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共犯

アスファルトの染みになれたら、どれだけ楽だろうか。

放課後のチャイムが、僕、夏目湊月なつめみつきの存在を世界から猶予なく解き放つ合図だった。喧騒が教室を満たす。昨日見たテレビの話、週末の予定、他愛もない悪口。それら全てが、分厚いガラスを隔てた向こう側で起きている出来事のように、僕の耳にはノイズ混じりにしか届かない。

息を、殺す。

気配を、消す。

僕は壁だ。椅子だ。教室の隅に溜まった埃だ。誰にも認識されず、誰の記憶にも残らず、ただそこに「在る」だけの物体。それが、僕がこの教室で平穏を保つための唯一の方法だった。

数人のクラスメイトの視線が、一瞬こちらを向いた気がして、心臓が氷の手に掴まれたように縮み上がる。慌てて教科書に視線を落とす。違う、自意識過剰だ。誰も僕のことなんて見ていない。僕がここにいることすら、気づいていない。それでいい。それがいいんだ。

喧騒が廊下へと流れ出し、波が引くように教室が静かになるのを待って、僕はゆっくりと立ち上がった。誰とも目が合わないように、誰の進路も邪魔しないように、壁際を幽霊のようにすり抜けて昇降口へと向かう。外履きに履き替える、ほんの数十秒ですら、心臓は嫌な音を立てていた。

校門を出て、駅へと向かう学生たちの楽しげな群れを避けるように、僕はいつもの裏路地へと足を踏み入れた。

日が差さない、建物の隙間。ひび割れたコンクリートと、カビの匂い。ここだけが、僕の心を凪いだ状態に保ってくれる安全地帯だった。誰の視線も、声も、期待も、ここにはない。

雨上がりのアスファルトが、鈍い夕焼けの色を映している。水たまりを避けながら歩いていると、ふと、視界の隅に何かが引っかかった。

ゴミ集積場の脇。打ち捨てられた雑誌や割れた植木鉢が転がるその場所に、一つだけ、明らかに異質なものが落ちていた。

(……石?)

手のひらに収まるくらいの、角の取れた黒い石。

濡れたアスファルトの上で、それは奇妙なほど乾いていて、まるで内側から鈍い光を放っているように見えた。周りのゴミや瓦礫とは全く違う、確固とした存在感。

そして何より、僕の目を釘付けにしたのは、その石の表面に刻まれた文字だった。

傷ではない。誰かが彫った、あまりにも力強い一文字。

『覇』

その文字を見た瞬間、時間が止まった。

天下を獲る、覇道を征く。僕の人生とは最も無縁の、暴力的なまでの意志が、そのたった一文字から溢れ出している。なんで、こんなものが、こんな場所に?

他の誰にも、これが見えていないのだろうか。僕の目にだけ映る、幻覚なのだろうか。

わからない。でも、足が勝手に動いていた。

まるで、見えざる手に引かれるように。水たまりを踏む音も、自分の呼吸の音も聞こえない。ただ、あの石だけが、世界の中心になったみたいに僕を呼びつけていた。

震える指先が、ゆっくりと伸びていく。

やめろ、と頭のどこかで警鐘が鳴る。関わるな。お前には関係ない。日常を乱すな。

でも、遅かった。

指先が、その乾いた石の表面に、触れた。

「―――ッ!!!」

瞬間。

脳を直接、灼熱の鉄の棒でかき混ぜられたような激痛が走った。

視界が真っ赤に染まり、知らない記憶の奔流がなだれ込んでくる。

―――拳に伝わる、骨の砕ける感触。

―――タバコの煙と、酒の匂いが充満する部屋。

―――分厚い札束の重みと、それを数える女の笑い声。

―――信頼していた男の顔。銃口。裏切りの色を浮かべた、その目。

――-腹を抉る、轟音と衝撃。

「う、あ……ぁ……っ」

僕はその場に崩れ落ち、アスファルトに手をついた。なんだ、これ、なんだ、いまのは。僕じゃない、誰かの人生。誰かの、最期。

息ができない。頭が割れるように痛い。

混乱する意識の、その中心に。

直接、声が響き渡った。

『―――おい。聞こえるか、小僧』

幻聴じゃない。

鼓膜を震わせる音じゃない。脳の、魂の、一番深い場所に直接ねじ込まれるような、ドスの効いた男の声。

「……だ、れ……?」

かろうじて、喉から絞り出す。

声は、まるで愉快そうに、鼻で笑った。

『ケッ、なんだこのひょろっちい体は。まあいい』

その声は、僕の知らない誰かのものであるはずなのに、まるで僕自身の口から発せられているような、奇妙な臨場感があった。

『今日からここは、俺様の城だ。文句は言わせねぇぞ』

僕の空っぽだった器に、暴力的なまでの生命力を持った何かが、勝手に玉座を築いて、ふんぞり返る。

これが、僕の地獄の始まりだったのか。

それとも、地獄のような日常の、終わりの始まりだったのか。

雨上がりの裏路地で、僕はただ、自分の身に起きたことの意味もわからずに、震えていることしかできなかった。

『聞こえるか、小僧』

脳に響く声は、幻聴ではなかった。

それは確固たる意志を持った、鉄錆びの匂いがするような、暴力的な声だった。僕が立ち上がろうとすると、声は続けた。

『ケッ、なんだこのひょろっちい体は。まあいい。今日からここは、俺様の城だ。文句は言わせねぇぞ』

「……っ、うるさい!」

思わず叫んでいた。裏路地に、自分の弱々しい声が響いて虚しく消える。誰に言っているんだ? ここには僕一人しかいないのに。

『ああ? 口答えか、小僧。いい度胸じゃねぇか』

声は面白そうに喉を鳴らす。ダメだ、おかしい。僕の頭は、完全におかしくなってしまったんだ。早く帰らないと。家に帰って、薬を飲んで、布団に潜り込めば、きっとこの声も消えているはずだ。

僕は震える足で立ち上がり、拾ってしまった黒い石をポケットにねじ込むと、逃げるように路地を走り出した。

『おい、どこへ行く!』

「家に帰るんだ! あなたこそ誰なんだよ! 僕の頭から出ていけ!」

『家? てめぇの住処か。ちょうどいい、案内しろ』

「嫌だ!」

一人で叫びながら走る姿は、きっと誰かが見たら狂人そのものだろう。幸い、人通りはなかった。心臓が張り裂けそうだ。この声は、僕が必死で守ってきた日常を、内側から破壊しようとしている。

息を切らして、アパートの前にたどり着く。二階の角部屋。僕と、母さんの、二人だけの城。階段を駆け上がると、ちょうどドアが開き、心配そうな顔をした母さんが立っていた。

「湊月…? 帰り、遅かったじゃない。それに、そんなに慌ててどうしたの?」

「……なんでも、ない。ちょっと、急いでただけ」

嘘だ。顔が引きつっているのが自分でもわかる。母さんの前では、普通でいなければ。僕が普通でいることだけが、母さんを安心させる唯一の方法なのだから。

『フン。こいつがてめぇの母親か』

(黙れ!)

心の中で叫ぶ。声は僕の思考を読んでいるかのように、せせら笑った。

母さんは、僕の顔を覗き込み、その眉を悲しそうに下げた。

「また、何かあったの…? ごめんね、湊月。お母さんが、もっとしっかりしていれば…」

「違う! 母さんのせいじゃない! 本当に、何でもないから!」

僕は母さんの言葉を遮るように言って、逃げるように自分の部屋へ向かった。背中に突き刺さる、母さんの心配そうな視線が痛い。

部屋に飛び込み、乱暴にドアを閉めて鍵をかける。

荒い息を整えながら、学習机の鏡を睨みつけた。そこに映っているのは、青白い顔をして、怯えきった目をした、情けない僕の顔。いつも通りの、空っぽの僕だ。

なのに。

『俺の名は九頭竜猛くずりゅうたけるだ』

声が、鏡の向こうから聞こえた気がした。いや、違う。声は、僕の頭の中にいる。

「くずりゅう、たける…?」

『おう。てめぇがさっき拾った、あの『覇』の石。ありゃあ、俺様の魂だ』

魂。その非現実的な言葉に、眩暈がした。

「冗談じゃない…! 幽霊かなにか知らないけど、僕にとり憑こうなんて…! 出ていけ! 僕の頭から今すぐ消えろ!」

『やかましい。そう喚くな。この体はもう、てめぇだけのモンじゃねぇんだよ』

猛と名乗る魂は、全く悪びれずに言い放った。信じられるわけがない。でも、このあまりに明瞭な声は、どうやったって幻聴とは思えなかった。

『しかし、ひでぇな、小僧。てめぇの心ん中は。空っぽじゃねぇか。いや、違うな。「死にたい」って願いでギチギチに詰まってやがる。なるほど、だから俺様の石が見えたってワケか』

心を、読まれている。僕の一番深くて、暗い部分を、土足で踏み荒らされている。

「うるさい、うるさい、うるさい!」

『死にてぇんだろ? ちょうどいいじゃねぇか。どうせ捨てちまうような命なら、この俺様が有効活用してやるよ』

「あんたなんかに、使わせてたまるか…! これは、僕の体だ!」

僕がそう叫んだ、瞬間だった。

『! ……おい小僧』

猛の声のトーンが、初めて変わった。冗談や嘲りじゃない。研ぎ澄まされた刃物のような、鋭い緊張感が迸る。

『伏せろ! 来るぞ!』

「え……?」

意味が分からなかった。何が来るって言うんだ?

その疑問は、窓ガラスの割れる轟音によって、粉々に砕け散った。

ガッシャァァァン!!!

凄まじい衝撃音と共に、窓が外側から破られ、小柄な人影が部屋の中へと飛び込んできた。

逆光で顔は見えない。でも、その手には、不気味に赤黒く光る石が握られているのが見えた。僕がポケットにしまった石と、よく似た。

侵入者は、割れたガラスの破片を踏みしめながら、ゆっくりと僕を見据えた。

「―――見つけたぜェ。幸運な坊主。その『覇』の石は、俺がいただく」

ひゅっ、と喉が鳴る。恐怖で体が動かない。手足が、まるでコンクリートで固められたように、言うことを聞かない。

死ぬ。

そう思った。僕がずっと望んでいたはずの結末。

なのに、今、僕の全身を支配しているのは、死への憧れなんかじゃなかった。

圧倒的な、生の恐怖だった。

『チッ、もう嗅ぎつけやがったか。面倒な』

猛の声が、忌々しげに舌打ちする。

『おい、小僧! 聞け!』

脳内に、雷鳴のように声が轟く。

『てめぇが死にたいかどうかは知ったことじゃねぇ! だが、俺はまだ死ぬわけにはいかねぇんだよ! 俺にはやらなきゃならねぇ、復讐がある!』

侵入者が、愉悦に歪んだ笑みを浮かべて、一歩、こちらへ踏み出す。

『死にたくなきゃ、俺に体を貸せ!』

猛が叫ぶ。

侵入者が、僕に向かって飛びかかってきた。

全てが、スローモーションに見えた。

時間が引き伸ばされる。

侵入者の、愉悦に歪んだ顔が迫る。握りしめられた赤黒い石が、禍々しい光を放つ。

死ぬ。

恐怖で凍り付いた思考の果てに、その一言だけが浮かんだ。

僕が望んでいたはずの、死。それが、牙を剥いてすぐそこに。

―――嫌だ。

心の底から、初めてそう思った。こんな風に、得体のしれない暴力に踏み潰されて終わるなんて、嫌だ。

その瞬間だった。

『―――いい覚悟だ、小僧』

脳内で猛の声が響くと同時に、僕の意識は急速に後退した。

まるで、映画館の客席に無理やり引きずり込まれるように。目の前の光景はスクリーンとなり、僕は自分の体という乗り物の、無力な乗客になった。

僕の体が、勝手に動く。

飛びかかってきた侵入者の腕を、僕の左手が、ありえないほど正確に叩き落とす。

空いた右手で、相手の顔面を殴りつけるのではなく、その顎を鷲掴みにして動きを封じた。

「―――ケッ、素人が」

僕の喉から、僕のものではない、低く凄みのある声が漏れた。

僕の口角が、獰猛な笑みを形作る。

鏡を見なくてもわかる。今、僕の顔をしているのは、九頭竜猛だ。

侵入者は驚愕に目を見開いている。まさか、あの怯えきっていたガキが、一瞬でこれほど変貌するとは思ってもいなかったのだろう。

「な、なんだテメェ…!?」

「あァ? てめぇに名乗る名前はねぇよ」

猛はそう言い放つと、掴んだ顎をそのまま壁に叩きつけた。ゴッ、と鈍い音がして、侵入者が呻く。だが、相手もただ者ではなかった。すぐさま体勢を立て直し、手に持った石を強く握りしめる。

「ふざけやがって…! 俺の『ジン』の石の力、喰らいやがれ!」

その言葉と共に、侵入者の姿がブレた。速い!

常人ではない、異常な速度で部屋の中を跳ね回り、死角から鋭い蹴りを放ってくる。本棚が蹴り砕かれ、教科書が宙を舞った。

だが、猛は冷静だった。

僕の体は、猛の長年の戦闘経験に導かれるように、最小限の動きで致命傷を避けていく。

「速えだけじゃ、俺には当たらねぇんだよ!」

猛が吼える。

瞬間、僕の体から、目に見えない何かが迸った。空気そのものが、ビリビリと震えるような感覚。これが、『覇』の力。圧倒的な威圧感、覇気。

侵入者の動きが、コンマ数秒、恐怖で硬直する。

その、コンマ数秒が、勝負を決めた。

猛は硬直の隙を逃さず、一直線に懐へ踏み込む。蹴りでも、派手なパンチでもない。ただ、最短距離を突き進む、喧嘩師の動き。

相手が反応するより速く、僕の右の拳が、その鳩尾にめり込んでいた。

「ぐ……ぉ……っ」

侵入者はカエルのような呻き声を上げ、その場に崩れ落ちる。手から、赤黒い『迅』の石が滑り落ちて、床を転がった。

猛は倒れた相手を一瞥もせず、その石を拾い上げる。

そして、僕の意識に向かって、語りかけるように言った。

『よく見とけ、小僧。これが、このクソみたいなゲームの終わらせ方だ』

猛は、僕の手の中で、その石を握りつぶした。

パリン、と飴玉が砕けるような、あまりに軽い音が響く。

砕けた石の破片から、黒い霧のようなものが立ち上り、それは一瞬で掻き消えた。

その瞬間だった。

さっきまで呻いていた侵入者の体が、ビクン、と一度だけ大きく痙攣した。そして、まるで全身の力が抜けてしまったかのように、ぐったりと床に崩れ落ちる。

ただ気を失っただけじゃない。

僕の目には、まるで魂そのものが抜き取られて、命の糸が切れた人形のように見えた。

『……なるほどな』

猛が、何かを理解したように、静かに呟いた。

主導権が、僕に戻ってくる。

途端に、全身を凄まじい疲労感と痛みが襲った。

「はっ…はぁ…っ…」

僕はその場にへたり込んだ。

目の前には、めちゃくちゃに破壊された自分の部屋。割れた窓から吹き込む夜風が、やけに冷たい。そして、床にはピクリとも動かない、見知らぬ少年が転がっている。

(…今の、なに…? あの人、どうなったの…?)

僕の疑問に、猛は答えなかった。ただ、冷たい事実だけを突きつける。

『…どうやら、このゲーム。思ったより、逃げ道はねぇらしいぜ』

その言葉の意味を理解するより早く、階下から母さんの声が聞こえた。

「湊月! 湊月! 今の大きな音は何!? 大丈夫なの!?」

ドンドン、と激しくドアが叩かれる。

まずい。母さんが、これを見たら。

僕が、誰かを傷つけて、倒れているこの光景を。

いや、違う。

傷つけた、だけじゃない。

もしかしたら、僕は―――。

最悪の想像が頭をよぎり、全身の血の気が引いていく。

僕は、完全に袋のネズミだった。

「湊月! 湊月! 返事をしてよ!!」

母さんの悲鳴のような声と、ドアを激しく叩く音。

目の前には、命の光が消えたように動かない侵入者。

最悪の想像が、僕の思考を麻痺させる。

パニックで凍り付いた僕の体を、猛が強制的に乗っ取った。

意識だけが、冷静な猛の行動を客席から眺めている。

「うるせぇな…!」

猛は悪態をつくと、まずピクリとも動かない少年を、壊れたベッドの下の隙間に無造作に蹴り込んだ。シーツを垂らして完全に隠す。次に、割れた窓ガラスの破片を手早く部屋の隅に掃き寄せ、その上に倒れた本棚を被せてカモフラージュした。まるで手慣れた犯罪者のように、淀みない動きだった。

主導権が僕に戻される。猛が脳内で命じた。

『おい、おふくろを黙らせろ』

「だ、大丈夫! 大丈夫だから、母さん!」

僕は震える声で、ドアに向かって叫んだ。

「ちょっと、本棚が倒れただけだから! 散らかっちゃったから、今片付けてる!」

ドアを叩く音が、一瞬止む。

「…本当? 怪我はないの?」

「うん、大丈夫。ごめん、心配かけて」

やがて母さんの気配が遠ざかっていくのを感じながら、僕はその場にへたり込んだ。

母さんに嘘をついた。そして、この部屋には、僕が殺してしまったかもしれない人間が隠されている。

(本当に…死んでるの…?)

僕の疑問を読み取ったように、猛は冷たく言い放った。

『確かめてみろ。てめぇ自身の目でな』

猛に操られるように、僕はベッドの下に隠された少年の体に、おそるおそる手を伸ばした。

そして、その首筋に指を触れさせた。

冷たい。

静かだ。

何の生命の響きも、そこにはなかった。

「あ……ぁ……」

声にならない声が漏れる。指先から、急速に血の気が引いていく。

死んでる。

この人は。僕のせいで。僕の体で、猛が、殺した。

『どうやら、魂は道連れらしい。石が砕け散る時、器になった人間の魂も一緒に持っていく。…だが、行き先は“無”じゃねぇ。あの世だ。自殺じゃなく、戦死として、な』

猛の言葉が、ひどく遠くに聞こえる。

頭が理解を拒絶する。

『笑えねぇ話だ。俺たちみてぇな亡者も、てめぇらみてぇな死にたがりも、まとめてあの世に送っちまおうって魂胆らしい。どこかの神様だか悪魔だかが考えそうな、効率のいい魂のリサイクルだぜ』

つまり、僕がもし負けていたら。

あの『覇』の石を砕かれていたら、僕も今頃、この人のように冷たくなって、ここに転がっていたということ。

「……そっか」

不思議と、恐怖はなかった。

ストン、と何かが胸の奥に落ちてきた。

「じゃあ、負ければ、死ねるんだ」

母さんの顔が浮かぶ。でも、それよりも強く、ようやく訪れる「終わり」の安堵感が、僕の心を支配しようとしていた。

『―――おい、小僧』

猛の声が、地を這うように低くなる。

『勘違いするんじゃねぇぞ。てめぇが死にてぇかどうかは、俺の知ったことじゃねぇ。てめぇの体は、俺が目的を果たすまで使う、俺様の城だ。勝手に城を明け渡すような真似は、この俺が許さねぇ』

猛の強い意志が、僕の心を縛り付ける。

僕は、初めて自分の手で人を殺めた(殺させてしまった)という事実の重みに、ただ打ちのめされていた。指先が、まだ冷たい。

(…どうするの、この人)

僕が心の中で問うと、猛は忌々しげに舌打ちした。

『まず、こいつが何者で、どこから来たかを探る。手がかりが何もねぇままじゃ、動きようがねぇからな』

そう言うと、猛は僕の体を乗っ取り、冷たくなった少年の服のポケットに、躊躇なく手を入れた。死体の服をまさぐる、という冒涜的な行為。僕の意識は強い嫌悪感で叫び声を上げているのに、猛は意にも介さず、淡々と作業を進めていく。

財布、スマホ、そして、くしゃくしゃに丸められた一枚のメモ用紙。

猛はメモを丁寧に広げた。そこには、走り書きのような文字が並んでいた。

『今夜24時 新宿西口公園 情報屋と接触』

『新しい“器”の情報アリ』

『“覇”の石=高値? リーダーに報告』

「……!」

新宿。情報屋。そして、僕が持つ『覇』の石。

間違いない。こいつは、僕を狙ってここに来たんだ。そして、その裏には「リーダー」と呼ばれる存在や、「情報屋」がいる。

『ビンゴだな。どうやら、俺たちみてぇに何も知らねぇマヌケばかりじゃねぇらしい』

猛はメモを僕のポケットにしまい込むと、冷徹に言い放った。

『決まりだ。こいつが会うはずだった情報屋に、俺たちが会いに行く』

次に何をすべきかが、はっきりと示された。

しかし、その前に、片付けなければならないものが目の前にある。

『さて、次はこいつの処分だ。こんなもんが部屋にあったら、お前の母親がひっくり返るぞ』

「す、捨てるって…どこに…」

『知るか。とりあえず、外に運び出す。夜が明ける前に、人目につかねぇどこかにな』

猛に体を乗っ取られ、僕は自分の意志とは関係なく立ち上がった。猛は手慣れた様子で、ベッドからシーツを剥ぎ取ると、それで手早く死体を包み始めた。まるで、大きなゴミでも扱うように。

「やめ…」

やめろ、と言いかけた僕の言葉は、声にならなかった。

これは、僕が生き残るために、必要なことなのだから。

猛は死体を肩に担ぎ上げる。ずしり、と重い。これが、命の重さ。

僕の体なのに、僕が感じている以上の筋力で、猛はそれを軽々と持ち上げた。

『おい、小僧。表に出るぞ。おふくろに気づかれんじゃねぇぞ』

主導権が僕に戻される。

僕は息を殺し、そろり、と部屋のドアを開けた。廊下は暗く、静まり返っている。母さんは、もう寝室に戻ったようだ。

心臓を掴まれるような緊張感の中、階段を一段、また一段と降りていく。死体を担いでいるせいで、ギシリ、と床が軋む音が、やけに大きく聞こえた。

アパートの外に出て、冷たい夜風に当たった瞬間、僕は自分がどれだけ汗をかいていたかに気づいた。猛は当たり前のように、夜の闇へと歩き出す。どこへ向かっているのか、僕にはわからない。ただ、この悍ましい荷物を、一刻も早く手放したかった。

しばらく歩くと、開発予定地なのか、フェンスで囲まれた広い空き地が見えてきた。雑草が生い茂り、古い重機が打ち捨てられている。

『…ここならいいだろ』

猛はそう言うと、フェンスの破れ目から空き地に入り、一番奥の草むらまで進むと、担いでいた死体を雑に放り投げた。

ドサッ、と鈍い音が響く。

もう、それは「人」には見えなかった。

これで、終わり。

そう思ったのに、足がその場に縫い付けられたように動かなかった。

(本当に、これでよかったのかな…)

僕が生きるために、この人は死んだ。

僕が日常に戻るために、この人の日常は永遠に奪われた。

その事実が、鉛のように重く、僕の心にのしかかる。

そんな僕の葛藤を、猛は一刀両断にした。

『感傷に浸ってる暇はねぇぞ、小僧。忘れんな。これは殺し合いだ。殺るか、殺られるか。それしかねぇ』

『それに、最初の情報を手に入れた。俺たちには、次に行くべき場所がある』

次に行くべき場所。

猛の言葉に、僕はハッとした。そうだ、まだ何も終わっていない。

「…新宿」

『おうよ。メモによれば、接触時間は今夜24時。もうあまり時間がねぇ。夜が明ければ、こいつの死体が見つかって騒ぎになるかもしれねぇしな。その前に、この街からずらかる』

新宿。

眠らない街。

僕が今まで、縁もゆかりもなかった場所。

そこで、僕らは、この地獄のゲームに関する、さらなる情報を手に入れるのだ。

僕は、草むらに横たわる亡骸に一度だけ黙祷すると、決意を固めて、踵を返した。

だけど、僕らの目の前には、どうしようもない現実が横たわっていた。

『よし、行くぞ小僧!急げ!』

「待って…。無理だよ」

『あァ?』

猛の苛立った声が脳内に響く。僕は震える声で、絶望的な事実を告げた。

「もう、とっくに終電はない時間だ。それに、メモにあった24時は、もう2時間以上前に過ぎてる…」

ここは羽村。東京の西の端だ。今から新宿に向かう手段なんて、僕にあるはずもなかった。

猛が、忌々しげに舌打ちする音が聞こえる。

『チッ…そうか、もうそんな時間か。俺のいた頃とは勝手が違うな…』

どうするんだ。途方に暮れる僕に、猛は悪党然とした笑みを浮かべた。

『何言ってやがる。手段なら、あるだろうが』

「え…?」

『思い出せ。さっきのガキの懐だ。空っぽだったか?』

僕はハッとして、ポケットを探った。そこには、くしゃくしゃのメモと一緒に、分厚い財布が入っていた。さっき、猛が死体から抜き取ったものだ。中には数枚の福沢諭吉が折りたたまれている。

『使えるもんは何でも使う。死んだ人間のモンだろうが、関係ねぇ。それが、この地獄で生き残るための、二つ目のルールだ』

僕は、罪悪感で指先が痺れるのを感じながらも、その財布を強く握りしめた。そうだ。もう、僕は引き返せない場所にいる。

大通りまで出て、しばらく待っていると、空車のタクシーが遠くから走ってくるのが見えた。僕は、人生で初めて、一人でタクシーを止めた。

「…新宿駅、西口まで、お願いします」

対人恐怖症の僕にとって、運転手と二人きりの密室は、拷問に等しい空間だった。けれど、今はそれ以上に、自分が犯した罪の重みが、喉を締め付けてくる。

タクシーは静かに走り出す。窓の外を、見慣れた郊外の景色が流れていく。

運転手は、ルームミラーで僕をちらりと見た。

「お若いのに、こんな時間まで大変だねぇ。お仕事かい?」

「あ…えっと、はい。ちょっと、急用で…」

『ヘラヘラすんな、小僧。堂々としてろ。挙動不審が一番怪しまれるんだ』

猛の声に叱咤され、僕は背筋を伸ばして、固く口を閉ざした。

タクシーは高速道路に乗り、街の灯りが次第に密度を増していく。僕が住んでいた静かな世界が遠ざかり、巨大な光の渦へと吸い込まれていくようだった。

「お客さん、着いたよ」

運転手の声で、僕は我に返った。

目の前には、テレビでしか見たことのない、巨大なビル群がそびえ立っている。午前3時近いというのに、街は煌々と輝き、まるで昼間のような明るさだった。

料金を払い、タクシーを降りる。

新宿西口公園。高層ビルの谷間に、その場所はあった。

ひんやりとした夜気、むせ返るような排気ガスの匂い、どこからか聞こえる酔っ払いの怒鳴り声。公園のベンチには、段ボールを敷いて眠る人たちや、所在なげにスマホの光を見つめる若者たちが点在している。

僕が今まで生きてきた世界とは、何もかもが違っていた。

『ケッ、相変わらず汚ねぇ街だが、落ち着くぜ…』

猛が、どこか懐かしそうに呟く。

僕は、どこから探せばいいのか分からず、ただ立ち尽くしていた。約束の時間は、とっくに過ぎている。情報屋なんてもういないかもしれない。

『焦るな、小僧。こういう商売の奴らは、そう簡単には場所を変えねぇ。たとえ本人はいなくても、何かしらの痕跡か、あるいは…』

猛がそこまで言った時だった。

「―――あんた、見ない顔だねぇ」

背後から、不意に声をかけられた。

振り返ると、そこに立っていたのは、フードを目深にかぶった、性別の分からない人物だった。痩せていて、僕より少し背が高いくらい。その人物は、僕の顔ではなく、僕のポケットあたりを、じっとりと舐め回すような目で見ている。

「こんな時間に、こんな場所でウロついてるってことは…何かお探しもんかい?」

その声は、楽しんでいるようにも、値踏みしているようにも聞こえた。

僕が何も答えられずにいると、その人物はフードの奥で、三日月のように口を歪めた。

「ひょっとして、あんたも…“こっち側”の人間だったりする?」

その言葉が、僕と僕の日常に、決定的な断絶を告げている。

猛が、脳内で低く唸った。

『…こいつ、俺たちのタマが見えてやがる』

猛の言葉が、僕の思考を凍らせた。

目の前のフードの人物は、敵だ。僕らを殺しに来た、二人目の刺客。そう思った瞬間、恐怖で足が縫い付けられる。逃げないと。でも、動かない。

フードの人物は、僕の沈黙を肯定と受け取ったのか、楽しそうに続けた。

「図星、かな? 見たところ、アンタ、まだゲームに参加したての“初心者”って感じだね。その歳でこんな世界に足を踏み入れるなんて…よっぽど死にたいのか、それとも、よっぽど生きたいのか。どっちだい?」

答えられない。声が出ない。

対人恐怖症の僕にとって、知らない人間と会話するだけでも地獄なのに、相手は僕の命を狙っているかもしれない殺し合いの参加者なのだ。

『おい、小僧! いつまで固まってやがる! 何か言え!』

猛が脳内で怒鳴りつける。

(む、無理だ…! 声が…!)

『無理じゃねぇ! “情報屋を探してる”、それだけ言え! 早くしろ!』

僕は、猛に背中を蹴り飛ばされるような感覚で、かろうじて唇を開いた。

「……じょ、情報屋を…探してる…」

蚊の鳴くような、情けない声だった。

フードの人物は、キキ、と奇妙な声で笑った。

「へぇ、『情報屋』ね。なるほど、あのメモの小僧を食ったのは、アンタか」

「え…」

「今夜この辺を嗅ぎ回ってた、『迅』の石を持つ坊やがいたんだよ。情報屋と会う約束があるってね。でも、時間になっても来なかった。代わりに現れたのが、アンタだ」

心臓が、大きく跳ねた。

この人は、僕らが殺した、あの少年の仲間…?

僕の動揺を見透かしたように、フードの人物は一歩近づいてきた。甘ったるい、香水のような匂いがする。

「あの坊や、どこへやったんだい?」

『チッ…カマをかけてきやがったな』

猛が舌打ちする。ここで弱みを見せれば、食い殺される。猛の意志が、僕の体を乗っ取った。

僕の口が、勝手に、獰猛な笑みを形作る。

僕の喉から、僕のものではない、不遜な声が響いた。

「さあな。弱い奴の行き先まで、俺は知らねぇよ」

フードの人物の目が、面白そうに細められた。

さっきまでの怯えきった少年とは全く違う、僕の中から発せられる覇気。その急激な変化に、相手は明らかに興味を惹かれていた。

「…なるほどね。アンタ、面白いもんを飼ってるじゃないか」

フードの人物はそう言うと、すっと緊張を解いた。

「いいだろう。気に入った。案内してやるよ、アタシがね」

「アタシ…?」

その言葉遣いで、僕は相手が女性なのだと初めて知った。

「アタシは情報屋本人じゃない。けど、あの人に会うための、しがない案内役さ。アタシの許可がなきゃ、誰もあの人には会えない。名前は、まあ…好きに呼びなよ」

彼女はそう言うと、くるりと背を向けた。

「ついてきな。ただし、言っておくけど、あの人に会うってことは、もうこのゲームから引き返せなくなるってことだ。それでもいいんだね?」

返事を待たず、彼女は夜の闇へと歩き出す。

その背中を追う以外の選択肢は、僕らには残されていなかった。

僕らは、新宿という巨大な迷宮の、さらに奥深くへと足を踏み入れていく。

もう二度と、元の場所へは戻れない。その確信だけが、やけに鮮明に、僕の胸に突き刺さっていた。

フードの女――アタシ、と自称した彼女は、公園の喧騒を抜けて、ネオンが毒々しく瞬く路地裏へと迷いなく入っていく。僕は、数歩後ろを必死についていった。

ここは、僕がテレビやネットでしか見たことのない世界だった。

ゴミの匂いと甘い香水、そして得体の知れない食べ物の匂いが混じり合った空気が肺を満たす。客引きの男たちのダミ声、けたたましい音楽、男女の嬌声。あらゆる欲望が煮詰められて、濁った川のように路地を流れていた。

すれ違う人々の誰もが、僕のことなど気にも留めない。しかし、その無関心は、学校のそれとは全く違っていた。学校の無関心は、僕という「異物」を無視することで成り立っている。だが、この街の無関心は、誰もが自分以外の全てを「背景」としてしか見ていない、もっと根源的な孤独の色をしていた。

『…おい、小僧。キョロキョロするな。田舎者みてぇだぞ』

(…ここが、あなたのいた世界なの?)

『ケッ、こんなもんは、まだ入り口にすぎねぇよ』

猛は、どこか懐かしむように、そして軽蔑するように言った。

前を歩く女は、一度も振り返らない。まるで、僕らがついてくるのが当たり前だとでも言うように。彼女はその細い体で、人混みを魚のようにすり抜けていく。僕らは、その後にできるわずかな隙間を、必死で追いかけた。

やがて彼女は、一軒の雑居ビルの前で、ぴたりと足を止めた。

カラオケ、居酒屋、怪しげなマッサージ店。けばけばしい看板がひしめき合う、ありふれたビルだ。しかし、彼女が指差したのは、そのどれでもなかった。

ビルの壁と壁の、人が一人やっと通れるくらいの、暗く汚れた隙間。その奥へと続く、錆びついた非常階段。

「ここだよ」

彼女は、フードの奥で笑った。

「情報屋は、光が嫌いなんでね。客も、光を嫌う奴らばかりだ」

彼女はひらりと身を翻し、僕の顔を覗き込んできた。暗闇の中でも、その目が爛々と光っているのがわかる。

「さて、ここから先は有料エリアだ。アンタ、情報料、払えるのかい?」

「え…」

「あの坊やは、金と、自分の持ってた石のかけらを払う約束になってた。アンタはどうする? 金はあるのかい? それとも、アンタの大事な『覇』の石でも、削って払うかい?」

試されている。

僕らがどれほどの覚悟でここに来たのかを。

猛が、再び僕の体を乗っ取る。

僕の口が、その質問を鼻で笑い飛ばした。

「金なら、ある。さっきのガキが持ってた財布ごと、な」

猛は、懐から例の財布を取り出し、無造作に女に放り投げた。彼女はそれを、驚くほどしなやかな動きで掴み取る。

「ほう。なるほど、道理でね」

彼女は財布の中身を確かめると、満足そうに頷いた。

「いいだろう、合格だ。ついてきな。ただし…」

彼女は一度言葉を切り、僕の目をじっと見つめた。

「あの人の前では、下手にその中の“鬼”を出すんじゃないよ。あの人は、そういう力比べには興味がない。むしろ、そういう奴を一番嫌うからね。アンタが“器”として、自分の言葉で話すんだ。…できるかい?」

それは、僕個人に向けられた、初めての問いかけだった。

猛に頼るな。お前自身の意志で、この先へ進め、と。

僕は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

猛が、珍しく何も言わずに、僕の答えを待っている。

「……できる」

僕は、震えを押し殺し、なんとかそう答えた。

女は、満足そうに、もう一度キキ、と笑った。

「よろしい。じゃあ、行こうか。ネオンの蟻地獄の、一番底へ」

彼女はそう言うと、光の届かない、ビルの隙間の暗闇へと、その身を滑り込ませていった。

錆びついた非常階段は、下へ、下へと続いていた。

地上ではあれほど溢れていたネオンの光も音も、ここには届かない。ただ、僕らの足音と、壁を伝う水の滴る音だけが、湿った暗闇に響いている。まるで、街の胃袋の中にでも入っていくような、不快な閉塞感があった.

『…気をつけろ、小僧。この女、ただの案内役じゃねぇな』

猛が、脳内で警告を発する。

(どういうこと?)

『わからねぇ。だが、そこらのチンピラとは格が違う。こいつ自身の魂の石の気配が、全く読めねぇんだ。霧みてぇに掴みどころがねぇ』

その言葉は、僕の緊張をさらに高めた。

階段は、地下二階ほどの深さで終わり、一つの頑丈な鉄の扉に突き当たった。女は、その扉を躊躇なくノックする。コン、コンコン。独特のリズム。

やがて、ガチャリ、と重い錠前が外れる音がして、扉が内側へゆっくりと開いた。

「―――どうぞ」

中から聞こえたのは、穏やかで、澄んだ、まるで少年のような声だった。

フードの女に促され、僕はおそるおそる、その中へと足を踏み入れた。

そこは、僕の想像とは全く違う空間だった。

薄暗い地下室を想像していたのに、そこは驚くほど明るく、清潔だった。壁一面が本棚で埋め尽くされ、古今東西の書物がぎっしりと並べられている。部屋の中央には、大きな木製の机が一つ。そして、部屋の至る所に、大小様々なモニターが設置され、新宿の街のあちこちを映し出すライブカメラの映像を、無音で流し続けていた。

まるで、学者の書斎と、監視センターを足して2で割ったような、異様な部屋。

そして、その部屋の主は、机の奥の革張りの椅子に、深く腰掛けていた。

「やあ、こんばんは。新しいお客さんだね」

年の頃は、僕とそう変わらないように見えた。

色素の薄い髪に、フレームの細い眼鏡。白衣のような、ゆったりとしたシャツを着ている。その顔立ちは中性的で、一見すると穏やかで知的な優等生、といった印象だ。

しかし、その目が、僕を射抜いた瞬間、僕は息を呑んだ。

彼の目は、笑っていなかった。

まるで、昆虫でも観察するかのような、一切の感情を排した、 абсолютная(アブソリュートナヤ)な無関心。僕のことも、僕の中にいる猛のことも、全てを見透かしているかのような、底なしの瞳。

「ボクは、ここでは“観測者”と呼ばれている。君が探している『情報屋』で、まあ、間違いはないよ」

観測者、と名乗った少年は、僕の隣に立つフードの女に視線を移した。

「“案内人”、ご苦労だったね。報酬は、いつもの場所に置いておく」

「どうも」

案内人の女は短く答えると、僕の肩を軽く叩いた。

「じゃあ、せいぜい頑張りなよ、“器”の坊や。アンタがここで何を得て、何を失うのか…アタシも観させてもらうからさ」

そう言い残し、彼女は静かに部屋を出て行った。鉄の扉が閉まる、重い音が響く。

この広大な部屋に、僕と、この観測者と名乗る少年、二人きりになった。

『…おい、小僧。こいつ、やべぇぞ』

猛の声が、今までになく強張っている。

『俺の覇気が、こいつには全く効いてねぇ。それどころか、こっちの魂の芯まで、丸裸にされてるみてぇな気分だ』

観測者は、椅子に座ったまま、優雅に指を組んだ。

「さて、夏目湊月クン。そして、君の中にいる“鬼神”、九頭竜猛。まずは、ボクのささやかなゲームへようこそ。君たちのようなイレギュラーな組み合わせは、観測対象として、非常に興味深い」

彼は、僕の名前も、猛のことも、全てを知っていた。

恐怖で体が動かない僕に、彼はガラス細工のような笑みを向けた。

「何が知りたい? この“魂奪戦グラディア”のルールかい? 他の参加者プレイヤーの情報かい? それとも―――」

彼は、壁一面のモニターの一つを指差した。

そこに映し出されていたのは、僕が住む街の、僕のアパートの、僕の部屋の窓だった。

「君が、あの夜、あの場所で、鬼龍院猛と出会った“運命”について、かな?」

観測者は、僕があの石を拾ったあの瞬間すら、見ていたというのか。

「な…んで…」

かろうじて、声が漏れた。なんで僕の名前を知っている? なんで猛のことまで? なんで、あの場所を?

観測者は、僕の混乱を楽しんでいるかのように、静かに微笑んだ。

「簡単なことだよ。ボクの魂の石の能力はね、『観測』することだからさ。この街で起きる、魂の蠢きは、ほとんど全てボクの目に入る。誰が死に、誰が石になり、誰がそれを拾うのか。ボクはただ、それを眺めているだけだ」

彼はそう言うと、手元のタブレットを操作した。

僕の部屋が映っていたモニターの映像が、古いニュース映像のような、粗い画質の映像に切り替わる。

それは、どこかの交差点の、監視カメラの映像だった。

画面の左端には、公園の入り口が見える。

映像のタイムスタンプは、数年前の、あの日付を刻んでいた。

「―――ッ!」

息が、止まる。

あれは。

僕の親友が、死んだ場所だ。

「君は、自分のせいだと思っているんだろうね。あの日、自分が親友と喧嘩なんてしなければ、彼は死なずに済んだ、と」

観測者の声が、冷たく僕の罪悪感を抉る。

映像の中で、小さな僕が、友達と何かを言い争っている。やがて、友達が泣きながら公園を飛び出していく。僕は、意地を張って、その場に立ち尽くしている。

見たくない。思い出したくもない。僕が、人生で最も後悔している瞬間。

『…おい、小僧』

猛の声が、脳内で低く響く。

彼の声にもまた、ただならぬ緊張が宿っていた。

映像は続く。

公園を飛び出した親友が、交差点に差し掛かった、その時。

画面の右側から、一台の黒い乗用車が、猛スピードで突っ込んできた。車体は大きく歪み、運転は明らかに普通じゃない。

そして。

ブレーキ音も聞こえないまま、小さな体が、まるで人形のように宙を舞った。

「やめ…ろ…」

僕は、耳を塞ぎたかった。でも、できない。体は金縛りにあったように動かず、ただ、過去の地獄を強制的に見せつけられるしかなかった。

観測者は、無慈悲に続けた。

「だが、それは違う。あれは事故なんかじゃない。必然だったんだ。なぜなら…」

彼は、映像をスロー再生にした。

暴走する車が、交差点に突入する、直前の瞬間。運転席の様子が、一瞬だけ、鮮明に映し出される。

ハンドルを握り、苦悶の表情で前を見据える男。その腹部からは、夥しい量の血が流れている。

僕には、見覚えのない顔だった。

だが。

『―――こ、の男は…』

僕の中で、猛が、驚愕に呻いた。

観測者は、答えを告げる。

「この車を運転していたのが、君の中にいる“鬼神”――九頭竜猛、その人だからさ」

映像の中の猛は、致命傷を負いながら、追手から必死で逃げていた。そして、朦朧とする意識の中、子供の飛び出しに気づくことすらできず、悲劇を引き起こしてしまった。

これが、真実。

僕の親友を殺した犯人は。

僕の人生を狂わせた元凶は。

今、僕の体の中にいる、この魂だった。

頭が、真っ白になる。

怒り? 憎しみ? 悲しみ?

違う。

そんな感情すら湧いてこない。あまりの事実に、思考が完全に停止してしまった。

『…そうか…そういうことかよ…』

猛が、絞り出すように言った。彼の魂が、激しく揺れているのがわかる。彼自身もまた、この瞬間まで、自分が犯した罪の、その詳細を知らなかったのだ。

僕らは、ただの偶然で出会ったのではなかった。

加害者と、被害者の関係者。

決して交わるはずのなかった二つの運命が、あの交差点で衝突し、捻じ曲がり、そして今、一つの肉体の中で、再び向かい合っている。

観測者は、そんな僕らの絶望的な邂逅を、心底楽しそうに、ただ、静かに“観測”していた。

時間が、止まった。

観測者の声も、モニターの光も、全てが遠ざかっていく。

僕の頭の中は、完全に真っ白だった。思考が働かない。ただ、繰り返し、繰り返し、あの映像が再生される。

猛スピードで突っ込んでくる、黒い車。

宙を舞う、小さな体。

あれを運転していたのが、猛。

僕の親友を殺したのは、猛。

僕の人生をめちゃくちゃにしたのは、猛。

そして、その猛は、今、僕の中にいる。

『……チッ』

猛が、呻くように、短く舌打ちした。

彼の魂が、激しく揺れている。怒りでも、悲しみでもない。もっと黒く、重い感情。長年ヤクザとして生きてきた男が、己の人生の最期の瞬間に犯した、取り返しのつかない失態。その事実が、彼の魂を内側から灼いているようだった。

僕と猛。二人の魂が、一つの体の中で、互いに背を向け、沈黙する。

その絶望的な静寂を破ったのは、観測者の楽しそうな声だった。

「さて、どうするんだい? 夏目湊月クン」

彼は、椅子に座ったまま、僕に問いかける。

その言葉は、純粋な好奇心だけで編まれた、残酷な刃だった。

「憎い仇が、自分の中にいる。殺すかい? 今すぐ、ここから飛び降りて、自分の心臓をナイフでひと突きすれば、君の中にいる鬼神も一緒に殺せる。君がずっと望んでいた“死”と、君の“復讐”は、同時に果たされるわけだ。素晴らしい結末だとは思わないかい?」

殺す。

その言葉が、僕の思考を無理やり現実に引き戻した。

そうだ。こいつは、猛は、僕の仇だ。憎むべき、敵だ。

でも。

殺す? どうやって?

観測者の言う通り、猛を殺すことは、僕が死ぬこと。

僕は、死にたかったはずだ。でも、こんな形で? 復讐のために?

それに、僕が死んだら、母さんは?

そして、あの日の真実を知ってしまった今、ただ死ぬだけで、本当に僕は救われるのか?

答えなんて、出るはずもなかった。

僕らが沈黙すればするほど、観測者の目は、愉悦に細められていく。

『……おい』

不意に、猛が僕に語りかけた。その声は、驚くほど、静かだった。

『てめぇが俺をどうしようが、今はどうでもいい。だがな、小僧。一つだけ、忘れちゃならねぇことがある』

(…なに)

『俺を裏切り、俺をあんな場所で暴走させ、結果的にお前のダチを殺す原因を作った、クソ野郎がいるってことだ』

そうか…。

猛の言葉が、僕の混乱した頭の中で、パズルのピースのようにカチリとハマった。

猛という存在への、どうしようもない憎しみ。その、さらに奥。僕の親友が死んだ、あの悲劇の、本当の始まり。

猛を裏切った、名も知らぬ男。

全ての元凶。

観測者は、僕らの心の会話が聞こえているかのように、にこりと笑った。

「話が早くて助かるよ。そう、君の親友が死んだ、直接の原因は九頭竜猛だ。だが、その大本の原因を作った男がいるだろう? 彼を裏切った男だ」

観ていたモニターの一つに、一人の男の顔写真が、大きく映し出された。

精悍だが、どこか爬虫類を思わせる冷たい目をした男。

「彼の名は、氷川ひかわ。今の彼は、君たちがいた街の裏社会を牛耳っている。九頭竜猛の死後、うまく立ち回って、今の地位を築いたようだね」

『―――氷川…!』

猛の魂から、殺意が溢れ出す。

「その男の情報を、売ってあげよう。もちろん、タダじゃないがね」

観測者は、僕に取引を持ち掛ける。

「君の『覇』の石の魂の力の一部を、ボクに譲渡してもらう。それが、情報料だ」

僕と猛は、顔を見合わせた…気がした。

憎い仇。しかし、今は唯一の相棒。

僕らの間には、あまりにも巨大な亀裂が走ってしまった。でも、その亀裂の向こう側に、初めて「共通の敵」が見えた。

この男を倒せば、猛の未練は果たされるのかもしれない。

この男を裁けば、僕の親友の死も、少しは浮かばれるのかもしれない。

僕らは、もう共存なんかできない。

でも、「共犯者」には、なれるかもしれない。

「……その取引、乗った」

僕は、僕自身の意志で、そう答えていた。

観測者は、満足そうに頷いた。

「契約成立だ。ようこそ、夏目湊月クン。地獄の、その先へ」

彼はそう言うと、机の引き出しから、黒曜石で作られたような、手のひらサイズの滑らかな板を取り出した。

「ここに、君の手を」

言われるがまま、僕はその冷たい板の上に、自分の手を置いた。

「九頭竜猛。君の魂の力、『覇』の一部を、代価として頂戴する。抵抗すれば、この子の精神が壊れるだけだ。賢明な判断を期待するよ」

観測者の言葉が終わると同時に、僕の手のひらに置かれた板が、淡い光を放ち始めた。

そして、凄まじい感覚が、僕の全身を襲った。

力が、抜けていく。

体温が、奪われていく。

魂の、一番核となる部分を、巨大な掃除機のようなもので、無理やり吸い出されている感覚。

「ぐ…っ、ぁ…!」

『…この、クソが…!』

猛の、苦痛に満ちた声が脳内に響く。彼が抵抗していないのがわかった。僕の体を守るために、なされるがままになっているのだ。僕のために、猛が苦しんでいる。その事実が、なぜか胸に突き刺さった。

やがて、光が収まる。

僕は汗びっしょりになり、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。体が、今まで感じたことのないほど、重い。

「ご苦労さま。確かに、代価は受け取ったよ」

観測者は、まるで何事もなかったかのように、手元のモニターを操作し始めた。壁の一つに、先ほどの男――氷川の、詳細な情報が映し出される。

「氷川は、現在、表向きはIT企業を装ったフロントカンパニーを拠点にしている。そして、彼自身もまた、憑依者ホルダーだ。彼の石の文字は『』。幻覚を見せたり、人の心を惑わしたりする、厄介な能力の持ち主だよ」

モニターに、あるクラブの店内写真が映る。

「まずは、彼の右腕を叩くといい。今夜、氷川の側近が、このクラブで別のホルダーと接触するはずだ。君たちへの、ボクからの最初のプレゼントだよ」

情報。それは、この殺し合いにおける、最強の武器だ。

僕らは、あまりにも強力な武器を手に入れた。その代償として、猛の魂の一部を失って。

「さて、取引は終わりだ。もう行っていいよ。君たちの物語が、どんな結末を迎えるのか…楽しみに観測させてもらう」

観測者は、もう僕らに興味はないとでも言うように、再び無数のモニターの監視に戻ってしまった。

僕らは、促されるままに、あの鉄の扉を開け、地上へと続く非常階段を登った。

外に出ると、あれほど騒がしかったネオン街の光は、少しだけその勢いを失い、東の空が、わずかに白み始めていた。夜が、終わろうとしている。

僕と猛は、どちらからともなく、無言で歩き出した。

真実を知り、魂の一部を失い、共通の敵を得た。頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。

しばらく歩いた後、僕は、どうしても聞かなければいけない、と思った。

「…なんで」

『…あ?』

「なんで、ヤクザなんかになったんだ。あなたほどの力があれば、もっと別の生き方が、あったはずだ」

それは、僕がずっと抱いていた疑問だった。

猛は、しばらく黙っていた。そして、夜明け前の薄紫の空を見上げながら、ぽつりと、呟いた。

「…ガキの頃、妹がいた」

その声は、僕が今まで聞いてきた猛のどの声とも違う、ひどく穏やかで、そして、ひどく哀しい響きを持っていた。

「心臓に、デカい病気があってな。長くは生きられねぇって、医者に言われた。助ける方法は、海外で、まだ実績もねぇ、とんでもなく金のかかる手術を受けるしかねぇってよ」

「……」

「俺には、両親もいなかった。あったのは、有り余る腕っぷしと、どうしようもねぇ怒りだけだ。その手術費用を稼ぐには、人の道を外れるしか、俺には道がなかった」

彼の言葉は、淡々としていた。だが、その一行一行に、どれだけの覚悟と絶望が込められていたのか。

「俺は、俺の未来を、魂を、ヤクザに売った。妹の未来を買うためにな」

僕は、息を呑んだ。

これが、鬼神・九頭竜猛の、本当の姿。

彼が「覇」の道を求めたのは、天下が欲しかったからじゃない。ただ一人、大切な家族を守るための、あまりにも不器用で、悲痛な叫びだったのだ。

「…その、妹さんは…」

僕は、おそるおそる尋ねた。

猛は、フッ、と自嘲するように笑った。

「…間に合わなかった。俺が、氷川のヤツに裏切られて殺される、半年前にな」

彼の慟哭が、僕の魂に直接流れ込んでくるようだった。

「俺の人生は、無駄死にだったんだよ、小僧」

朝日が、高層ビルの谷間から、鋭い光の矢となって差し込んできた。

僕らの、長い夜が、ようやく終わろうとしていた。

猛の告白は、あまりにも重く、僕の心に沈殿した。

憎い仇。しかし、その根源には、あまりにも悲痛な愛があった。もう、僕には猛という存在が、何なのか、わからなかった。

街が、ゆっくりと目覚め始める。シャッターの開く音、新聞配達のバイクの音、カラスの鳴き声。夜の住人たちが姿を消し、昼の人間たちが活動を始める、世界の境界線のような時間。

「…帰らないと」

僕が、ぽつりと呟いた。

『…あ?』

「学校に行かないと。僕が…急にいなくなったら、母さんが…心配する。警察に、言うかもしれない」

そうなれば、全てが終わる。僕と猛の存在が公になれば、観測者が言っていた「物語」は、最悪の形で幕を閉じるだろう。

猛は、しばらく黙っていた。学校という、彼の生きてきた世界とはかけ離れた言葉に、思考を巡らせているようだった。

『……チッ。面倒なこった』

やがて、彼は吐き捨てるように言った。

『いいだろう。いったん、てめぇのネグラに戻る。だが、勘違いするなよ、小僧。これは戦争だ。てめぇの日常ごっこは、ただの潜伏期間にすぎねぇ』

僕らは、始発の電車に乗るために、巨大な新宿駅へと向かった。

朝の光に照らし出された自分の姿が、ショーウィンドウに映る。服は汚れ、顔は青白く、目の下には濃い隈ができていた。まるで、幽霊のようだった。

電車に乗り込むと、僕らと同じ制服を着た学生や、疲れた顔のサラリーマンたちが座席を埋めている。

皆、当たり前のようにスマホを見て、当たり前のようにあくびをしている。

昨日の僕も、この中にいた。でも、今の僕は、もうこっち側の人間じゃない。

僕は、人を殺した。死体を捨てた。そして、僕の中には、復讐を誓うヤクザの魂がいる。

この、あまりにも平穏な空間に、僕という存在がいることが、ひどく場違いに感じられた。

午前8時24分。羽村、自宅。

自分の部屋に戻ると、昨夜の惨状が、悪夢ではなかったことを改めて突きつけてきた。

割れた窓ガラス、ひっくり返った本棚。僕は、シーツが剥ぎ取られたままのベッドに、崩れるように座り込んだ。

『おい、小僧! 時間だろ!』

「…わかってる」

階下から、母さんの不安そうな声が聞こえる。

「湊月ー! もう時間よ! 学校、遅れるわよー!」

僕は、重い体を無理やり起こした。クローゼットの奥から、予備のシーツを引っ張り出してベッドにかけ、本棚をなんとか元に戻す。割れた窓は、カーテンを閉めれば外からは見えないだろう。

『いいか、学校では目立つな。誰とも喋るな。息を潜めて、石ころにでもなってろ。てめぇの得意なことだろうが』

猛の言葉は、皮肉だったが、事実だった。

僕は学生鞄を掴む。鏡に映った自分の顔は、死人のようだった。でも、この顔で、僕は「いつも通り」を演じなければならない。

部屋を出て、階段を降りる。

「…行ってきます」

「あ、湊月! 朝ごは…」

「ごめん、時間ないから」

母さんの顔を、まともに見ることができなかった。

玄関のドアを開け、外に出る。

いつもと同じ通学路。いつもと同じ住宅街の風景。

なのに、全てが違って見えた。

電柱の影、路地の暗がり、すれ違う人の視線。その全てに、悪意や殺気が潜んでいるように感じてしまう。僕を狙う、次の憑依者ホルダーかもしれない。

学校という、檻へ。

友達もいない、居場所もない、あの息苦しい場所へ。

でも、今の僕にとって、そこはもう、ただ息苦しいだけの場所ではなかった。

いつ敵に襲われるか分からない、戦場の 한복판(ハンボクパン)。

偽りの平穏を演じ続けなければならない、処刑台。

僕は、固く拳を握りしめ、校門へと続く道を、一歩一歩、踏みしめて歩いていった。

学校の門をくぐる。

鉄の檻に、自ら入っていくような気分だった。

教室に入り、自分の席に着く。窓際の一番後ろ。僕が、気配を殺すために選んだ、定位置。

授業が始まる。教師が、抑揚のない声で教科書を読み上げる。

クラスメイトたちは、ノートを取ったり、隠れてスマホをいじったり、昨日までと、何も変わらない光景。

変わってしまったのは、僕だけだ。

僕の頭の中では、授業の内容なんて、一文字も入ってこなかった。

何度も、何度も、観測者が見せたあの映像が、瞼の裏で再生される。

公園を飛び出す親友。

猛スピードで突っ込んでくる、黒い車。

ハンドルを握る、血まみれの男。

―――こいつが。猛が、殺したんだ。

腹の底から、黒いマグマのような感情がせり上がってくる。

憎しみだ。

純粋で、どうしようもない、殺意にも似た憎しみ。

(なんで、お前が僕の中にいるんだよ…!)

僕は、心の中で絶叫した。

(お前さえいなければ。お前があの時、死んでいれば、僕の親友は…!)

僕の激しい感情の昂りを、猛は黙って受け止めていた。

何の言い訳も、弁明もしない。ただ、そこにいる。その事実が、僕をさらに苛立たせた。

(出ていけ! 消えろ! 僕の体から、僕の頭から、今すぐいなくなれ!)

怒りに任せて、僕は机の下で拳を固く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、血が滲む。

その痛みで、少しだけ頭が冷えた。

そうだ。こいつは、もう僕の一部だ。僕が死なない限り、こいつを消すことはできない。

そして、僕が死ねば、母さんが…。

詰んでいる。

八方塞がりだ。

この、地獄のような共存関係からは、どうやっても逃れられない。

ならば。

ならば、どうする?

僕の心に、冷たい光が差し込んだ。

それは、希望の光なんかじゃない。もっと昏く、鋭い、復讐という名の光。

―――利用してやる。

そうだ。この鬼を、僕が利用するんだ。

こいつの、その圧倒的な暴力の力を。

僕の復讐のために。

猛の復讐の相手は、氷川。

僕の復讐の相手は、猛。

だが、氷川は、猛が僕の親友を殺す原因を作った、全ての元凶でもある。

順序が、違うだけだ。

まずは、共通の敵である氷川を、猛の力を利用して叩き潰す。

猛の未練を、僕が果たさせてやる。

そして、その先に待っているのは。

『……それで、いい』

僕の昏い決意を読み取ったかのように、猛が、静かに言った。

『てめぇが俺をどう裁こうと、それは全てのケリがついた後の話だ。俺は、てめぇのその憎しみを、受け入れる。だが今は、俺を使え、小僧。てめぇの復讐のためにもな』

僕と猛の間に、奇妙な契約が結ばれた。

それは、信頼なんかじゃない。友情でもない。

互いの目的のために、互いを利用し合う、どこまでも利己的で、歪んだ「共犯関係」。

僕は、顔を上げた。

窓の外には、どこまでも青い空が広がっている。

でも、僕の心は、凍てつくような冬の空よりも、ずっと冷たく、静まり返っていた。

キーンコーンカーンコーン。

授業の終わりを告げるチャイムが、まるで、新しい戦いの始まりを告げるゴングのように、僕の頭に鳴り響いた。


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