臓器ファームのアルバイト ─ 時給2000円で宇宙の留守番バイトに行ったら、俺の命より「7億円の肝臓」の方が大事にされた件
俺が初めてその求人を見たのは、大学の掲示板に貼ってあった手書きのチラシだ。
いや、手書きという表現は正確じゃない。あれはパソコンで打ち込んだ文字をわざわざコピー用紙にプリントして、テープで貼ったやつだ。デザインの「デ」の字もない。フォントはMS明朝。俺でも、あれよりましなものが作れる。
“無重力環境での簡単な監視業務 時給二千円 交通費(往復シャトル便)支給 三週間住み込み 要健康診断書”
普通の人間なら「無重力」の一語で手が止まるだろう。軌道上の施設、ということだ。要するに、宇宙だ。宇宙に行くバイトの時給が二千円。最低賃金と大して変わらない。なんなら都内のカフェで働く方が割がいい。
だが俺――神岡(文学部三年生)――は奨学金の返済が百三十万円残っていた。文学部というのは、貧乏と親和性が高い学部である。俺はそれを承知の上で入学したが、かといって貧乏がオシャレになるわけでもなく、ただ地味に金がない。
横谷は、また留年したらしかった。法学部に入って六年目。もう卒業するつもりがあるのかどうかも不明な男だが、そのたびに「金がない」とこぼしてくる。
彼の口からは常にほんのりと酒の匂いがする。昼の二時でも三時でも関係なく。
蒼柴は、俺より一個下の二年生で、経済学部だった。「昨日から喉が痛い気がするんですけど、これって何かの症状ですかね」が口癖の、神経質すぎる男だ。
スマートフォンで自分の症状を検索し、「最悪の場合は悪性リンパ腫の可能性もあります」みたいな一文を見つけて青くなるのが趣味らしかった。医学部でもないのに、ヘルスアプリが七つも入っていた。
そんな三人が、どういう経緯でその求人に申し込むことになったかは、もう覚えていない。多分、金がなかったからだ。人間の行動の八割は、金がないことで説明できる。残りの二割は、ホルモンだ。文学部で三年間学んだ結果がそれだ。
***
軌道上培養プラント〈第4ナーセリー〉は、正直言って、地球から見ると美しい施設だと思う。太陽光が当たると銀色に光る外壁が、地上からもたまに観測できるらしい。宇宙の観光スポットみたいなものだ。
中に入ると、話は別だった。
施設内には、天井から床まで、視界に入るかぎり円柱形の透明なタンクが並んでいた。高さが一メートルほどのタンクの中には、淡いピンク色の液体が満たされており、その中に――臓器が浮いていた。
肝臓。心臓。肺。腎臓。
それぞれが、独立したタンクの中で、ゆっくりと、微妙に動いていた。ポンプで送られる人工血液が循環し、心臓は実際に拍動していた。肺は、ちいさく膨らんでは縮む。無重力のおかげで自重による変形がなく、どの臓器も「完璧な形」を保っていた。
生々しかった。
体内から切り出されてもいないのに、どういうわけか「切り出されたもの」を見ているような感覚があった。俺のものでもないのに、なぜか自分の腹のあたりが落ち着かなくなる。俺の臓器は、あんなに綺麗じゃないだろうな、とぼんやり思った。
バイトの初日、担当が割り振られた。横谷は肝臓エリア。蒼柴は心臓エリア。俺は肺エリアだった。
仕事の内容は、管理端末に表示されるデータを一日三回確認し、異常があれば本社に連絡する、それだけだった。「手動バックアップ」というのも一応あったが、研修の説明員は「まず必要になることはないので、ざっくり覚えておいてください」と適当に説明を済ませた。
ざっくり……。
そのざっくりが後で問題になるとは、そのときは思わなかった。
自動化システムが全部やってくれる。俺たちは監視員、というより保険だった。念のため、という存在。そういうバイトだ。
とはいえ、暇だった。無重力なので運動もしにくい。読む本はある。ノートパソコンはある。だが三週間というのは、思いのほか長い。
***
バイト二日目の夜――といっても宇宙に昼夜はないので、施設の時計が二十二時を示していた時刻――俺は培養エリアのベンチに座って文庫本を読んでいた。横谷は肝臓タンクの前にどっかりと腰を落として、ストローパウチを傾けていた。
俺が呆れ半分に尋ねる。
「お前、それ何入ってんの」
横谷は悪びれもせずパウチを揺すってみせた。
「麦焼酎。密造したやつ」
「密造って……」
「安く作れるんだよ。発酵させればいい」
平然と言ってのける男に、俺は溜息をつく。
「宇宙にそれ持ち込んでんの、普通にやばくない?」
「見つかってないからセーフ」
それが横谷の倫理観だった。見つかってないからセーフ。どこかで聞いたことある理屈だと思ったら、脱税犯が法廷で並べる言い訳と同じだ。
横谷は目の前の肝臓タンクを愛おしそうに眺めていた。タンクの中には、あらゆる意味で「立派な」肝臓が浮いていた。脂肪の沈着がまったくなく、表面の色が均一で、サイズも教科書通りだった。俺の生物の授業で見た図と、ぴったり一致するような肝臓だった。
横谷はタンクの表面を指先でそっと撫でた。アルコールの回った緩い息が漏れる。
「お前は立派だなあ」
タンクの中の肉塊は、当然ながら何も答えない。横谷は独り言を続けた。
「俺の肝臓はもう限界に来てると思うけど、お前は本当に綺麗に育って。母ちゃんに見せてやりたいよ」
俺は手元の文庫本から視線を上げ、信じられないものを見る目で彼を見やった。
「臓器に話しかける人間は初めて見た」
「ペットと変わらないだろ」
即座に返ってきた反論に、俺は首を振る。
「変わるわ。ペットは意識あるから」
「意識がないから逆に純粋なんだよ。こいつは俺の話を聞いて笑ったり馬鹿にしたりしない。ただそこにいる。最高の聴衆じゃないか」
横谷の論理は、たまに妙に筋が通っていて困る。俺はこれ以上の議論を放棄し、黙って本に目を落とした。
向こうのエリアからは、蒼柴のひどく不安げな声が届いた。
「……神岡さん、ちょっといいですか」
俺は本に視線を落としたまま適当に相槌を打つ。
「なに」
「今日の心拍数、昨日より七多いんですよ。これって何か意味ありますか?」
蒼柴は真剣そのものだったが、俺は顔を上げる手間すら惜しんだ。
「ない」
「でも調べたら、心拍数の変動は自律神経の乱れのサインで――」
「だったら寝てろ」
蒼柴は不服そうな沈黙を返してきた。
彼の担当する心臓タンクの中では、バイオ心臓が毎分六十八回、完璧なリズムで脈打っていた。誤差なし。乱れなし。文句なし。人間の心臓より、よほど優秀だった。
健康な臓器を維持するために、最も不健康な労働力が使われている。俺は文庫本を閉じ、天井の暗いパネルを見上げながらその皮肉を反芻した。
***
バイトが始まって十日目の昼過ぎ、俺たちは暇だった。
宇宙で暇、というのは地球での暇と根本的に違う。地球での暇なら外に出られる。宇宙では、外に出たら死ぬ。選択肢がない。ゲームをするか、本を読むか、しゃべるか、寝るか。それだけだ。
横谷が端末のモニターを眺めながら呟いた。
「管理端末、ちょっとだけ奥まで見れないかな」
その提案に、俺はバイトのルールを一秒だけ思い返した。“業務に関係ないデータへのアクセスは禁止”とあった。
だが正直、我慢の限界だった。十日間、同じ画面を眺めていた。
横谷は視線を巡らせ、神経質に脈を測っている後輩に狙いを定めた。
「蒼柴。お前、経済学部だろ。こういうシステムの抜け方わかんない?」
「経済学部はハッカーじゃないですよ」
蒼柴は口では真っ当な反論をしたものの、手持ち無沙汰に耐えきれなかったのか、すでに端末の前に陣取っていた。結局のところ、パスワードは管理マニュアルの裏ページに平文で書いてあった。
管理AIのセキュリティに対する信頼が高すぎて、人間のアナログな抜け穴を見落としていたのだろう。
端末の奥に入ると、各タンクの「顧客情報」と「評価額」が表示されるページがあった。
俺たちは三人、画面を前にして、しばらく無言だった。
***
タンクひとつひとつに、番号と顧客IDと価格が紐づいていた。横谷が担当している肝臓タンク、番号L-047の評価額欄には、【¥700,000,000】と書いてあった。
七億円。
俺の奨学金の残高が百三十万円だ。
横谷が六年間大学に通い続けた学費が仮に三百万円としても、全部合わせても、この肝臓一個の百分の一にも満たない。
「……マジか」
密造酒のパウチを持つ横谷の手が、少しだけ止まった。
蒼柴担当の心臓タンク、番号H-012には、【¥1,050,000,000】。
十億五千万円。
「……俺の担当、一番高いやつじゃないですか」
蒼柴は震える手で胸を押さえた。
「プレッシャーなんですけど」
「今日この瞬間まで知らなかったのにプレッシャーとは」
俺の冷めたツッコミを無視し、横谷が端末を操作してフロア全体の合計評価額を出した。施設に存在するバイオ臓器の総額は、試算で百七十億円を超えていた。
横谷は画面の端に表示された電卓アプリを弾き終え、ひどく乾いた息を吐いた。
「計算してみた。俺たち三人を解体して、臓器を全部売っても、このフロアの値段には遠く及ばない」
俺は不穏な単語のチョイスに眉をひそめる。
「解体って言うな」
「でも合ってるだろ。人体の市場価値って、全部で多めに見積もっても三千万くらいだ。腎臓二個で五百万、心臓で一千万、肝臓で五百万、角膜、骨髄……全部かき集めても、タンク一個分にならない」
「俺の心臓、中古の軽自動車くらいですね」
蒼柴の呟きは、絶望というより奇妙な納得に満ちていた。
「そこそこの自転車より安いな」
横谷が余計な事実を付け加える。
「補足しなくていい」
俺は蒼柴のフォローにならないフォローを切り捨てた。無意識に自分の肺のあたりを触る。俺の担当エリアにある肺タンクのひとつは、五億八千万円だった。俺の全財産と対比するのもバカバカしい。
俺は首を振り、無慈悲な現状を言語化した。
「結論、俺たちはこの臓器たちのためのヒーター代わりだ。体温と二酸化炭素を出力するヒューマン型保温装置。時給二千円。せめて工場のヒーターなら電気代の方が安い」
蒼柴は力なく肩を落とした。
「帰ろうか」
「帰れない。往復のシャトルは三週間後だ」
俺が残酷なスケジュールを突きつけると、蒼柴は自分に言い聞かせるように何度も頷いた。
「……まあ、時給は悪くないですもんね」
横谷はすでに端末から離れ、また肝臓タンクの前に戻っていた。ストローを咥えながら、どこか遠い目でタンクを見つめる。
「七億か」
横谷の呟きが、虚空に溶ける。
「七億かあ……」
声に、自嘲も嫉妬もなかった。ただ、確認するような響きがあった。世界の構造を口の中で確かめているみたいだった。
***
事が起きたのは、バイト十五日目の深夜――施設時計で午前三時のことだった。
最初は小さな振動だった。本棚に立てかけた文庫本が、スローモーションで倒れた。無重力なので着地はしない。ただ、ふわふわと傾いて止まった。
次の瞬間、施設全体に金属音が響いた。遠くから来る、低い衝撃音。それが外壁を介して床や壁に伝わってきた。
管理端末のアラートが鳴った。
【警告】外壁セクションD-3にデブリ衝突を検知しました。損傷レベル:軽微。自動修復システムを起動します。
デブリ。宇宙ゴミだ。古い衛星の残骸とかボルト一本とかが、超高速で飛んでくる。百キロを超えるスピードで飛んでくるボルト一本は、鉄板を貫通する。
自動修復システムが動いた。損傷箇所にシーリング剤を自動注入するやつだ。たいていはこれで済む。俺たちの仕事は「異常があれば本社に報告する」ことなので、俺は端末を開いて本社の連絡フォームに打ち込んだ。
「デブリ衝突。自動修復起動中。現状異常なし」。送信。
以上で終わるはずだった。
二分後、アラートが再び鳴った。今度は音が違った。低くて、連続していた。
【警告】外壁セクションD-3の亀裂が拡大しています。居住区画と培養区画の隔壁に微細な亀裂を検知。酸素漏出率:毎時0.8%。自動修復システムの処理能力が損傷速度を下回っています。
「……処理能力が下回ってる?」
蒼柴の声が上ずった。
「修復が間に合わないってこと?」
「そういうことだな」
横谷の反応は、居酒屋で注文の品が品切れだった時くらいのテンションだった。
「さすがに帰りたくなってきた」
俺はため息をつく。
「帰れないって言っただろ」
俺はフォームに再送信した。
「修復不追随。酸素漏出継続中。緊急支援要請」。送信完了のランプが光った。
しかし、本社が地球にある以上、すぐに誰かが飛んでくることはない。シャトルだって最短で丸一日かかる。
俺たちは顔を見合わせた。
そのとき、施設内の照明が一段落ちた。非常用モードに切り替わり、床付近の誘導灯だけが薄く光った。全体がうっすらと暗くなり、タンクの中の臓器たちだけが、内部のLEDで白く照らされて浮き上がった。
管理AIのアナウンスが、無機質に流れた。
《施設内の酸素残量および電力が規定値を下回りました。 これより、資産保全プロトコルへ移行します。 全リソースを最優先資産の維持に充当します》
「資産保全プロトコル?」
蒼柴が慌てて端末を叩く。
「何それ、聞いてない」
俺も聞いていなかった。研修のマニュアルには載っていなかった。「ざっくり覚えておいてください」の中に、これは含まれていなかった。
低い駆動音が連続して響いた。
振り返ると、居住区画とのドアに隔壁が下りていた。非常用の鉄製の壁が、静かに、確実に、閉じた。
蒼柴が間の抜けた声を漏らす。
「え」
俺はドアに走った。レバーを引いたが、動かなかった。端末に認証ダイアログが表示されていた。「管理者コード入力」。十二桁の数字。
俺たちには、そのコードがない。末端のアルバイトに、管理者コードは付与されていない。
「……ちょっと待って」
蒼柴の声がかすかに震えていた。
「これ、閉じ込められた?」
俺は冷たい金属のドアから手を離し、事実だけを告げる。
「閉じ込められた」
横谷がゆっくりと立ち上がり、ドアを一度だけノックした。それから天井のスピーカーを仰ぎ見る。
「AIさん、俺たちはどこへ行けばいい?」
《培養区画の環境は正常に維持されます。 居住区画への隔壁は、資産保全プロトコルの一環として封鎖しております。 現在、すべての電力および酸素供給は、バイオ臓器タンクの維持に優先配分されています》
横谷はパウチの吸い口を弄りながら、さらに問い詰める。
「俺たちは?」
《非登録資産については、プロトコルの対象外となります》
冷ややかな沈黙が落ちた。
「非登録資産」
俺はその冷徹な単語を口の中で転がしてみた。俺たち人間は、施設の「資産リスト」に載っていない。だから、「守るべきもの」のカテゴリに含まれていない。
AIは間違っていない。AIは合理的だった。
施設の電力と酸素は限られている。修復が間に合わないなら、どこかを捨てるしかない。捨てる対象は、価値の低いものから。
タンクの中の臓器が一個七億円で、俺たちが時給二千円のアルバイトなら――計算は単純だった。
AIが計算を間違えたのではなく、現実の価値体系が正確にここに反映されていた。
***
培養区画の気温は、ゆっくりと下がっていた。体感で気づくよりも先に、端末の温度表示が教えてくれた。十五度。十三度。十一度。
酸素濃度も、少しずつ下がっている。今はまだ十九パーセントだが、漏出が続いていれば時間の問題だった。
蒼柴が端末を操作し、隔壁の手動解除を試みた。何度もパスワードを入力した。でたらめな数字を入れ続けたが、警告音とともに画面が暗転する。
「……ロックアウトされました」
蒼柴の報告は、拍子抜けするほど静かだった。もっと泣き喚くかと思っていた俺は、少しだけ肩透かしを食らう。
「落ち着いてるじゃん」
俺が指摘すると、蒼柴は力なく首を振った。
「いや、落ち着いてるわけじゃないですけど……なんか、諦めがつくんですよね。自分の命の値段を知ってしまったら」
それは、妙に納得のいく言い方だった。人は自分の価値が低いと知った途端、居直ることがある。期待値がゼロになれば、失望もない。
横谷はすでに肝臓タンクの前に戻っていた。パウチを片手に、あぐらをかくような姿勢で宙に浮き、タンクを眺めていた。タンクの中の肝臓は、何も知らないように、相変わらず完璧な形で浮いていた。
「七億」
横谷は呪文のように繰り返した。
「俺、法学部に六年いて、弁護士になれたとして、生涯賃金が三億くらいだとするじゃん。で、今の状態の俺を全部ばらして臓器売っても二千万いかない。どこで計算を間違えたんだろうな」
俺は皮肉を込めて鼻で笑う。
「生まれた時点で間違えてないよ。俺たちは最初から、この価値体系の外にいた」
横谷は苦笑して肩をすくめた。
「哲学っぽいこと言うなよ」
「文学部だから」
気温が七度になった。息が白くなる。俺は上着を二枚重ねたが、焼け石に水だった。手足の先が冷たくなっていく。無重力なので床に座ることもできず、俺たちは壁の手すりに摑まって体を固定していた。
蒼柴の手首に添えられた指先が、微かに震えていた。
「……俺の心臓、乱れてきました。不整脈っぽい感じ」
「そうなんだ」
俺は相槌を打つ。他人の不整脈を心配できるほどの余裕は、すでに俺の肺にも残っていなかった。
「でも」
蒼柴は視線をタンクに移し、自嘲気味に口角を上げた。笑うような話じゃないはずなのに、彼は本当に、少しだけ笑っていた。
「あっちの十億円の心臓は、今も完璧に動いてる。医学の敗北ですね。俺の本物の心臓より、あの人工のやつの方が長く動く」
横谷が宙を漂いながら異論を挟む。
「医学の勝利だろ、それ。技術的には大したもんだ」
蒼柴は不満げに眉をひそめた。
「俺の命が終わるのに技術を称賛できないですよ」
「まあそれはそうだな」
横谷はあっさりと引き下がった。
***
酸素濃度が十五パーセントを下回ったあたりから、頭が重くなってきた。思考が遅くなる感覚がある。正確に言うと、思考が遅くなっているというより、思考する必要を感じなくなってくる感じだ。焦りが薄まる。すべてがどこか遠くなる。
俺は窓の外を見た。
宇宙だった。当然だが、宇宙だった。暗くて、広くて、無音だった。地球が見えた。青と白の球体が、窓の端にかかっていた。きれいだと思った。こういう状況でなければ、もっと素直にきれいと思えたかもしれない。
真空が、窓一枚の向こうにある。俺たちが息絶えても、この部屋は密封されたまま、温度が下がり続ける。低温と真空に近い環境は、有機物の腐敗を防ぐ。俺たちの死体は、長期間、ほとんどそのままの状態で保存されるだろう。
俺は窓枠に手をつき、凍りつきそうな声帯を震わせる。
「俺たちは全員、この立派な臓器たちのための、ちょっと見栄えの悪いおまけの標本になるわけだ」
自分でも驚くほど、声は平坦で落ち着いていた。
それを聞いた横谷が、声を上げて笑った。無理をした笑いではなく、心底おかしそうな笑いだった。
「ひでえ言い方だけど、合ってる」
横谷は賛同し、最後の一口をパウチから吸い上げた。
「七億円の肝臓のそばで、時給二千円の標本か。展示されるとしたら、ちょっとカオスな博物館だな」
蒼柴が弱々しい声でツッコミを入れる。
「誰が見に来るんですかそれ」
横谷は我が子に語りかけるような、ひどく優しい顔つきになった。
「お前は助かって良かったな」
肝臓に顔を近づけ、静かに言葉を紡ぐ。
「せいぜい長生きしろよ。どこかの金持ちの体に入って、脂っこいもの食わされて、また痛めつけられるんだろうけど。それでも、俺のよりずっと長く動くと思う。ちゃんと機能しろ。頼むよ」
タンクは何も答えなかった。当然だが、何も答えなかった。
肝臓は、ただそこにあった。ピンクの液体の中で、完璧な形を保ったまま、静かに浮いていた。
***
蒼柴が最初に眠った。壁の手すりに摑まったまま、少しずつ目が閉じていった。苦しそうな様子はなかった。ただ眠るように、静かに力が抜けた。無重力なので、彼の体はその場に留まったまま、ゆっくりと丸まった。脈を測っていた右手が、ゆっくりと離れた。
横谷は最後まで肝臓タンクの前にいた。空になったパウチを膝に抱え、目を開けたまま、タンクを見ていた。何か口を動かしていたが、声が小さくて聞き取れなかった。
多分、臓器にまだ何か話しかけていたのだと思う。俺はあえて聞き返さなかった。聞かない方が良かった。
俺は最後まで窓を見ていた。
宇宙は変わらなかった。地球は動いていた。青と白の球体がゆっくりと流れていった。代わりに黒が広がった。
星が見えた。
無数の点が、静かに光っていた。あんなに遠くにあるのに、あれだけ明るい。星は本当に莫大なエネルギーを持っている。俺たちとは桁が違う。
俺はぼんやりと考えた。俺の奨学金百三十万円は、まだ誰かに引き継がれるのだろうか。
たしか保証人が親だったから、親に行くのかもしれない。申し訳ないな、と思った。宇宙で死んで奨学金を残していくのは、文学部生として、あまりにも締まりのない最期だった。
でも、どうにも抗えなかった。AIは合理的だった。俺たちの命の値段は、あの臓器たちより安かった。それは事実だった。感情で覆せる事実ではなかった。
頭が重くなった。視界の端が暗くなった。
タンクの中の臓器たちが、白い光の中で浮いていた。肝臓。心臓。肺。みんな、元気そうだった。完璧だった。
俺たちが息絶えた後も、彼らはしばらくここで浮き続けて、やがてシャトルで回収されて、地球のどこかの手術室に運ばれて、誰かの体の中に入るだろう。
それはそれで、悪くない話だと思った。
なんにせよ、誰かの役に立つのだから。
目が閉じた。
苦しくはなかった。
***
培養区画は静かだった。三人の体が、無重力の空間に、それぞれ静止していた。腐敗しない。低温と低圧が、それを防いだ。完璧に保存された。
タンクの中の臓器たちは、今日も完璧に動いていた。ポンプが回り、人工血液が循環し、心臓が脈打ち、肺が膨らんだ。
十七時間後、本社からのシャトルが到着した。緊急対応チームが培養区画に入り、状況を確認した。タンクは全て正常。臓器に損傷なし。回収作業は予定通り実施できる見込み。
管理AIのアナウンスが、静まり返った培養区画に流れた。
《資産の安全が確保されました》




