ってくるのが見える。

 周りからは、かいちょーとか、早水坂せんぱーいとか、カッコイイとか、ステキーなど女子生徒の黄色い声が飛び交い、男子生徒の、藍原さーんとか、琴音ちゃーんとか、結婚してくださーいなどの意味不明な言葉までもが入り乱れて、場が一気に沸騰、混乱する。


(なに? この状況は?)


 後ろから私を押してくる力が半端ない。前へ、前へ、前へ。

(いったいなんなのよ? このお祭り騒ぎは!)

 思い出す。

 あぁそうだ、これは寮祭――つまり、お祭りなんだっけ。

 2人が壇上に上がると、みなの興奮は一気に頂点に達しようとした。麻莉子と友哉もどっぷり雰囲気にのまれて、その表情はすでに我を忘れてほうけている。

(なんだかなぁ)


 そして私も、皆と一緒に演台に立つ会長を見上げてみる。歴代の中でも、ピカイチのイケメンだと麻莉子が言っていた会長。

 その会長は。

 会長の顔は。


「あぁぁぁぁぁぁぉぁぁ!!?」


 私の上げた声は、残念ながら、まわりの声に飲み込まれてしまう。

(アイツはっ!?)

 なんと、ピカイチのイケメンと言われている生徒会長は、図書館で桐生が談笑していたあの上級生ではないか。

(なんで桐生が、生徒会長と話してたわけ?)

 

 波原小春、混乱中。


 会長が声を発する。

「一年生諸君、我が星杜学園へようこそ!」

 会長が話し始めた時には一瞬静まった廊下が、またすぐに喧騒の渦にのまれる。


「「「キャーーーーーーーーーーーーーーー!!!」」」


誰かがピューっと投げた一つの紙テープをきっかけに、あちらこちらから色とりどりの紙テープが飛び始めた。演台まで飛ばずに手前で落ちる紙テープに直撃されそうになったりして、演台近くの生徒たちはけっこう危ない。

 会長が話しを続ける。

「と、4月の対面式でも諸君には言ったのだが、覚えている者もそう多くないだろう。また改めて同じ挨拶から始めようと思う」


「「「キャーーーーーーーーーーーーーー!!!」」」

 紙テープが、ピューピュー。


「私が、この星杜学園の生徒会長、早水坂恭一だ。まずは難関を乗り越えての我が学園への入学おめでとう」


「「「キャーーーーーーーーーーーー!!!」」」

 紙テープが、ピューピュー。


「わが学園は……」

「「「キャーーーーーーーーーーーーー!!!」」」

 紙テープが、ピューピュー。


 しばらくそんな挨拶が続くと、会長はいったん副会長に場を譲る。

「おはようございます。副会長の藍原琴音です。みなさん、星杜学園へようこそ」

 ここからは打ち鳴らすクラッカーの音、充満する火薬の匂い、男子生徒の発する地鳴りのような声に変わる。


「「「うぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーー!!!」」」

 クラッカーが、パンパンパン。


「今日は、生徒会主催の寮祭、みなさん一緒に楽しみましょう」

「「「うぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーー!!!」」」

 クラッカーが、パンパンパン。


「今日のために……」

「「「うぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」」」

 クラッカーが、パンパンパン。


 友哉もクラッカーを鳴らしまくっちゃって、すっかり別人格になっている。見ちゃいられない。

 そして副会長の藍原さんが、再び会長と話しを交代する。


(なんで桐生は、生徒会長と親しげだったわけ?)

 私の脳裏に、図書館で見た光景が蘇える。

(入学したばかりの桐生が、なんで会長と対等な様子だったわけ?)


 そうして生徒会長の一声が、廊下に高々と響き渡る。

「ここに、我が星杜学園恒例である寮祭の開会を宣言する!」

「「「うわあぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」」」

 全くもって盛り上がるよなぁ、おい。


 場が落ち着くのを待って、会長がルール説明を始めたところで、ようやくクラッカーの音も鳴り止み、紙テープも鎮静化する。紙テープの芯部分の襲来を受けた私は、あちこちに痛みを感じ、迷惑な事この上ない。

「ルールは至ってシンプルだ。廊下の向こう端からスタートして、こちらに向かってまずは直進。そこの階段を駆け昇って二階に着いたら、二階の廊下を往復、そしてまた階段を駆け昇る。四階まで同じように走ったら、下りは一気に一階まで駆け降りてくる。ここまでを一周とカウントするものとする」


 ふむふむ。


「左側走行を原則とするが、とにかく早い者を優先させること。このレースでは、男女の優勝者各一名ずつにしか賞が与えられないことを理解してほしい」


 うんうん。私の行く手を邪魔する者はいないってことね。


「それと、星杜の生徒には間違ってもない行為だとは思うが、不正が行われたり不正な申告を防ぐために、エントリーした諸君には、今から配るセンサー付きの腕章をつけてもらう。拒否する者は失格とする」


 またセンサーですか。

 生徒会のメンバーらしき人たちが、腕章を配り始める。


「各階の階段と廊下の端には赤外線のはしる箇所が設けてある。君たちの腕章センサーがその赤外線を感知するわけだが、優勝した者に限り走ったコースに不正がないかをセンサーの記録で確認させて貰うものとする。何か質問のある者は?」

 思わず声を出していた。

「あのっ!」

 皆の視線が集まる。副会長の藍原さんが私を指名した。

「波原さんね。どうぞ」


(私の顔と名前を知っている?)


「はい。センサーが途中で故障したりとか、走るスピードが速くて赤外線を感知できないなど突発的な事態が起きた場合の対応はどうなりますか」

 必ずや一番になるんだから、不安の種は取り除いておかないとならない。

「優勝した者に、そういった不測の事態が起きた場合には臨機応変に対応させてもらう。悪いようにはしない」

 余計な事を聞くなとばかりに、会長の冷たい視線が刺さるけれど、私にとっては大事なことなんだから。


「あー。ここで最後に、エントリーした諸君には参加賞の準備があることを伝えておこう」

 会長は「琴音」と副会長の藍原さんを呼ぶと、その後を任せる。

「最後まで頑張って完走された方々には、ほんの気持ち程度ですが、生徒会の方で中庭に軽い飲食の用意をさせて頂きました。完走された方から順に中庭の方へ移動ください。そこで私たち生徒会役員一同、皆さんの頑張りをねぎらいたいと思っております」


 ここで再度。


「「「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」」」

「「「うぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」」」


 歓喜と落胆が入り混じる。

 参加賞の内容を知らずにエントリーしなかった生徒たちの、この世の終わりみたいな嘆きよう。

(なんでそんなに生徒会長や副会長と話しをしたいんだろ)

 私には廻りの生徒たちの反応がまったく分からなかったものの、ここに至って、ようやくエントリーしている生徒たちの大半が、会長や副会長たちとの歓談が目当てなのだと理解した。そうして、麻莉子のエントリー理由にも納得がいったのである。

(どう見たって、勝ちを取りにいこうって感じじゃない人が多すぎだもんね)

 麻莉子、躍り上がって喜ぶ。

 そして友哉は、感極まっての半泣き。

(友哉は参加賞のこと、知らなかったみたい)


 ここで会長。

「ではそろそろスタートにしよう。その前に、諸君の明暗を分けるかもしれない総周数を発表する」

 寮棟内を何周走るのかは、毎年違うのだという。その時の会長が独断で決めるのだとか。

 大雑把な一周あたりの距離は約1km。頻繁な階段の昇り降りを考慮しつつ、自分の限界を見積もると、私がいくら体力には自信があるといっても。

(最大走れても、20周というところか)

「さて諸君。少し余談にはなるが、我が星杜学園は今年で創立100周年というめでたい年を迎えることになる」

(100周なんて言ったら、マジでシメル)

「ということで、キリのいい100周年の数字にかけて」

(あいつ、絶対にシメてやる!)

「10周ということでいかがだろうか」

「「おぉぉぉぉーーーーーーーっ」」

 廊下中がどよめいた。


(いけるっ!!)


 荒くなる私の鼻息。

「ではエントリーした諸君は、向こう端の出入口に移動を始めてくれたまえ。なお応援する諸君だが、寮棟内で応援する場合には、ドアストッパーでドアを完全に止めたのを確認後、自室内から応援するように。ドアを180度全開にすることは言うまでもない事だか、再確認の意味で付け加えておく。それと競技中に廊下に出る事は認めないので、注意してくれたまえ。また外で応援する者については、選手の邪魔さえしなければ、どこから応援して貰っても構わないものとする」

 ぞろぞろと生徒たちが移動を始める。階段を昇って部屋に戻る者、応援しようと外に出ていく者。

 そして私を含むエントリー組も、校舎と反対側の生徒通用口に向けて、ゆっくりと移動をしていく。

 心臓の鼓動がどんどん早くなる。

(落ち着け。落ち着け、波原小春)

 落ち着いて、深呼吸、深呼吸。

 すーーーっ、はぁぁ。すーーーっ、はぁぁ。

 

 ほどなくして、生徒たちはそれぞれ皆、自分たちの所定の位置についたようだった。

 ドクンドクン。


 ピストルを高く差し上げて演台に立っている副会長の藍原さんが、廊下向こう端、遠くに見える。

 ドクンドクンドクン。

 

 藍原さんの可憐な声がスピーカーから寮内に響く。この後スピーカーからは、寮内に実況生中継の声が流れることになっているとか。


 ドクンドクンドクンドクン。


「位置について」

(神様っ)

「よぉい」

(仏様っっ)

 とうとう運命のピストルが鳴る。


 『パァァン』


 エントリーした生徒達が、怒涛のごとく一斉にスタートした。

(波原小春、死んでも走りぬく!!)


☆☆☆

 私は、中庭のベンチで、タオルを口に押しあてたまま膝の間に顔を埋めている。

 中庭は、完走してきた生徒たちが増えてきたのか、賑やかさがどんどん増しているようだ。女子生徒の黄色い悲鳴や、男子生徒の緊張しているような会話が途切れ途切れに耳に入る。

 会長や副会長を取り囲んで、二度とないかもしれない二人との生会話を楽しんでいるのだろう。


 さわさわと。

 心地よい五月の風が、汗をかいた私の肌の上をなでていく。


 結果からいうと、学食一年間フリーパス券ゲットの夢はかなわなかった。私の意気消沈ぶりは誰の目からみても明らかだったろう。

 結局私のレース結果は二位に終わった。が、しかし、ゴール直前まで私は先頭を走っていたのだ。


(あの時、いったい何が起きた?)


 レースは、スタート直後からすぐに、速い者とそうでない者の差があっという間に開く展開となった。エントリーしている生徒たちのレース目標からみても、それは当然のことだったろう。

 私を含む先頭集団の女子生徒たちも、徐々に一人二人と脱落していき、最終的には、私と優勝した女子生徒の二人で争うことになった。

 優勝景品への執着度合いの強い方が勝つだろうはずの勝負。


 ハァッ、ハァッ、ハァッ。

 胃が口から飛び出そうになっても、階段の昇り降りのせいで膝が笑いだしても、ただただひたすらに走った。

(相手も同じように苦しいんだ。気力の勝った方の勝ちだ)

 食欲旺盛、好き嫌いなし、女ながらにも大食漢(自分からはあまり言いたくない)な私にとっては、学食で値段を気にせずメニューの中のものをいくらでも食べられるというその券は、あまりにも魅力的すぎた。

 でもそれ以上に私は、学資や生活費を出してくれているおじさん・おばさんの負担を少しでも軽くしたかったのだ。一人分とはいえ、一日3食365日分の食事代は決してバカにはならない。ましてや大食い(自分からはやっぱり言いたくない)な私の食事代なんだから。

 二人の優しい笑顔と、『星杜学園に進学して寮生活をしたい』と言った時の寂しそうな笑顔が、なぜだか同時に脳裏に浮かんだ。


(どうしても学食一年間フリーパス券が欲しい)


 その後はずっとその彼女とつばぜり合いを繰り返していたが、10周目の階段を先に4階から駆け降りる事になったのは私の方だった。


 ハァッ、ハァッ、ハァハァハァ……


 膝が、階段を降りる時のストッパーの役目をほとんど果たしていない。私は、勢いがつき過ぎて前かがみでそのまま転がり落ちそうになる身体を、なんとか立て直しつつ駆け降りていく。

 4階……3階……2階……。

(やった、1階の廊下だ!)

 廊下を右に曲がったら、あとはゲート前のゴールテープまで、ほんのわずかな距離を残すのみ。

 寮内のスピーカーからは、絶叫に近い声が響いている。

「女子の先頭が戻ってきた模様です!エントリーナンバー58番……58番の波原小春さんが一番で戻ってきました!!」

 一階の廊下、そして右折。

「レースは下馬評通りの展開となっています! まもなく女子の部の優勝者が決まります!! いかがですか、波原さんと同室の林さん、今のお気持ちは!?」

「はい! 波原さんが、とても強い気持ちを持って今日のこのレースに臨んでいる事は、同室の私が一番よく知っています! 優勝は目の前だよ、あと少し、波原さん、頑張って!!」


 ハァハァ。

(林さん、なんでゲスト出演……?)


「おおーっと!!続いてエントリーナンバー25番の……鈴木さんも戻ってきました! 残るは短い直線コースだけです。前を走る波原さんに追いつけるのでしょうかっ!?」


 廊下中、歓声の声、声、声。

 私の前には、ピンと張られたゴールテープ。


(やった!!)


 ところが、そう思った瞬間。

 私の足は、私の意志に反して前に出なくなった。間違い無く余力は残っていた。足が動かなくなるほど疲れが溜まっていたなんて事は、決してなかった。

 それなのに、私はそのまま態勢を崩し、気付いた時には床の上に転んでいた。応援している生徒たちの間から悲鳴が上がった……ように記憶している。

 そして残念なことに、10周を走り続けてきたその時の私には、重力に逆らってすぐに立ち上がるという動作は、あまりにも難しすぎた。


「あぁーーー、波原さん、転倒です!転倒してしまいました! 大丈夫なんでしょうかっ」

「波原さん、立って。お願いだから早くに立って! 立ってゴールを目指してーーー!」

 林さんの声が聞こえた。

「さぁここで後ろから鈴木さんです! 波原さんが転倒している間に、とうとう鈴木さんが

 波原さんに追いつきましたっ!!」


(ここまできて負けるわけには……)


 でも、鈴木さんという名前のその女子生徒は、立ち上がりきれない私の横を苦しそうな荒い呼吸を繰り返しながら、最後の力を振り絞って(と、思う)走り抜いていった。周りの喧騒が何も聞こえなくなった私の耳に、彼女の荒い呼吸だけが届く。ハァハァハァハァハァハァ。


『パァン』

 ピストルの音が辺りに鳴り渡った。

 こうして私のレースは終わったのだった。


 と、私の中ではレースは終わってしまったのだが、実際のところは最後の一人がゴールするまで寮祭のレースは続く。

 しかし、優勝者が出た事で脱力してしまった私は、立ち上がる気力さえも失いそうになっていた。棄権したところで、私にとって結果は何も変わらないのだ。

 が、その時に、誰かが大声で、しかも名指しで私を怒鳴りつける言葉が聞こえてきて、我に返ったのを覚えている。


「波原っ!! いつまでそうしているつもりだ! 早く立ち上がらないかっ! ゴールに入るまでおまえのレースは終わらないんだぞ!」


 その声の主を探した私の目が、ゴールテープの向こう側にいるあいつの顔を見つけた時には、いきなり訳もわからないままにカーッとなって、自分でも驚くくらいの力が湧いてきたのだった。


「波原っ!! どうしたっ! お前の根性はその程度だったのかっ! 」


(くっ。あんたには言われたくないわっ!)

 なんと桐生だった。桐生が私に声を掛けていたのだ。桐生自身は、既にゴールしていたんだろう。


 そして。

「わぁぁーーーーーーっっ!!!!」

 私の耳に、回りの歓声が戻ってきた。

(ちくしょう! 桐生のやつ!)

 ワケの分からない怒りエネルギーで立ち上がった私は、再びゴールテープを目指す事ができたのだった。

 ようやく私はゴールした。スピーカーからは、林さんの嗚咽する声が少しだけ聞こえてきた。



 そういう経緯を経て私は今、中庭のベンチに座って、顔を膝の間に落とした格好で悔しさを噛み締めているというわけだ。

 中庭では誰とも話したくなかったけれど、さりとて寮に戻る気にもなれずにいる。

(林さん、私のためにわざわざお雑煮作ってくれたのになぁ)

 自分の不甲斐なさに涙が出そうになる。なんで私はあの時、転んだんだろう。


 ふいに私の隣に誰かが座る気配を感じた。

(こんな状態の人間が座っているベンチ、普通は避けるもんでしょ?)

 いっそう気持ちがささくれだつ。けれども隣に座ったその人は、私に話しかけるワケでもなく、そのままずっと黙ってた。

 私は、隣に座る人物が誰なのか横目で盗み見る。

(えっ? 桐生!?)

 そして、私が座っているベンチが、あの日、桐生がハンカチを敷いてくれたベンチであることにも思い至る。


(なんで私は、ここに座ったのか)

と、私が気付いたのを見計らったかのように、ここで桐生が声をかけてきた。

「俺は優勝したぞ」

(いきなり、それなわけ?)

 悔しさが全身を駆け巡る。

 何が悔しいかっていうと、フリーパス券に手が届かなかったのはもちろんのこと、転んだ自分に対しても悔しいし、今、この時点に限って言うならば、『私が優勝できなかったのに、桐生が優勝した』っていう事実が、何よりも悔しかった。

 いつだってそうなんだ。

 私は、桐生にはどうしたってかなわない。だから桐生とは、絡みたくなかったんだ。

「あぁ、そうでしたか。それはおめでとうございます。知らなかったとはいえ、お祝いの言葉も言わないままで、大変失礼いたしました!」

 このまま桐生のそばにいるのは精神衛生上良くない。

 

 その場から立ち去ろうとした私に向かって、小走りで駆け寄ってくる一人の女子生徒の姿が目に入ってきたのは、そんな時だった。

(鈴木…さん、だっけか)


 ゴール直前で私を抜いて優勝した鈴木さんは、ドスンと身体ごとぶつかるようにして私の首根っこにしがみついてきた。

「あのぅ……?」

 おずおずと声を掛けた私に、私の肩口に顔を押し当てたまま話す、くぐもった鈴木さんの声が聞こえてくる。

「波原さん、黙って私の言うことを聞いて」

(…はい?)

「いいから! まずは私の背中に手をまわして。早く!」

(はいっ!)

 鈴木さんの強い言葉に圧倒されて、もう何も考えずに背中に手を回す。

「これからは、私のハナシに時々相槌を打つように頭を上下させて。周りの人達には、互いの健闘を讃え合う二人に見せかけたいから」

(あのぅ、よく意味が理解出来ないんですけど……)

「さっきのレースは、本当は波原さんが優勝してるはずだったの」

(私もそうだと思います。あそこで転びさえしなかったなら)

「でもね、波原さん。私、見ちゃったの」

(見た?)

「そろそろ頷いて」

 私はコクコクと首を上下にふる。勝負後に、勝った選手と負けた選手がハグし合って互いの健闘を讃えあっている感動的なシーン。という感じを出せているかどうかは、いまいち不安の残るところではあるけれど。

「波原さんが転んだ時、私はこの目で確かに見たの。波原さんの足元の床から、透明で透き通った紐のようなものがスルスルと出てきたのを」


(えーーーっとぉ……)

 こういう場合には、どういう対応をするのがオトナなのでしょうか。誰か教えて下さい。


「その透明な紐みたいなものは、まるで自分で意思を持っているかのように動いて」

「波原さんの後ろ足、その足首に巻きついたの」

(え? ――今、なんて?)

 思わず彼女の背中にまわした腕に力がはいる。が、それは計らずも、感動シーンのさらなる演出にもなったかもしれない。

「私の頭がおかしいとか思わないで聞いてね。私ね、他人には見えないものが、見えたりするの。でも、波原さんなら信じてくれると思うんだけど」

(それって)

「波原さん、足を取られた感じがしなかった?」

(――?)

「あなたは、バランスを崩し、転んでしまい、その紐みたいなものは、波原さんが転んだ時には既に消えていた」


 なんだろう。

 この背筋がザワザワする感じ。

 チリチリする感じ。

 髪の毛が逆立つ感じ。


「波原さん。本当は波原さんとお友達になりたいんだけど、私とあなたは、これまで通り関わらない方がいいと思うの」

 鈴木さんの腕に力が入ったので、私も力をこめる。再度健闘を讃えあうような感じで。

 そうして鈴木さんは、最後に私にこうも言った。


「波原さん。気をつけて」


 鈴木さんは、私の首から手を離して、ニッコリ微笑んでみせた。うっすらと目に涙さえ浮かべたその姿は、誰がみても演技にはみえなかったろう。

 先頭者のアクシデントによって得られた優勝。消化しきれないでいる気持ちを、逆にその相手から讃えられ励まされて、さらに感動する優勝者。

 青春の甘酸っぱいワンシーン。

 生徒たちの視線が私たちに集まっている。私たちの様子を見ていた生徒の中から、パラパラとまばらに拍手をする者が出始めると、それはあっという間に中庭中に広がって拍手の嵐となっていった。


 気をつけて、って。

 気をつけて、って。

 気をつけて、って。


 混乱状態のまま、一人その場に取り残された私は、結局元のベンチに引き返し、桐生の横に座り直す事になった。

 皆の集中していた視線も解消し、中庭は生徒会長や副会長を取り囲んでまだまだ盛り上がり続けている。

 お陰様で、というべきか、はからずも、というべきか、膝に埋めていた顔をようやく上げられるようにはなったものの、いったい私はどんな表情をしているのだろうか。


 鈴木さんの話をどう理解すべきかと思案していた私に向かって、「波原」と桐生が声をかけてきた。普段の私であれば、多かれ少なかれ反発を感じる場面ではあるが、さっきの鈴木さんのインパクトある話の前では、桐生の話のヒトツやフタツ屁でもない。

「なに?」

 桐生に対する返事は、簡潔、かつ、ぶっきらぼうに。

「波原、今の生徒、おまえに何を話したんだ?」

「うぉう。直球ストレート」

「何、って言われても…まぁ何ていうか、そのー」

 ホイホイ話せる内容じゃありませんので。

「まぁ特別なことは何も。だいたいさ、桐生に教えなきゃならない義務なんて、私にはないし」

 あっ、そうそう、この感じ。いつもの口調じゃないと、桐生に勘ぐられて、痛い腹、探

られるハメになりかねないし。


「波原。いいか、おまえ……間違うなよ」

「え?なにを?」

「まぁ、そうだな」

「まぁ、そうだな、ってなに?」

「そのうちにな」

(そのうちに、って、意味不明)

「それよりも波原。おまえ、学食のフリーパス券欲しくないか」

(いきなりハナシ変えられても)

「欲しいよ。欲しいのが悪い? 欲しいから頑張って走ったんじゃないよ」

 くっそーーーー。人の気持ちを逆なでして楽しむなんて、相変わらずいい根性してるじゃんか。

「なら、やるよ」

「へっ?」

「やる」

「何を?」

「何をって、今、なんの話してるんだよ」

「学食一年間フリーパス券の話」

「だから、俺が取ったその権利、おまえに譲ってやるって言ってるんだ」

「………」

「なんで黙ってるんだよ」

(なんで、って言われても)

「欲しくないのか?」

「欲しいけど」

「だろう。それなら、波原にやるよ。俺のフリーパス券」

(これは、いったいなんのワナなんだ?)

「おまえって、ほんっと考えてることが顔に出るタイプだよな。別にワナでもなんでもないからな」

 そんなに顔に出てたんだろうか。

「欲しかったら明日の放課後、このベンチに来い。その時に渡す」

と、そこへ。

「誠也さん、波原さんとお話し中かしら」

 出たっ、仲京香!

 ちなみにコイツがエントリーした目的は、生徒会長との歓談にあるってことは、ミエミエだ。

(なら、今日くらいは桐生にまで色目使わなくても良いんじゃない?)

 なんて事は、私はオトナなので、間違っても言わないけれど。

「仲さんもエントリーしてたんですねー」

「えぇ、こう見えても、わたくし、体力には多少自信がありますの」

 十分体力ありそうにお見受け致しますが。

「波原さんは、残念でしたわね。優勝を目前にして、転倒されたんですってね。あんなにフリーパス券、フリーパス券って言ってらしたのにねぇ」


(ふふん、だ。言ってなさいっての)


 知らないでしょうけど、今、アナタの誠也さんが、私にそれを譲って下さるって申し出てくれてたところなんですから。

 意味の分からない優越感。

「それじゃ私は友達のところへ行きますので、この辺で。仲さんも、またね」

 次の言葉は、ゆっくりハッキリと仲京香によぉく聞かせるために。

「それと桐生くん。さっきのお話し、お受けしますので、よろしくお願いします。明日の放課後にでも、また。本当にありがとうございました」

 私はその場から離れる。

 うひょひょひょひょ、見たか、あの仲京香の顔!!

 私もたいがい人が悪いったら。


 中庭の向こうに麻莉子と友哉の姿を見つけて、二人に合流する。

「小春ちゃん、良かったぁ~。麻莉子たち、小春ちゃんが来るの、ずぅーっと待ってたんだよぅ」

 麻莉子のほっとする顔を見て、本当に心配していてくれたのが分かった。

「麻莉子ねぇ~、ベンチで小春ちゃんがうなだれてる姿見ててさぁ。もうかわいそうで、かわいそうで、麻莉子まで泣きそうになってたんだよぅ~。でもねぇ、さっきの鈴木さんとのシーンはぁ、なんかの青春ドラマみたいでとぉーっても感動しちゃったぁ。ねぇ、友哉くぅん」

(でも、学食フリーパス券はゲットできそうなんだよね)

「ハイ、ぼくも本当に感動しました! でも寮棟内の実況生中継で、波原さんが転倒したって声が流れてきた時には、もう心臓が止まるかと思うほどビックリして……。おケガはありませんでしたか? あと、残念でしたよね、その、あの、学食券のこと。もう一歩のところだったのに……」


(私自身はもう一歩だったんですが、その件に関しましては、心優しい方がいらっしゃいまして)


 桐生から学食フリーパス券を譲って貰う件については、私自身、『波原小春にはプライドはないのか』とか、『ご都合主義でいいのか』などと、思わなくもない。なんたって相手は、私の天敵、常日頃あれだけ毛嫌いしている桐生なわけで。

 だが、しかし、ここで私は考える。

 私の学食フリーパス券が欲しかった理由は何だ? それは、おじさんおばさんの負担を少しでも軽くしたいという、ささやかな孝行気持ちによるものじゃないか。

 これが、例えば『タダ飯を死ぬほど食べたい!』なんていう低俗な気持ちから出たものであったならば、私はこの度の桐生からの申し出はきっぱりと断ったろう。波原小春、それくらいの分別はあるつもりでいる。

 しかし、孝行気持ちという大義の前では、私のプライドなんて、ほんのちっぽけなものではないだろうか。

 そういうわけで、私は桐生からの申し出をありがたく受けることにしたのだ。


 ……などと、自分で自分を納得させようとしているところが哀しい。


 まぁ、それはおいといて、とにかく。この二人の優しくてあたたかい言葉はするりと私の心へ滑り込んでくる。

(友達って、いいなぁ)

 

 しかし、そう感じたのも束の間、友哉の会話は意外な方向へ進んだ。

「ところで波原さん」

「え?」

 友哉は少し口ごもり気味になりながらも話しを続ける。

「あの、えっと、あの。さっきまで座っていたベンチに」

 桐生のことか。

「あぁ、うん。桐生ね、なんか座る場所探してて、たまたま空いてたベンチに座ったら私が隣にいたみたいで」

(なんで私、桐生の行動まで言い訳してるわけ?)

「そうなんですか? でっ、でも、なにか二人で話してましたよね」

 友哉ったら、副会長の藍原さんよりも、私の方を気にしていたんだろうか?

「う。ま、まぁね」

 やましいハナシなんて何もしなかったのに、なんでうろたえているんだろう、私。

「あっれぇ~、なんだか小春ちゃんったら、態度がおかしいよぉぉ。友哉くん、もっとちゃーんと追求しなくっちゃ~」

 麻莉子まで。

「ホント特別な事は何も話してないんだってば」

「本当ですか」

「紫月くんさぁ、何を勘違いしてるか知らないけど、前にも言ったとおり、桐生とは同じ中学から進学したっていう、それだけの繋がりだよ」

「友哉くぅん。しっかりぃ~」

 麻莉子、なんでか友哉を煽るの巻。

 友哉がじーーーーっと私を見ている。


 そりゃもちろん、フリーパス券の話を二人に話したって何の問題もないよ。フリーパス券を持っていれば、遅かれ早かれバレる事なんだし。下手に隠し立てするよりも、先に言っておいた方がよっぽどいいとは思うんだけど。

(何で私は隠そうとしている?)

 やっぱり後ろめたいということか。


 3人でそんなやりとりをしている時だった。

 なんと、男子生徒なら誰もが憧れるという生徒副会長の藍原さんがこちらに向かってやってくるではないか。

 藍原さんの姿を目ざとく見つけた友哉は、突然の事でソワソワと落ち着きを無くしている。


「波原さん。少しお話ししてもいいかしら」


 なんと驚いたことに、藍原副会長に話しかけられたのはこの私だった。

「あ、はい」

(なんで、私?)

「優勝景品、欲しかったのでしょう? あと一歩のところだったのに残念だったわね」

 ロングのストレートヘアからシャンプーの香りがふわりと漂ってくる。

「藍原副会長、今日はいろいろとご尽力頂き、ありがとうございました」

「うふっ、そんな、どういたしまして」

 藍原副会長が、ぺこっと軽く頭を下げた。キレイな人は、どんな仕草をしても絵になるんだなぁなんて、関係のない事を思う。

「新しく入学された皆さんに、一日でも早く星杜学園に馴染んで貰いたくて、勝手に計画してるんですもの。これぐらいは当たり前よ」

と、ニッコリ。

 あまりの衝撃波に友哉、放心状態。

「それでね、波原さん。ちょっとだけ内緒のお話をしてもいいかしら」

「別に構いませんけど」

「レース前に、こちらから配った腕章の事なんだけどね」

「はい」

「あれね、うそなの」

「はいっ?」

「センサーなんて、最初からついてなんかいないのよ」

「……」

 藍原副会長、またまたニッコリ。

 

 友哉は、大丈夫なのか!?


「あの腕章ね、どこにでも普通に売っているただの腕章なのよ。センサーだの赤外線だのっていうのは、会長の作り話」

参加者が不正をしないように、抑止力効果を与えるためのウソだということか。

「ほら、会長が説明している時に波原さん、センサーの事を質問されていたでしょう。真剣に受けとめて下さった方には、こちらも誠意をお見せしなきゃと思って」

藍原副会長は、唇を小さくすぼめて人差し指を軽くあてると、「しーっ」と言って軽くウィンクを投げてくる。

 あっちゃー、これはもうアウトだな。案の定、友哉、立ったまま気絶。

(これはしょうがない。確かにメガトン級の威力だわ)

「それとね、あともう一つ」

「はい」

「波原さん」

 藍原副会長、一呼吸おいてから。

「あの……ごめんなさいね」

「なにがですか」

「んー、今はまだ詳しくは言えないんだけれど」

 そう言って小首をかしげるその仕草。藍原副会長に、男子生徒がやられる気持ちが、女の私にもよーく理解できた瞬間でもあった。

「藍原副会長、今はまだっておっしゃいましたが、それはいつか話して貰える日が来ると理解してもいいんでしょうか」

「ん、そうね。また次回、お話しする時には」

「でも藍原副会長とまたお話しする機会なんて、私にあるんでしょうか」

 瞬間、藍原副会長の柔らかい表情が消えて、声も硬くなった。

「もちろん。あります」

(なに、この断定形?)

「まぁそれも桐生くんの腕次第、というところかしらね」

(桐生?)

 再び天女のように柔らかな表情に戻った藍原副会長は

「それじゃあ、私はこれで」

 そう言うと、取り巻きの男子生徒の間をぬって去って行った。

 

 麻莉子が、藍原副会長の後姿を見ている私の脇腹を、肘でぽすぽすとつついてくる。

「ねぇ、ねぇ、小春ちゃ~ん。なにやら面白い事が待ってるような予感がしないぃ~?」

 麻莉子の瞳がやけにキラキラと輝いている。だが、ここで麻莉子を侮ってはいけない。麻莉子の核心を捉える才能にヒヤヒヤさせられたこと、数しれず。

(才能っていうか、動物的直感?)

 ここに至って、友哉がようやく生還したのだった。

 鼻血が出なくて、良かった!


☆☆☆

 夜も更けたというのに、二段ベッドの上で私は、同じ事を繰り返し考えていた。

 寮祭後、部屋に戻ってからは、お雑煮を満腹になるまで食べたり、林さんが生徒会にスカウトされて実況放送席に座ることになった経緯を聞いたり、私がゴールテープを切って優勝した時には『花束を持って駆けつけ二人抱き合って喜ぶ』という役割まで振られていた裏話などを聞いたりして、林さんと二人、寝る間際まで寮祭のハナシで盛り上がった。

 あえて優勝景品の話にはお互い触れなかったけれど、あんなに欲しがっていた学食フリーパス券を逃した私が、予想外に落ち込んでいない事を、林さんは不思議に思ってただろうと思う。それは桐生のフリーパス券を貰えるからではあるんだけれど、やっぱりその事は林さんにも話せなかった。

 堂々とフリーパス券を貰うと言えないのは、その相手が私の天敵である桐生ゆえの、後ろめたさからくるものなのか……。


 それから二段ベッドの上段で私は、今日の出来事を思い返すともなく思い返していた。時間がどんどん過ぎて夜が更けても、一向に眠気が訪れてくれないのだからしょうがない。

 私の脳裏には、寮祭での様々なシーンが繰り返しフラッシュバックしていた。

(不思議なことがいろいろあった……)

 『明日は学校だし、そろそろ寝なきゃ久しぶりの遅刻だよ』と思ったところで、眠れないものは眠れない。

 ふいに、二段ベッドの下段で熟睡していると思っていた林さんに声を掛けられて、私は驚く。

「波原さん……眠れないの?」

「林さん~、寝てると思ったからビックリしたよ~。ごめん、もしかして起こしちゃった~?」

 明かりの消えた薄暗い部屋に響く会話は、私を不思議な気分にさせる。

「ううん。なんかね、目が覚めたんだけど、なんとなく波原さんも起きてるような感じだったから、つい声掛けちゃった。迷惑だったら、こっちこそゴメンね」

「それがねー、全然眠れなくて。昼間の興奮が残ってるみたい」

 その後で、ややしばらくの沈黙。

 もしや林さん、寝ちゃったのかなと思った頃に。

「波原さん」

 また名前を呼ばれた。

「え?」

 林さんの声がなんとなく緊張しているように思えた。

「さっきは言わなかったんだけどね」

 続きの言葉を待つ。

「レースで優勝した鈴木さんと私って、同じクラスなの」

「へぇ、そうなんだ」

「でね、波原さん。これから話す事って、私が感じただけであって、本当かどうかはまた別なんだけど」

(いきなり……なにを?)

 背筋がチリチリする。

「鈴木さんってね」

「うん」

「ちょっと変わってるっていうか、普通じゃないところのある人で」


『他人には見えない物が、私には見えることがあるの』


「私ね、鈴木さんには近付かない方がいいと思う」

「え……?」


『私とあなたは、今まで通り関わらない方がいいと思うの。』


 どうして、鈴木さんと同じような事を林さんまでが言うんだろう。この符合はいったいなんなんだろう。背筋がゾクゾクとしてくる。


「林さん、なんでそんな事言うの? もう少し詳しく教えてもらわないと、私には全然意味がわかんないよ。鈴木さんってどんなふうに変わってるの? なんで鈴木さんと友達になっちゃいけないの?」

 私には聞きたい事が山盛りで、クエスチョンマークが飛びまくり。なのに、そんな私に返ってきたのは、林さんの静かな寝息だった。

(林さん、それはなしだよ……)


☆☆☆

 翌朝は、やっぱりというべきか、当然ながら、というべきか、私は遅刻ギリギリに教室に滑り込むハメになった。

 結局午前4時近くまで眠れず、目が覚めたのは午前8時過ぎ。それでもなんとか間に合うんだから、学校直結の寮生活というのはスバラシイ。

 お願いですから、私を3年間寮に置いてくださいっ!


 そしてチャイムが鳴り終わると同時に、これまたいつものように担任の八反田が教室に入ってくる。

 開口一番。

「波原、なかなか豪快な走りっぷりだったな。なるべくなら制服で走るのは止めた方がいいぞ。スカートの裾が翻って目に毒だ」

 クラスメイトたちが久しぶりにクスクスと笑う。でもなんとなく、そのクスクス笑いも最初の頃とは違って、愛情こもるクスクス笑いのように感じられるのは嬉しい限りだ。ただし、一部の男子と仲京香のクスクス笑いについてはのぞく。

「きりーつ。礼。ちゃくせーき」

「おはよう。みんな、長いゴールデンウィークはどうだったかな? 今日からは普通の学園生活に戻るわけだから、休みモードは早く解除して勉強にも力を入れていってほしい。気を抜いていたら、あっという間に定期テストの時期がきて慌てることになるぞ」

 それから八反田は、プリントを一番前の席の生徒に渡し、そのプリントが順に後ろの席へと回されてくる。

「今配っているのは、部活の入部届けだ。高校3年間の時期に部活動をやる事は、これからの人生において、かけがえのない財産となるだろう。楽しいこと、辛いこと、面白いこと、悲しいこと、それらはすべてみんなの人生を豊かに彩るものだ。先生は、どこでもいいからとにかく入部して、青春を謳歌することを勧めたいと思う」

 私の手元にも入部希望届けのプリントが回ってくる。

(青春を謳歌、か)

 悪くない響きだ。

「それと、一年生はこれから朝の掃除当番が始まるので、それについてもプリントを回したから、合わせて目を通しておくように」

(ええーーーーーっ!?)

 今、何て言った?? 朝の掃除当番ってなに???

 プリントに目を通すと、校舎直結の寮から登校する一年生の、生徒共用部の掃除当番割当てについて書かれてあった。5名1組で1週間ずつ、朝の7:45~8:15分までの30分間を掃除するらしい。我が1年3組の掃除割当て場所は、実習室などがある棟の廊下となっている。

 しかもご丁寧なことには、サボった者にはペナルティー有りとまで書かれていたりする。

(聞いてないよ、そんなこと)

 とは言っても、5週間毎に回ってくるその一週間だけを、一時間早起きすれば良いんだけの事だから、まだなんとかいけるかもしれない。

「次に、と。そうそう。今日からは、一年生も学食を利用できるようになるから、利用する者は、ちゃんとマナーを守って利用してくれ。星杜の学食メニューは充実しているから、始めて学食メニューを見る時には、きっと驚くぞ。あぁ、そういえば波原。昨日は学食券、あと一歩だったんだってな」

(ここでそのハナシですか)

「あ、はい。まぁ……」

「男子は桐生が優勝したそうだし、これで波原まで優勝なんかして、うちのクラスでアベック優勝をさらっていたら、さすがに他のクラスに悪いしなぁ。波原、残念だったとは思うが、あまり逆恨みはするなよ」

 そんな事言われたところで、いったい誰を逆恨みしたらいいのか分からない。

「で、なんだ。男子優勝者の桐生は、やっぱりアレか、ミス星杜狙いなのか?」

 クラスの視線が瞬時に桐生に集まる。そして、桐生の返答を一番聞きたがっているのは、仲京香に違いない。

「はい。それが学食一年間フリーパス券とどちらがいいか、まだ決めかねています」

(えっ?そうなの!?)

「そうだよなぁ。桐生だってまだまだ食べ盛りの男子だし、かといってミス星杜も捨てがたいしなぁ。先生も桐生の気持ち、よぉくわかるぞ」

 どっと教室内が沸く。

 仲京香、身体硬直、多少落胆気味。

 波原小春、仲京香とは別の意味で多いに動揺。

(学食フリーパス券は? 私に譲ってくれるんじゃないの?)


 そして昼休みのこと。

 今日からは1年生も学食解禁、学食デビューする気満々の私ではあったが、友哉が私の分までお弁当を作ってきたというので、喜んでご馳走になる。

「えーーーっと、これはどういう意味なのかな、紫月くん?」

 私たちが座る机の上には、既に3つのお弁当箱が乗っている。ひとつは小さいピンク色の小判型もお弁当箱、もう一つは紺色でシンプルな二段重ねのお弁当箱。これらは、いつも見ている二人のお弁当箱なので私にもわかる。ここまでは良い。ここまでは良いんだけども。

「紫月くん、この一番デカくて重量感たっぷり三段重ねの四角い重箱みたいなのは、いったい誰の分のお弁当なのかなぁ?」

 重箱みたいっていうか、きっぱり重箱なんだけど。

 麻莉子はといえば、すでにピンクのお弁当箱を手元に引き寄せて早々と蓋を開けている。

「うわぁぁぁ、友哉くん、今日もおいしそうだねぇ~。麻莉子ねぇ、ゴールデンウィークは楽しかったんだけどぉ、友哉くんのお弁当を食べられないのがチョット物足りなかったんだよぅ~」

 麻莉子にそう言われて、友哉もまんざらでもなさそうなふうだ。

「いや、だからね、紫月くん。このデカイ…」

「もう小春ちゃんったら、さっきからデカイデカイってさぁ~。小春ちゃんは女の子なんだから『デカイ』なんて使っちゃダメなんだよぅ~。友哉くんだって、そう思うでしょぉ?」

 私的には、どちらかといえばこの重箱の方について言及してほしいところではある。

「まぁそうですね。一般的にいえば、『デカイ』より『大きい』って話す女の子の方が好感は持てるかもしれませんね。でもぼく的に言わせて貰うなら、波原さんは今のままで十分魅力的ですから、このままでもいいんじゃないでしょうか」

「うわぁ~~~、出ちゃったよぅ~。友哉くんの小春ちゃんびいきぃぃ~」

 とても二人は楽しそうで。

「あの、お話中にスミマセンが、デカイだとか大きいだとかの前にですね、ちょっと確認させて頂きたいんですが……この重箱は私一人分のお弁当という認識でよろしいのでしょうか?」

「おっほーん。小春ちゃん、この麻莉子の冴えわたる推理によりますとぉ。まずここにはお弁当が3個あってぇ、食べる人は友哉くんと麻莉子と小春ちゃんの3人だけなのでぇ。友哉くんと麻莉子のお弁当をここから除くきますれば、うん、小春ちゃん以外に食べる人はいないという結論になりまぁ~す」

 鼻高々な様子の麻莉子だけど。 

(それくらいは私にも分かりますって)

「でもね、見てよ、久遠さん。この大きさ。だいたいこれ、お弁当箱っていっても重箱でしょ。男子の紫月くんのお弁当よりもボリュームがあるし、さすがに私でもこの量はちょっと」

 そこへ友哉。

「ぼっ、ぼく、波原さんにたくさん食べてもらいたくて、張り切って作ったんですけど、ダッ、ダメでしたか?」

 いや、ダメってわけじゃないけれどね、一応私だって女子なワケだし、多少は察してほしいと言いますか。

「小春ちゃんったら、今さらなにぃ~~~。いっつもそのへんの男子生徒よりもいっぱい食べまくってるじゃないのよぅ~~」

 麻莉子、声が大きいよ、声が。

 はぁぁーーーーーっ、でも、やっぱ、そうですよね。そういう事ですよね。波原小春、友哉手作りのこの重箱お弁当、遠慮なく食べさせて頂きますとも。


 それから少しして。

「……だよねぇ、やっぱり。うん、うん。それじゃ小春ちゃんもさぁ、そーゆー事でいいかなぁ~?」

 しまった。

 友哉のお弁当が、あまりにも美味しかったので、食べることばかりに気をとられていて、二人の話なんてろくに聞いちゃいなかった。私は何かに気をとられると、他の事はそっちのけになるところがある。

「あっ、う、うん。そうだね、私もいいと思うな」

 こうやって、つい適当に話しを合わそうとする私も悪いんだけど、そのせいでこの身を滅ぼしたこと数え知れず。だが、そのたびに不死鳥のごとく蘇る波原小春。

「えっ、いいんですかっ!?」

 やけに良すぎる友哉の反応が、なんとなく私の不安を誘う。

「友哉くぅん、良かったねぇ~。これで、永遠に不滅の3人組って気がするよねぇ。いつまでも他人行儀な呼び方だったから、麻莉子、ちょっと不満だったんだよぅ~」

 

 ……いやな予感がする。

「ほら、友哉くん、呼んでみなよぉ」

「はっ、はい。えっと、あの、その」

「早く、早くぅ」

 ……凄くいやな予感がする。

「コッ、コッ、コッ」

(お前は鶏かっつーの)

「コッ、こ、こ・・・・・・こはるサンっ!」

友哉、もじもじとして恥ずかしそうに、でもきっぱりとそう言った。


(なにぃぃぃぃぃーーーーーーー!!!!)


「そうそう、友哉くん、ちゃんと呼べたじゃないよぅ。それじゃ次は小春ちゃんの番だよぅ。さ、麻莉子か友哉くんのこと、下の名前で呼んでみてぇ」

(そうか、そういう話をしていたんだったか)

「えっ?えっ?? いや、あの、やっぱいきなりはちょっとさ」

「まったく小春ちゃんはぁ~。さっきはいいって言ってくれたじゃないのよぅ」

 いつの間にこんな話の展開になっていたんだろうか。

 想定の範囲外、はるか遠く範囲外。

 とは言っても、もうここまできたらジタバタしてもしょうがない。覚悟を決める。

「麻莉子」

「と」

「友哉」


「いやぁぁぁぁぁ~~~ん。もう小春ちゃんったらぁぁ~、いきなり呼び捨てだなんてぇ~。もう麻莉子、しびれるぅ~~」

 麻莉子の反応は、嫌のか嫌じゃないのかよく分からない。しかも、なんで友哉の頬が赤いのかも、私にはまったくもって分からない。 

(なんか……疲れる)

 しかし、友哉の読みは実に正確だったようで、いつのまにか私の目の前にある三段重ねの重箱はすっかり空になっていた。友哉、おそるべし。

(この二人、やっぱり意外と侮れない)


 放課後。

 私は、麻莉子と友哉をなんとか誤魔化すと、一人中庭へ向かう。桐生の姿はすでに教室内には見当たらない。

(隠してもしょうがないんだけどなぁ)

 煮え切らない自分の態度がキライ。


 廊下を歩いて中央まで来た私は、あの日と同じように中庭に通じるドアを開けると、5月の新緑の甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 中庭を見まわすと、桐生は既に前回と同じベンチに座っていた。そして、その桐生の隣には、前回と同じようにハンカチが敷いあって、ハンカチが飛ばないようにグレープフルーツジュースが重石代わりに置いてある。

 今日はなんとなくだけど、桐生とうまく向き合えそうな気がしてくる。桐生のそばまで行くと、今日のところはハンカチに素直に腰をおろす。

「このジュース、いいの?」

 ジュースを取り上げてハンカチに腰を下ろす。

「あぁ。お前の分だ」

「ありがと」

(平常心、平常心)

 さて、と。

「波原」

 今日は、桐生から早々に口火を切ってくれる。

「はいっ!!」

(学食1年間フリーパス券、ありがとうございます!!)

 満面の笑顔で。

「あれ見えが見えるか?」

(なぁんだ。いきなり本題には入らないってワケですね)

 せっかく浮かべた笑顔が凍りつく。

「あれって?」

「あそこの地面の上の鉄板だ」

 そういって桐生は、腕を伸ばして中庭の中心に向かって指を差す。

「あぁ。うん、見える」

「波原、あれがなんだか分かるか?」

 あの場所って、昨日は確かポールが3本くらい立っていて、国旗と校旗が翻って、こいのぼりが泳いでいたような。

「あの鉄板の下ってな、わりと大きめな穴があいてるんだ。専用のプレートを組み合わせる事で穴の直径を調整し、時と場合に応じてさまざまな太さのポールを、穴に立てられる仕組みになってるらしい」

 ずいぶんと面白い事を考えた人がいるようだ。

「へぇ、そうなんだ。始めて聞いたわ。桐生は相変わらず何でも知ってるよね」

 ちょっと感心する。

「それは俺に対する嫌味か?」

 思った事を素直に口にしただけなんだけど、これまでの事を考えると、私の発言は曲解されてもしかたないのかもしれない。

「ちなみに波原、うちの学園の創立記念日は?」

「ごめん、知らない」

「別に知らないからと言って謝る必要もないが、星杜の創立記念日は12月25日だ」

(ほぅ、クリスマスと同じですか!)

 良いのか悪いのかは、今はまだ判断つきかねるところではあるけれど。

「それで、前日の24日は、創立記念日の前夜祭と称して、全校挙げてのお祭りになる」

「……また、お祭りか」

「何か言ったか?」

「いえ、別に」

(昨日、寮祭があったばかりなんで)

 私には、桐生がいったい何を話そうとしているのかまったく見当がつかない。

「12月に入るとな、あそこには大きなクリスマスツリーが立てられる」

(中庭の真ん中に大きなクリスマスツリー!?)

 にわかに私のテンションがあがる。

「ってことは、そのツリーに、みんなでモールとかいろいろ飾りつけして、電飾をピカピカ光らせたりとか?」

「そうだ。中庭が幻想的な空間に変わるらしい。今年は創立100周年を迎えるから、いつもよりももっと大々的になるだろう」

 うっひょーーーー。

 一瞬、私の目の前に大きなクリスマスツリーが見えた。ロマンチックなクリスマスイブの夜!

(いい事聞いた。ちょっと楽しみかも)

「ところで波原」

 少しの沈黙。

「なぁ、波原」

「なに?」

「その、なんだ」

「ん?」

 桐生にしては、めずらしく歯切れが悪い。

「まぁ、なんていうか、その、波原には大変申し訳ないんだが」

「はい」

「実は学食のフリーパス券は、まだ俺の手元になくてな」

「えっ?なんでよ!?」

 そこが今日のメインテーマでしょうに。

(騙した? 私を騙すつもりだった!?)

「波原、頼むから、そんな噛み付きそうな顔はしないでくれ。波原を騙すつもりなんて俺にはこれっぽっちもない」

 あっ、また顔に出ちゃってたか。

「どうやら優勝者が他の生徒に権利を譲渡する場合、生徒会長自らが、譲渡される生徒に直接景品を手渡す事になっているらしいんだ」

「えぇーーーーーーーーーーーっつ!???」

「いや、待て。俺はそんなに驚かれる話をしたつもりはないが」

 確かに話としては別にそう驚くことじゃない。話としては驚かないけれど、でも生徒会長って……アイツだよ? 図書館で桐生が話していた、威圧感だだ漏れの嫌味そうなヤツ。

(神様。私の学園生活、どうして関わりたくない人物と次々に関わらなければならないハメになるんでしょうか)

 日々の生活態度を、一度見直す必要があるかもしれない。

「そういうわけだから、ここに期待してやって来たおまえには大変申し訳ないが、今度、都合のいい日にでも俺と一緒に生徒会室へ受け取りに行くという事で今日のところは了解してくれ」


(――あぁぁ)


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