第1章 4月
いよいよ小春が、星杜学園生活を送り始めます!^^
どこかにありそうで、でも、やっぱりどこにもない、楽しい星杜学園の校風を、どうぞ堪能して下さい!
「おはよー」
寮の廊下を走っていた私は、見知った顔を見つけて声を掛けた。彼女は、同じクラスになった久遠麻莉子だ。
「またギリギリの登校になっちゃうよー」
麻莉子はすっかり泣きそうになっている。色白ぽっちゃり、巻き毛でエクボあり。
(食べちゃいたいような女の子っていうのは、この子みたいな女の子の事なんだろうなぁ)
自分と真逆と言っても過言ではない、麻莉子ではある。
「家だったらママが起こしてくれるのにぃ~」
(ママかぁ)
私の口からは絶対に出てこないだろう単語は、どことなく新鮮に響いた。
「久遠さん、電子キーは?」
「ちゃんと手に持ってるよぅ」
「それないとゲートを通れないんだからねー」
「もう、そんな事、言われなくたってわかってるよぅ」
私達は、ギリギリで登校する他の生徒たちに混じって走り続ける。
寮棟と校舎を仕切っているガラス扉はゲートと呼ばれ、センサー部分に生徒一人ずつを識別するカードを読み取らせる事で開閉させている。登下校の時間帯は扉が開け放しになっているのだが、開け放しになっていても通る時にはセンサー部分にカード式の電子キーを読み込ませないとならない。なんでも、この電子キーで一年生の登下校時刻や外出時間を管理しているとのことだ。
要は。
無断欠席・遅刻・早退許さんぞ、という事なんだろう。
(閉鎖している古い棟があったり、進歩的な管理システムを導入した寮を完備してたり……って、なんとなくアンバランスじゃない?)
なんて考えている場合じゃない。今はとにかく教室まで急がなくっちゃ。
麻莉子とともに走り続ける。首もとの濃いグリーンの大きなリボンが左右に揺れ、グリーンチェックの幅広プリーツスカートの裾が翻える。可愛い事で評判の星杜学園の制服。
(この制服、着てみたかったんだよねー)
憧れの制服を着るワクワク感は男子には分からないだろうけど。
ゲートにたどり着くと、誰に言うともなく
「波原小春、今日も元気に行ってきまーす!」
そう言って、私は自分の電子キーをセンサーに押し当てた。
ピッ。
センサーが電子キーの情報を読み取る音を確認して、次の一歩。ここからは校舎内だ。
こうして私の星杜学園の一日が始まる。
☆☆☆
私と麻莉子が教室前の廊下に備え付けられている靴箱の前で上靴に履き替え、席に着いてほどなくすると始業のベルが鳴り渡った。
星杜学園は、大学と同じように校内を土足で歩いてオッケーなんだけど、生徒たちには指定の上靴があって校内では上靴に履き替える。この上靴ってのが、これまた制服のデザインとマッチしたオシャレな上靴で、制服をデザインしたデザイナーが靴メーカーとコラボして作った、デザイン・機能性ともにサイコーの、他にはない上靴だってのが心憎い。
うん、よく分かってるよ、女子校生の心理。
あっ、でも、男子高生の心理は私には分からない。
「セーフ。間に合った~」
自分の席で大きく息を吐いたところで、いつものように担任が教室の引き戸を開けて入ってくる。
(はたして先生たちは始業のベルが鳴ってから職員室を出るのか、それともベルが鳴る時間を見越して早めに職員室を出るのか)
この数分の違いは、次の授業の準備をする生徒にとってはたいそう大きな差だったりするんだけど、毎日ベルが鳴り終わると同時に教室の戸を開けて入ってくるところをみると、私の担任に限っては後者で間違いなさそうな気がする。
(たいてい授業は休み時間に食い込む し、先生がチャイムとともに教室に来るから早めに授業の準備を始めなきゃなんないし、なんか休み時間損した気分になるんだよねー)
なんて言いたくなるのは、若さゆえの甘えって事で。
我が担任は、見た感じ20代後半の男の先生で名前を八反田健という。
よくありがちな熱血教師きどり(失礼!)で、分かりやすいっちゃあ分かりやすいんだけど、私的にはやりにくかったりもするんだな、これが。
「きりーつ。礼」
「「「おはようございます」」」
「ちゃくせーき」
日直の掛け声と共に朝の挨拶をすると、若いのにわりと低めの担任の声が教室に響く。
「おはよう。今日も欠席はいなさそうだな」
そう今日の第一声を発すると、ぐるりと生徒たちを見回す。
「波原!」
そして私は名前を呼ばれる。
(またか)
「ハイ」
とりあえずどんな時にも返事だけはしておくというのが私の信条だ。世の中、返事が良くて悪い事なんてない。
「波原、またギリギリだったんだろう?」
「……」
「前髪が後ろになびいたままだぞ。おまえのようにショートカットでゴワゴワな髪質は、すぐクセがついて走ってきた事がバレバレなんだから気をつけろって、いつも言ってるだろう」
教室の中がドッと湧く。よくもまぁこの担任、毎朝毎朝似たような事を繰り返し言えるもんだ。すでに波原小春、ガサツな粗雑キャラで浸透しちゃってるんじゃない?
タッパがあって決して華奢じゃないこの体型も、私のイメージをダメ押ししてるんだろうけど(涙)。
慌てて手櫛で髪を整えながら、私は答える。
「でも、間に合いました」
「それじゃ、首元のリボンが曲がってるのもきちんと直しておいてくれな」
(リボンが曲がってたところで、授業を受けるのに何の問題があるのさ!)
「それじゃこれから今日の連絡事項を話すから、聞き漏らさないように。……」
そうして私から話題が移っていくのもいつも通りで、一緒に走ってきた麻莉子が振り返ってまで笑っている。
(甘えん坊の、クルクルふわふわかわいいくせ毛ちゃんは、走ってきても分からないからいいよねぇ)
まぁしかし。
目をつけられるっていうのも、他人の意識を引きつけるという意味では有りなのかもしれない。私はこの星杜学園で高校生活を大いにエンジョイするんだから!
☆☆☆
さて。
昼休みを『美味しいお弁当を食べられる楽しい時間』なんて思ってる人は、ある意味恵まれている思う。実際のところ、星杜学園一年生は全員、そういうわけにはいかない状況にあるわけで。
冒頭でも述べたけど、星杜学園の一年生は全寮制となっていて、母親の煩わしい干渉を受けることがないかわりに、母親の愛情こもった手作り弁当を持参で登校、なんて事もありえない。弁当に愛情がこもっているかどうかについては、各家庭ごとで多少違ってくる部分ではあると思うけれど。
とりあえず寮には部屋ごとに、狭いながらもキッチンが設置されているので、料理のできる環境にはあるが、なんたってまだほやほやの高校一年生。つい先日まで、義務教育の甘ちゃん中学生だったんだもん、いきなり弁当作りや食事の支度なんて無理というもの。
ところが、その昼休み。
「えーー、友哉くん、また自分でお弁当作って来たのー?すっごぉ~い。」
「見て見て、この厚焼き卵。すっごくきれいな黄色~。あたしのお母さんが作ってくれる焦げ目のついたのとは大違いだよぉ」
「えっ?この浅漬けも、友哉くんが自分で塩もみしたものなのぉ?」
あぁぁ、もぅ。うるさい、うるさい、まったくもってこうるさいっ。
新しい環境で緊張の連続、昼休みくらい気を抜きたい私のところへ、なんで紫月友哉はわざわざやって来るんだろうか。それも、自分で作った弁当を持参して、キャーキャー騒ぐ女生徒たちももれなく引き連れて。
私はこっそりとため息を吐く。
友哉は、決してカッコ良いタイプには思えない(友哉、ごめん)。身長は、立った時の目線の高さから推察するに、私と同じくらいか、多少低いように思える(体重は私よりうんと軽そうではあるけれど)。草食系男子、弁当男子、そんな単語がピッタリだ。
だが、はたしてそういうのは、母性本能をくすぐったりするのだろうか。意外なことに、友哉はクラス内でも女子から人気があるっぽいのだ。
私は小声で友哉に話しかける。
「姿月君ね、なんであんた、わざわざあたしのところに来んのよ? しかも、そんな目立つお弁当まで持ってさ」
「え……だって、……だって、波原さんと一緒に食べたら美味しいかなと思って…」
声が小さくて聞きとりづらいったらありゃしない。男なら、もっとしゃきんと話さんかい!
「他にも一緒に食べてくれる人、いっぱいいるじゃないよ。あたしなんかより可愛い女の子と食べた方が絶対に美味しいと思うけど?」
「でっ、でっ、でも。誰と食べたら美味しいかっていうのはボクが決めることだから……波原さんはボクじゃないし……」
(当たり前だっつーの! 私があんただったら困るわ)
それよりも、自分のせいで、波原小春がお昼を美味しく食べられないかもしれないっていう気遣いは、して貰えないもんなんでしょうか。
「友哉くーん。今度さぁ、お弁当作り、私にも教えてくれな~い?」
「なに~、それ? みちったら自分だけ抜け駆けするつもりぃ~? いやーん、私も一緒に作るー」
(ほれ、友哉、何とか言ってやれ)
けれど私の心の声は友哉に通じることはなさそうで、何か言い出しそうな様子はない。
(結局、私が言うしかないってことか)
「あのー、ごめんね。そろそろ紫月くんにゆっくりお弁当食べさせて貰ってもいいかな? それとも、みんなもこっちで一緒に食べる?」
私は友哉のママでも恋人でもないのに、なんでこんな事まで言わなきゃならないんだろう。まったくもって頭が痛い。
彼女たちは、えー、とか、なにさまー、とか言いながら離れて行くけど、逆に私が聞きたいくらいだ。
私って友哉のいったいなんなんだ??
そんなふうに私が悩んでいることなどおかまいなく、友哉はいそいそとお弁当を食べ始めるし、横で麻莉子は私たちを見てクスクスと笑っている。そう、なぜかここでも麻莉子は一緒なのだ。
「久遠さんねぇ、横で見てる分には面白いかもしんないけどさー」
友哉は弁当男子でも、朝遅刻ギリギリ組みの麻莉子と私は、当然ながら購買で買ったパンと牛乳のみである。あっ、今日はヨーグルトも買ったっけ。
ここで、『男子と女子が逆じゃない?』 なんて思った人は、頭の中身が既に古い。最近は男も女も区別なんてなく、男らしさ・女らしさなんていう言葉も、すでに死語と言えよう。とはいえ、波原小春の中では、まだまだ男らしさ・女らしさという概念は生きているし、女らしさを追及する日々……も、そのうちにやってくるだろうと願っている。例え、今が女らしさに少々欠けているとしても。
「小春ちゃんったらぁ~、そのパン、全部食べるつもりなのぉ?」
麻莉子の言葉に、私のアンテナがピクリと反応する。もしかして回りのクラスメイト達も反応してやしないか?
いや。
『買ってきた五個のパンを全部食べる』事じゃなくて、この私が『小春ちゃん』と呼ばれる事に対して、だ。
「久遠さんね、あたし、毎日言ってると思うんだけど、その『小春ちゃん』って呼び方、やめてくんないかな~」
麻莉子は大きな目をいっそうクリクリさせると
「なんでぇ? 小春ちゃんって響き、可愛くって麻莉子ね、とぉっても好きなんだよぅ~」
そう言って、ちょっと唇をとがらす。可愛い子はどんな仕草をしても可愛いんだな、と思い、そして、そーゆー子の対極に自分が位置する事を否応なく認識させられて、ちょっぴり凹んでしまう。ほんのちょっぴりだけってことにしておこう。
(そうは言っても、両親には申し訳ないけど、私には似合わないと思われ……)
そこへ、自分が話すべき時にはだんまりの友哉が口を挟んでくる。
「久遠さん。波原さんがイヤだって言ってるんだから、違う呼び方にした方が良いんじゃない?」
紫月友哉。こいつは麻莉子よりは鋭いらしい。見た目と名前のギャップに私が結構こだわっていることを、しっかりと気付いている。
(大雑把そうに見えたって、一応これでも女子なんだしさ)
(が、しかし。自分の名前を気にするなんて、波原小春、ちっちゃくね?)
自問自答しているあたりで、もうすでに自分の小ささを露呈している。
「そうかなぁ、そうなのかなぁ~」
イマイチ納得出来ない様子の麻莉子。
(麻莉子よ、頼むから空気読んでくれ)
こうして三人で食べる昼休みの時間も過ぎていく。
それにしてもこの三人、いったい何繋がりなんだろう。何度考えても私にはわからない。
ただし、麻莉子と友哉が、私に懐いているのだけは確かなようだ。
☆☆☆
新入生の一日は疲れる。全てが始めての事ばかり、気を張ってなきゃなんないし、新しい環境の中で自分の居場所も確保しないとならないし、勉強や部活だってゴールデンウィークが開ける頃には本格的になっていくわけだし。
そんな折、とうとう私の存在感をクラス中に知らしめる事件が勃発する。私の体格をもってすれば、最初から十分に存在感はあったかもしれない……が、私の言う存在感とは、そういった類じゃないことは理解して頂きたい。
それは英語の授業中に起きた。ちょうど私は、英語の教師(矢崎朝子)についてあれこれ思案している最中だった。『なぜ私は、入学早々から矢崎に嫌われたのか』という深遠なテーマ内容に添って。
なんせこの矢崎という教師は、何かにつけ皆の前で私にイヤミを言ってくるし、難しい質問ほど私に当てたりする。しかも、こいつのイヤミは(既にこいつ呼ばわり)、熱血教師である担任の八反田とは違い、陰湿でねちねちしてるので、タチが悪いったらこの上ない。
(だいたいだよ。大のオトナが、教育者という立場でありながら、金も力もない若干15歳のいたいけな女子高生に、なんで敵意むき出しなわけ?)
授業中はなるべく目立たないようにしているのが功を奏して、他の教科の先生にはちゃんとスルーされているのに、なんで矢崎の英語ではうまくいかなかったんだろう。
「…らさん。……原さん」
余計な事を考えていた私は、矢崎から名前を呼ばれていたのに気付けなかった。
「波原さん!!」
(しくった!)
「はいっ!」
矢崎の顔が嬉しそうに歪む。
「私の授業なんて、聞いている価値も無いって様子なのねぇ」
(あぁ。こいつの授業だけは気を抜いちゃいけなかったのに)
「すみませんでした!」
「まぁずいぶんと素直だこと。つまりは認めた、って事かしらね」
ここは決して逆らっちゃいけない。言い訳してもいけない。ただひたすらに謝らないと。授業に集中してなかった私が悪いんだから。
「……本当にすみません」
「そう、わかったわ」
矢崎の勝ち誇ったような一瞬の表情を私は見逃さない。
(くそっ)
「波原さん、お立ちなさい」
しょうがなく言われるままに椅子から立ち上がる。
「波原さんは私の授業を受ける必要がないくらいに理解しているようだから……13ページの頭からワンセンテンス音読して、和訳してちょうだい。ワンセンテンスとは言っても、ここの構文はちょっと複雑で訳するのが難しいから、間違えないように気をつけてね。なんて、こんなアドバイスもあなたには余計だったわねぇ」
今日はいつも以上に絡んでくる感がある。
ここで残念なのは、英語は得意な教科じゃない上に、私の頭の出来も決して良い方ではないという事だ。ついでに言うと、自慢じゃないけれど、中学時代から予習をするようなマジメな生徒でもない。
「波原さん、どうしたの。授業を聞かなくても大丈夫なあなたなら、こんな英文くらい簡単でしょ。それにね、あなたが黙っていると、授業時間がどんどん減っていって、他の生徒が学ぶ時間を潰すことにもなるのよ」
今日は徹底的にやるつもりらしい。
そして私が、我がクラスメイト達の反応を盗み見ると、関係ないとばかりに余裕をかましてるヤツや、自分にとばっちりが来ないようにひたすら息を詰めて嵐が通り過ぎるのを待っているヤツ、そして私を見下してクスクスとあざ笑っているヤツらばかり。
特に仲京香。こいつは、最初から上品ぶってる感じが鼻についたし、回りにはいつも取り巻きがいたりして、なんとなく好きになれなかったけど、そうか、こんなふうに高みから他人を見下す態度が、どんなに上品ぶっていても身体中からプンプンしていたから、好きになれなかったんだ。
(仲京香、今からあんたは私の敵だよ!)
それでもそんな中にあっても、本当に心配そうに私を見つめているクラスメイトが約2名ほど。
(麻莉子と友哉ぁ。あんた達は、私のホントの友達だよ)
そして、桐生誠也は……、うん、こいつの事は無視しよう。
さて、どうする。
泣いて許してもらうか。
このまま教室を飛び出すか。
それとも、このイヤミな女教師につかみかかるか。その場合は、退学も覚悟しないと。
(……バカな事考えてないで、とりあえず教科書でも読むか。知ってる単語の方が多いだろうし)
私が教科書を取り上げようとしたその時だった。
「波原さん?」
矢崎の声が耳をすり抜けていった。私の頭の中で光がはじけ、下から上へと全身に何かが立ち上ってくる感覚に襲われる。それはあたかも地球の中心にあるマグマの一部が、私の身体を通して吹き出すような感じとでも表現すべきか。
(きたっ!)
実は何を隠そう、私は超能力者なのだ。自分の能力を超える力を持つオンナ。
とは言っても、自分の持つ力がいったいどんな力なのかも、いつ発動するのかもわからない。ここぞという時に必ず役に立ってくれるというわけでもない。そんな、なんとも頼りない超能力ではあるんだけれど、それでも、その力が発動しようとする時には間違いなく分かる。さっきのように。
その特殊な能力のおかげで、私は1センテンスどころか1ページ分をまるまる暗誦し、すらすらと和訳もしてみせた。もちろんノートも教科書も、一顧だにせず。
(完璧だよ)
陶酔感のような、痺れるような快感に身体全体が包まれる。矢崎は、両目を見開いてわなわなと震えながら私を凝視しているし、クラスメイトたちも、驚きと呆気にとられて、羨望と妬みの混じったような、なんともいえない複雑な視線を私に浴びせかけてくる。
「はい、けっこうよ」
矢崎が声を発した時には、私の身体の中からは何かがストンと落ちていた。
(どう? どんなもん?)
実は私は、自分の努力の賜でも努力の結果でもないこの能力を、誇示したくてしょうがないでいた。早く発動してくれないものかと入学早々から思っていたくらいだ。この力が発動した暁には、クラス中から一目置かれる存在になれるはずだと信じて疑わないでいた。
なのに。
なのに、矢崎はなんて言った?
いつもの表情、いつもの皮肉な口調に戻ったと思ったら。
「波原さん、多少は予習をしてきているようね。でもね、この星杜には、さっきのあなたくらいの事なら、楽にできる生徒はたくさんいるから、あまり自分を過信し過ぎないようになさい。まぁそれでも今日のところは誉めてあげるわ。暗誦に間違いはなかったし、何よりも素晴らしい発音でした。和訳にも問題ありません」
(えっ?えっ?えぇーーーっ!?)
「もう座っていいわよ」
(なんだ、なんだ、いったいなんなんだ、この展開は!)
そりゃ矢崎にだって、誉めてもらえるんなら、嬉しくなくはないよ。だけど違う、そうじゃない。私が求めていたのは、そういう事じゃないわけで。
この後私は、自分が望むと望まずとに関わらず、良い意味でも悪い意味でも『とても勉強熱心で英語が得意な生徒』という位置付けを獲得し、クラス内でその存在感を示すこととなる。
世の中、本当にうまくいかない……。
☆☆☆
その日、帰りのホームルーム。ネタにされるだろうと覚悟していたというのに、担任の八反田は意外にもさらりとしか触れなかった。
「波原。おまえ、ちゃんと授業の予習をしてるんだってな。英語の矢崎先生が誉めてたぞ」
(そこなのか?)
授業態度が悪いとか、ある事ない事告げ口されたかと思っていた私は、思わず拍子抜けする。
(へぇ、矢崎って意外と良いヤツなんじゃん)
などと思ったところなどは、まだまだ私は子供だった。それから後の英語の授業も、矢崎からネチネチと虐められる運命にあるなんて、この時には思いもしなかった。とはいえ、計らずも私の英語力が飛躍的に伸びてくれたのは、必死で予習復習をやらざるを得ない状況に、私をとことん追い詰めてくれた矢崎のお陰である事に間違いはないんだけども。
☆☆☆
「きりーつ。礼」
やけに疲れた一日もようやく終わる。クラスメイトたちも、帰り支度を始めている。中には部活見学に行く生徒もいるんだろう。
「小春ちゃ~ん」
暖簾に腕押し糠に釘、何度言っても無駄なため、しょうがなく麻莉子にだけは『小春ちゃん』と呼ぶ特権を認めることにした。あくまでも特例ってことで。
(麻莉子は良い。でも、ぜったいに麻莉子一人だけだ)
納得したはずなのに、それでも毎度毎度心の中で呪文のように『麻莉子だけ、麻莉子だけ』と繰り返すこと、幾たびぞや。
そんな私に、わざと聞こえるように、似合わないよなー、アイツ鏡見た事無いのかねぇ、名前負けー、などと陰口言う男子がクラス内に数人。その筆頭、五十嵐健太。
(あんたたちね、そんな子供じみた事、いつまで言ってるわけ? いい加減、恥ずかしく思わないの?)
しかし、私が男子にからかわれるための種をせっせと蒔いている麻莉子本人は、そんな事など全くの無自覚で、まぁそこが、能天気でかわいい麻莉子の所以でもあるんだけれど。
「いやぁ~、小春ちゃ~ん。今日の英語の時間、もっのすごくカッコ良かったよぅ。小春ちゃんが暗誦を始めた時の、あの矢崎先生の顔ったらさぁ、麻莉子ねぇ、もう胸がすーーーっとしちゃったぁ~。矢崎先生ったら小春ちゃんにばっかり意地悪なんだもんねぇ~」
鞄にごそごそと教科書類を詰めながら、私は麻莉子の言葉を聞いていた。
(実はあの時さぁ、私の特殊能力が思わず発動しちゃってねぇ)
何度この言葉を呑み込んだことか。
「でもさぁ、小春ちゃんって見掛けによらず頭良いんだねぇ~」
(麻莉子よ、それは一言多くないかっ!?)
そんな私たちの元へ、一人のクラスメイトがつかつかと近寄ってくるのが目の端に見えた。
(……桐生誠也?)
私は、すごく嫌な予感を覚える。
(神様っ! 彼と同じクラスになったのまでは何とか我慢します。でもお願いですから、私のこれからの楽しい星杜学園生活に、あいつが絶対に絡んでこないようにして下さい。神様、お願いです、お願いします!)
思わず神頼みまでしてしまったというのに、秒殺で私の願いは打ち砕かれる。神様はなんて無慈悲なんだろう。
「波原」
桐生に名前を呼ばれたが、とりあえずは聞こえないフリをしてみる。
「波原!」
もう一回くらいは、聞こえないフリをしてもバチはあたらないんじゃないだろうか。もしかすると、私の醸し出すオーラにビビって、話しかけるのを諦めてくれるかもしれないじゃないか。
「波原!!」
ところが諦めるどころか、その声はどんどんと大きくなる。
(あー、ダメか)
「そんな大きな声を出さなくたって、ちゃんと聞こえてますってば。あたしになんの用?」
私は桐生に視線を合わせないままに答える。
「波原、おまえ、いったいどっちを向いて返事している?」
「どっち向いて返事しようがあたしの勝手でしょ。だいたいあんたなんかにおまえ呼ばわりされる筋合いなんてありませんて」
「ほぅ。ならば俺にも言わせて貰うが、俺の方こそ、おまえなんかにあんた呼ばわりされる筋合いなど、どこにもないと思うがな」
(こいつは。こいつは、こいつはっ!)
全然変わらない、変わっちゃいない。
私をムカつかせる才能だけはマジで天下一品だ。
私の生サイン入りの証明書を出してもいい。
「で、なんの用?」
態度も言葉も冷淡になってしまう自分を、どうしてもコントロールできない。私の名前を小馬鹿にするあの男子たちと、なにも変わらないレベルの自分が哀しい。
(あいつらの事、言えないじゃん)
そこに麻莉子が言葉を挟んできた。絶妙のタイミングではある。
「桐生くん、小春ちゃんに何の用なのかなぁ~。麻莉子と小春ちゃんねぇ、これから一緒に寮へ帰るところなんだよぅ。良かったら桐生くんも一緒に帰る~?」
(まっ、まっ、麻莉子。その発言はマイナス50点だ)
「いや…。久遠、悪いんだが、ちょっと波原と2人だけで話がしたくてな」
(なに? 今、なんて言った!? 2人だけで話がしたいなんて事、言ったりしたっ!?)
どうか空耳でありますように。
麻莉子には、ここはヒトツ、いつもの空気読めないモード全開の返事を心からお願いする所存である。
それなのに麻莉子ときたら……。
「あっ、そうなんだぁ。桐生くんと小春ちゃんって……ふぅん、そうなんだぁ~。ふぅ~ん、分かったよぉー、それじゃ小春ちゃん、今日は麻莉子一人で寮に帰るねぇ~」
(………麻莉子。怨)
「小春ちゃん、桐生くん、また明日ね。バイバーイ」
エクボを浮かべてにっこり笑顔の麻莉子が教室を出て行く。しかし私は、麻莉子の後姿をいつまでも恨めしげに見送っているわけにはいかないのだ。桐生との戦闘に備えて、早急に気持ちを立て直さなければならない。
(桐生が私にしたいハナシなんて、ろくでも無いことに決まってるんだから)
「で? さっさと用件を言ってくれない? あたし、こう見えてもそんなヒマじゃないしさ」
寮に戻ったところで、やる事なんてとくにはないんだけど、だからといって桐生と話す時間は一分だって惜しいというもの。桐生の身長は、私の視線の高さ具合からみて180㎝前後はありそうだった。これでも私は168㎝はあるのだ。そんなデカい桐生が私の目の前に立っている。
(威圧感丸出しってかい)
「波原。ちょっと場所移動しないか。中庭で話そう」
桐生にそう話しかけられた時だった。後ろから声を掛けてくる生徒がいる。
「あの……誠也さん。もし寮に帰られるのでしたら、ご一緒させて頂いてもよろしいかしら」
(はぁっ!?)
誠也さんとか、帰られるのでしたらとか、そんなお上品な言葉を口から吐いているのはどこのどいつだと思って見てみれば、なんと英語の授業中に嘲るように私を盗み見していた仲京香だった。
(あんたかい! あの時の、あの表情、決して忘れないんんだからね!)
心の中で私が呪いの言葉を繰り返していると、桐生が仲に返事を返す。
「あぁ、仲さん、ごめん。今日は、波原にちょっと用があるんだ」
仲の声が、なんとなく媚びを含んでいるように響いて、鼻につく。
「あら、そうでしたの。ごめんなさいね。お2人のご様子から察すればいいものを、わたくしってば無粋な真似をしちゃって」
(あー、ハイ、ハイ。お2人で勝手にやってて下さいな)
仲京香よ、別に私はあんたに桐生を連れて帰って貰っても一向に構わないんですけどね。いや、逆に一緒に帰って貰った方が、よっぽどありがたいわ。
「それじゃ皆さん、今日のところは帰りましょうか。誠也さん、何かご用事があるようですから」
いつもベッタリ金魚のフンまがいの取り巻き連中とともに仲京香は帰ろうとして、置き土産に、私に向かって憎悪に満ちた視線を送ってくる。
(よかろう。私、波原小春は、仲京香、おまえの挑戦を受けて立とう!)
負けじと私も睨み返した。仲京香はぷいっと顔をそむけると、何事もなかったように取り巻きたちと一緒に教室を出て行った。
(はい、みなさん、さよーなら!!)
私はほうっと肩で息をつく。気がつくと、桐生がなにやら面白そうに私を見ていた。
「なんか文句ある?」
しかし桐生の眼鏡の奥の目は笑ってはいない。そう、桐生は以前からそういうヤツなんだ。
「中庭で話そう」
そう言うと桐生は、私の返事など待たずにさっさと教室を出て行く。
(私がついて行かないなんてことは、考えもしないってわけ?)
やっぱりシャクにさわる。が、私は嫌々ながらも桐生の後ろを着いていった。
それにしても、教室を出て中庭までの廊下を歩く私たち2人に、回りの生徒たちの視線が集まっているように感じるのは、はたして私の自意識過剰のゆえなのだろうか。
(学園内の様子や人間関係が分かるまでは、なるべく目立ちたくないのに、180㎝近い桐生と168㎝の私が一緒に歩いてたら、物理的にはどうしたって目立っちゃうじゃんか!)
ここで星杜学園の中庭を説明しておくと、中庭という名前の通り、星形に配置された校舎を結ぶ五角形の廊下が結ぶ中心部にあたる場所だ。屋根のない吹き抜けの場所で、生徒たちの憩いの場所となっているらしい。中庭の地面は手入れの行き届いた芝生で、季節ごとの花が咲き誇る花壇があったり、木陰を作って涼しさを提供してくれる木々があったり、いくつか設置された木製のベンチもあったりと、学生だって、大人に負けず劣らずストレスをためながら日々生活してる事を、星杜学園の創設者は分かっていたんだろうと感じさせる作りとなっている。
中庭に出るドアが見えてくる。
「飲物、何か買ってくるわ」
桐生はそばに設置されている自販機コーナーで缶ジュースを二本買うと、足早に戻ってきた。
ノブを回して中庭に出る。
柔らかな土の匂いと、4月の太陽の心地よい日差し、目にも鮮やかな美しい花の色と芝生の緑。
(あぁ。なんてここは幸せな空間なんだろう。隣にこいつさえいなければの話だけど)
桐生は、中庭に配置された一つのベンチの前で足を止めると
「座るか」
そう言って、制服のブレザーのポケットからハンカチを取り出してベンチに敷いて、自分はハンカチの隣に腰を降ろす。
「どうした? 波原も座れよ」
桐生は、敷いたハンカチを指し示す。
(え? ちょっと待って。桐生って、こんなキャラだった?)
私の記憶の中の桐生と一致しなくて、なんだか気味が悪い。とはいえ、せっかく敷いて頂いたハンカチなので、遠慮なく座らせて貰うことにする。不自然じゃない程度に桐生との距離をとってそのハンカチを敷き直した私を見て、その意味を悟ったものか、桐生は一瞬苦々しい表情を浮かべた。
「飲めよ」
私が腰を下ろすと、桐生は先ほど自販機で買ってきた缶ジュースをこちらに差し出してくる。見ると、私の好きなグレープフルーツジュースだった。
「あ…ありがと」
とりあえずありがたく頂く。桐生は、ちょうど缶コーヒーのプルトップを開けるところだった。
「あれ?」
口から思わず声がもれた。
「なんだ?」
「桐生さ、なんで缶コーヒー?」
「これが飲みたかっただけだが」
(え?そうなの? じゃ、じゃあさ)
「私のは、なんでコレ?」
桐生は、私に何が飲みたいかなんて聞かなかった。違う種類のモノがある場合、どっちが良いかを相手に聞くのは初歩の気遣いだろうに、そんな事もせず最初から私にグレープフルーツジュースを差し出してきた。
「だって波原は、これが好きなんだろう?」
「………」
私は我が耳を疑い、思わず桐生を凝視する。
なんだろう、この違和感。
「なにかおかしな事でも言ったか?」
(なんで桐生が、私なんかにハンカチを敷いてくれる?)
(なんで桐生が、私なんかの好きなジュースを知っている?)
頭の中がぐーるぐる回りそうになる。ここは眩暈を感じそう、と表現すべきだったか。
でもグレープフルーツジュースは文句なく美味しい。桐生と一緒という妙な緊張感のせいで喉が渇いていた事もあり、私はゴクゴクと一気にジュースを飲み干す。
桐生は私に、何を話したいんだろうか。
なのにその後は、私の隣に座ったまま、桐生は目の前の光景を黙って眺めているだけだった。
中庭には、私たちの他にも生徒達がたくさんいて、楽しそうにおしゃべりをしたり、追いかけっこをしてふざけあったり、笑い声が響いている。
(私も星杜学園の生徒の一人になったんだなぁ)
桐生に対して身構えていた鎧がふっと軽くなった。夕方の太陽はまだ明るい。私は、同じ太陽が半月前まで住んでいたあの街にも、同じように輝いているという事が、なんとも不思議に思えた。
あの街から遠く離れて、この星杜学園の中庭にいるという現実。
桐生と私の間を、優しい風が通り過ぎていく。ふわりと髪が揺れる。
「桐生さぁ、中三の始めに、あたしのクラスに転入してきたでしょ。あたし、わりと最初からあんたのこと、嫌いだったんだよね」
桐生は、何かを言うわけでもなく黙って聞いているので、私は構わずに続ける。桐生は、私の横顔を見ているようだったが、不思議とそれが気にならなくて、桐生の雰囲気は凄く柔らかく思えた。
「それまでクラスの中心にいた私のお株をすっかり奪っちゃってさ。桐生、身長が高くてわりとカッコよく見えたし、勉強もスポーツもできたから、それで性格の悪さは十分に補えてたしね」
やはり桐生は何も言わない。
「あんたさ、なにかにつけて私につっかかっては嫌味を言って、私の意見なんてことごとく論破してみせては、みんなの前であたしを笑い者にしてたじゃない?」
「波原……おまえ、そんなふうに感じていたのか?」
桐生の意外な言葉に、私は一瞬言葉に詰まる
「と、とにかく。これからも仲良くはできないと思うけど、仲良くしたくもないけど、ずっと謝ろうとは思ってたんだよね。桐生に正論で敵わない分、あたしは陰でずいぶん悪口も言ってたし……あの時はゴメン」
不思議なんだけど、やっぱり桐生は優しい顔をしていた。
「あーぁ。やっと今日、謝ることができた。基本あたしは良い人だから、負の感情を持ち続けるのは苦しくてさ。でも、もう一度言うけど、あたし、あんたとは高校にきてまで絡みたくないわけ。逆恨みなのかもしれないけれど、あの時の辛くて哀しい気持ちとか、あんたの冷たい表情とか声とか思い出しちゃうしね」
桐生が、何を思って私の話しを聞いているのかは想像もつかなかった。
気がつくと、中庭にいた生徒の姿もいつの間にか減っていて、私達以外にはもう2~3人くらいしか見当たらない。
「桐生、あんたさ、あたしが養女だってこと、知ってたんでしょ。隠すつもりも無かったし、回りもみんな知ってたから、桐生の耳に入ってもちっともおかしくないけどね」
桐生が、コクリと頷いた。
「偶然聞いたんだ」
「本当の両親とは、小学校高学年の時に死別しちゃったけど、あたしを引き取って育ててくれたおばちゃん夫婦は、子供がいなかった事もあって、あたしを本当の子供のようにかわいがってくれたんだよね。でもさ、当たり前だけど、あたしの中から両親の思い出が無くなる事はなくて、おばちゃんたちが優しくしてくれれば優しくしてくれる程に思い出して」
桐生の表情が辛そうになる。
「だから……なんだよね。だから桐生は、あの日、あたしに星杜学園の学校パンフをくれたんでしょ。あたしが、誰も知ってる人のいない場所で、過去をいったん断ち切って、新しい生活をゼロから始められるようにって」
「……」
「でもさぁ、桐生の顔を入学式で発見した時は、目の前が真っ暗になったんだからね。桐生が、星杜を受験してたなんて夢にも思わなかったし、なんで6クラスもあるのに、同じ中学校から進学したたった2人の人間を、一緒のクラスにするんだろうって学校を恨んだりもしてさ」
ここで桐生に伝えなければ、この先二度と桐生に伝える機会は訪れないかもしれない。
「まぁそんなこんなな気持ちはあるんだけど、でもね、桐生、あんたには感謝してるんだ。本当にありがとう。あたしに星杜学園の事、教えてくれて」
桐生に対しての礼の言葉なんて、今までの私の辞書には無かったけれど、今日の私はかなり素直に言えたような気がした。少しの沈黙の時間が、気恥かしい。
それなのに、桐生の言葉を待っていた私に、突然立ち上がった桐生はこう言ったのだ。
「そろそろ最終下校時間だ。帰るぞ。俺はちょっと寄るところがあるから、波原は寮に帰るといい」
さっさと私を置いて中庭から出て行こうするではないか。
(はい? 私、今、やっとの思いでアナタにお礼を言ったところなんですけど?)
桐生が振り向いて、申し訳程度に一言だけ言葉を掛けてくる。
「今日は、おまえに中庭の景色を見せたくてな」
(はぁ!? なんだ、それ??)
「やっぱりあんたなんか大嫌い!」
桐生が面白そうにクスリと笑うのが見えた。
☆☆☆
今朝も私は、同室の林さんが準備してくれる朝食をありがたく食べている。
この林さんは、4月からこの星杜学園寮で私と同室になった子で、これまでのところ、私の回りにいる中では唯一と言っていいくらいに、ごくごく普通の人だ。
クラスは違っても、クラスメイトの次に寮の同室者は一緒に過ごす時間が長いわけだし、林さんのような人と一緒になった私はラッキーだったと言わざるを得ない。
「でもさぁ。新入生はゴールデンウイーク明けからじゃないと、学食でご飯食べられないって、なんかおかしくない? 学園の環境にある程度慣れてから、少しずつ学園内の設備使用を認めていくって方針も分からなくはないけどさぁ。全寮制なんだから、ご飯に関してはもうちょっと生徒の身になって考えて欲しいもんだよねぇ」
そう話しながら、私は味噌汁をすする。例えインスタントのお味噌汁だとしても、白ご飯に味噌汁ははずせない派なんだよね、私。
「確かにね。でも波原さん、私も時々は学食を使うと思うんだけど、この程度なら一人分も二人分も準備の手間は同じなんだし、良かったら私が作る時はこれからも一緒に食べない? あ。学食のご飯とは、おかずの品数もボリュームも見劣りはするけど」
ホントに林さんは天使のような人なんだ。
ここで簡単に1年生の住んでいる寮棟の造りを説明しておくと、寮棟は四階建ての鉄筋コンクリート造の、いわゆるマンション風な感じで、長い廊下の片側は腰から上の窓ガラスが端から端まで並んでいて、もう片側には同じ形のドアがズラッと並んでいる。ワンフロアにドアが20枚、1部屋2名で生活するので、ワンフロアに生活しているのは、20部屋×2名の40名、4階建てなので寮全体では40名×4階分の160名が生活できるようになっている。その他に娯楽室のような共用部分もあるそうだけど、まだ供用部分については探検していないのでよくわからない。
林さんと私は部屋から出ると、カード式の電子キーをドア横に設置されているカード識別装置のセンサー部分に軽く当て、外出時間を記録する。声をかけられた林さんは、数人の友人たちのグループに加わっていった。
私は、その後ろ姿を眺めつつ、一人での登校タイムを味わう。
(おやまぁ、もうカップルでの登校ですか~)
長い寮の廊下には、そんな光景をちらほら見ることができた。
「波原さん、おはようございます」
聞き慣れた友哉の声が聞こえてきたので、私は振り返る。
「あ、紫月くん、おはよ」
友哉が、私の隣に並ぶと私に足並みを合わせる。
うーーん、これもカップル登校の一つになるのかもしれない。
「波原さん。……昨日の放課後に、桐生くんが波原さんを呼び出したって、麻莉子さんからぼくにメールがきたんですけど…」
(きたんですけど……って)
情報漏洩が早すぎる。
2人は、ただの弁当繋がり仲間じゃなかったのか? まさかそんな内容のメールをやりとりするまでの間柄になっていたとは、まったくもって迂闊だった。
(携帯電話、便利な反面ウザくもあり)
「うん、まぁねぇ」
この話題には出来れば触れて欲しくなかった。
「あの、あの……それで桐生くんは、波原さんにどんな話しをしたんですか?」
(う~~~~~~っ)
「どんな話しって言われてもさ……。桐生とは同じ中学出身で、知らない相手じゃないし」
寮と校舎を隔てるガラス扉のゲートまで来たので、順番を待って電子キーをカード識別装置のセンサー部分に当てる。
ピッ。
後ろから、すぐに友哉が電子キーを読み込ませる音が聞こえたけれど、私はゲートを超えて校舎内に入っても友哉を待たずに歩き続ける。
「波原さん、待って下さい」
すぐに友哉はまた横に並んだ。が、私の拒否感が伝わったのか、もうそれ以上は聞いてくる事はなかった。しかし、お昼休みにこの続きが展開するだろうことは、私でも容易に想像がつく。
(これに麻莉子が加わるのか)
はぁ。
思わず、ため息。
いつものように教室前の廊下で上靴に履き替えて、ドアを開ける。
「おはよー」
誰に言うわけでもないけど、朝の挨拶はちゃんとしないとね。
「波原さん、おはよう」
「おはよ」
「おはー」
教室内が朝の挨拶で満ち、気持ちのいい一日が始まるような気がしたものの、私の目の前には、天敵の仲京香が登場してきた。
「おはようございます、波原さん」
(げっ。朝から仲京香はキツイわぁ)
清々しい気持ちも吹っ飛ぶというもの。
しかし私は、優雅にほほえん(だつもり)で
「仲さん、おはようございます」
しれっと挨拶を返す。
自分の席へ向かおうとする私を引き止めて仲京香は、こちらの気持ちなどおかまいなしに話を続けてくる。
「昨日は、波原さんと誠也さんのお話しの最中に、わたくしったら、お邪魔しちゃってごめんなさいね」
(……ハイ、そうですか、わかりました。よろしい、売られたケンカは買いましょう)
私も思いっきり丁寧に答える。
「いいえ~。二人でと・く・べ・つな話しをしていたわけでもありませんから、お気遣いはご無用ですよ~。中学時代の懐かしい、他愛もない雑談に花が咲いちゃいまして」
思わず舌を噛みそうだ。
「まぁ、そうでしたの? わたくし、なにかお二人で大切なお話しをされてたのだとばかり……。それを聞いて安心しましたわ」
仲京香は、何に安心したというんだろうか。
(桐生なんかでよろしければ、熨斗つけて差し上げますってば)
「それじゃ」
軽く会釈をして、それ以上の会話を遮り私は席につく。
桐生が、最初からこちらを気にしるのは分かっていた。
(あんたのせいで、朝から友哉に昨日のハナシを振られるわ、仲には勘ぐられるわ、マジ迷惑なんだからね!)
思っていた事が私の顔に出たものか、桐生が、瞬間笑ったように思えた。
(朝からなんだかいろいろとムカつくこと)
「うん、そうそう」
「いやだぁ、友哉くん、それ変だよー、絶対へ~ん」
「でもね、やるべき時はやるオトコなんだよねぇ~」
お昼休み、いつもの3人でお弁当タイム。麻莉子と友哉は、何かの話題で盛り上がりつつ、楽しそうにお弁当を食べている。ゴールデンウィークが明けて学食が解禁されれば、購買のパンともおさらばできるんだからと自分を慰めつつ、今日もパンと牛乳が昼食の私。
(もうちょっとの辛抱)
焼きそばパンとコロッケパンとあんぱんに、デザート的な意味合いを持たせて生クリームをはさんだ菓子パンも買ってみた。4個のパンを順番に頬張る。どうしてなかなか購買のやきそばパンのおいしさはあなどれない。
(それにしても)
最初から弁当男子だった友哉が弁当持参なのはいいとしても、ここのところは麻莉子までもが手作り弁当を持参してきている。それを見ると、自分はオンナとして不出来なように思えて、ちょっと哀しくなったりもする。だが朝が大の苦手な私、自作の弁当なんて夢のまた夢だ。
(どんなお弁当なんだろ? ちょっとのぞいちゃおうかな)
弁当作りが得意な友哉のお弁当ならまだしも、麻莉子のお弁当をのぞき見するのは多少気がひけて、これまではあまり見ないようにしてきていた。
(麻莉子のお弁当が、もしもアレだったら悪いしさ)
見ると、友哉のお弁当箱は、紺色のシンプルな二段重ねの細長い形のもので、麻莉子はピンク色で可愛らしい小判型のお弁当箱だ。
そこまではいい。そこまではよかったんだけど。
「えぇーーーっ!? なんで同じなわけっ!!?」
ガタンと音をたてて椅子から立ち上がった私の顔を、麻莉子と友哉が同時に見る。
(詰め方や量なんかは違うけど、これはどう見たって同じおかずでしょーよ!?)
「え~、小春ちゃんったら、突然なにぃー? 麻莉子、びっくりするじゃないよぅ」
とりあえず椅子に座り直した私は、どうしても麻莉子が二人分のお弁当を作っている姿を想像できず、友哉に確認してみる。
「どうでもいい事なんだけどさ。どうでもいいんだけど……紫月くんって、もしかして久遠さんのお弁当まで作ってるわけ?」
「小春ちゃんったらぁ~。なんで麻莉子に、友哉くんのお弁当も作ってるの~って聞いてくれないのかなぁ~」
(どう考えても、ありえないでしょ……)
「あ、はい、そうなんですよ。久遠さんに、ぼくのお弁当を食べたいって言われて。久遠さん、いつも美味しい美味しいって食べてくれますから、その姿を見ているとボクも幸せな気持ちになれるっていうか」
本気で嬉しそうな友哉の顔を眺めてから、改めて麻莉子の顔も見る。麻莉子は悪びれる様子もなく答える。
「うふふぅ。小春ちゃんも友哉くんにお弁当作って欲しいのかなぁ~? 本当にとぉーっても美味しいし、カロリーも考えてあって、ちょーヘルシーなんだよぅ~」
麻莉子、女性としてその発言はどうかと思うが。
「あーー、でもそうなったらさぁ。友哉くぅん、小春ちゃんのおかずは他にも別口で作らないとダメかもよぉ。だって小春ちゃんってば、いっつもパンを5個も食べてるだからねぇ~」
(よく見てくれれば分かると思うけど、今日は4個なんですが?)
友哉も友哉で、「もし良かったら、ぼく、波原さんのお弁当も作りますよ」なんて言ってるし。
うまく言えないんだけど、何かが違う、何かが違うよ、君たち。
と、ここで麻莉子が声をひそめる。
「ところで小春ちゃん。昨日のことなんだけどぉ、あれからどーだったのぉ?」
麻莉子よ、いきなり振るのは反則じゃないか。
「う……ん。別に、特別な事はなかったけどさ」
「だって桐生くん、小春ちゃんと2人だけで話したい事があるって言ってたじゃないよぅ。これはもしかして交際を申し込まれたのかもねぇ~って、友哉くんと話してたんだよぅ~」
そう友哉に同意を求めるけれど。
(『友哉くんと話してた』んじゃなくて、麻莉子が一方的に『友哉に吹き込んでた』だけでしょうに)
そしてまた友哉は友哉で、なんだってそんなに身を乗り出して話しに聞きいろうとしているのか。
「それは、ないから」
私はソッコー否定する。間を開けて余計な詮索をされる時間を与えてはいけない。
「うっそぉ~~~。あの言い方は、普通そういう流れになるもんでっしょー?」
友哉の食いつくような視線の意味がわからない。
「違う、違う。ほら、桐生とあたしって同じ中学校出身でさ。地元を遠く離れて星杜にきたのは2人だけだし、あたし達が始めてここに進学したんで……あの、その、お世話になった先生に近況報告でもしようか、って話しを…」
思わず苦しい言い訳をする。
正直に話してもよかったんだけど、中学時代のイヤな思い出を2人には知られたくなかった。
「本当? 波原さん、それ本当の事?」
「う、うん。まぁね」
「中学時代の話しで盛り上がってたってこと?」
盛り上がったかどうかは別として。
「だいたいそんな感じだったよ」
二人が信じたのかどうかは分からなかったけれど、わりとあっさり話題は変わってくれたので私は胸をなでおろした。
気がついた時には、パンの味なんてろくにわからないまま、私は4個全部を完食していており、お昼休みも終わりに近付いている。またもや、桐生の背中が笑っているように見えた。
(感じわるっ!!)