えすけいぷ
元委員長は半透明。
「またかよー、もーお昼休み終わっちゃうのに、このふりょーめ」
ゲータレードのボトルみたいに。無印良品のペンケースみたいに。
「あいっかわらずサボるねぇ。木曜の五時間目なら物理でしょ。木原先生、後で結構面倒だと思うんだけどなー」
「つまんねーもん。それに」
元委員長は空中浮遊。
「おめーみて―にヒジョーにヒジョーシキな奴がいたら物理の授業なんか意味ね―って思っちまう」
ドラゴンボールのフリーザみたいに。エスパータイプのポケモンみたいに。
「ひっどいなーあたしのせいかよ。ジブンの不真面目を人の所為にしないの」
屋上の淵の外側へ突き出す、鉄パイプに沿って敷かれた転落防止用ネットの上で、トランポリンの真似事をしながらそんなことを言う。不真面目はどっちだ。
「高校三年間の、残りの授業全部ドロップアウトしやがったおめーにンなこと言われる筋合いはねーよ」
その地引網の元凶が、それで遊んでりゃ世話は無い。
俺の言葉に元委員長は、ヒトゴトみたいに困った顔をする。御蔭で、俺の声は独り言になってしまった。
校舎から俺は見えないよう、俺から海は見えるよう、入ってきたドアの隣に腰掛ける。「暑い」などとわかりきったことをイチイチ言うなんて非生産的な真似を嫌う俺が座ったそこは、当然、日蔭。午前中の余熱でケツが温暖化するが仕方無い、『背に腹は代えられない』というヤツだ。
持ってきた本に付いていた『夏のキャンペーンフェア』の帯を剥がしていると、いつの間にか元委員長は、ハチの巣みたいなフェンスをすり抜けてこの様子を眺めていた。そして裏表紙のあらすじを読み、背表紙のタイトルを確認して、うげーっ、と顔をしかめる。
「これダメ」
「なんで」
「バッドエンドだもん。しかもあんたコレ、表紙買いしたっしょ、人気のイラストレーターなんか使っちゃって、まあまあ」
「やかましい」
空は青い。
セミがばらばらと鳴き陽炎の出来そうな炎天下といえども、風の通る日蔭はいやに涼しい。 指に残った帯を日蔭のここから日なたのあそこまで弾き飛ばそうとして、止める。手をポケットに入れて再び出すまで、そのジトジトした視線は注がれたままだった。
チャイムが座った直ぐ傍の装置から大音量で、四回鳴る。
耳が痛い。
立ち上がろうとしない俺に元委員長は透明な声で話しかける。
「ねえ」
「なんだよ」
本を傍に置く。中指が一瞬だけ、ざらついた屋上のコンクリに触れる。
「サボりのときってさー、いつもここかい」
「『いつもここから』って面白かったよな、どこいっちまったんだろうな、あいつら」
「そんなの関係ねえ!」
「それちげぇ奴だ」
「わかってる、それで」
「まあ、ここだけじゃない。いろいろ行ってた」
「へぇーへぇーへぇー、三へぇ」
「三百円な」
一瞬だけ、懐古主義。
海は輝いて白い。
「ねえ」
「んだよ」
「ちょっとエグイこときくけど」
「ああ」
「今更な話なんだけど」
「はいはい」
「あたしどんな感じだった」
海を見ながら委員長は言う。
違う。元、委員長。
「みてない」
話は聞いた。
「そっか、ざんねん」
二十五メートル下に停めてあった教頭のプリウスの横で、果肉たっぷりのイチゴジャムみたいになってたってのは聞いた。クロールで泳いで、プールの向こう岸にタッチするのと比べてひどい差だ。重力ってやつはおそろしい。
「なー」
「なによ」
「おめーいつまでいるんだ」
「さー」
そりゃ知らんよな。
なんで、ダラダラここに居残っているのかもわかんねーのに。
「じゃあさ」
「んだ」
「あんたいつまでくるの」
「さー」
ヘタクソな裁縫みたいな会話。ぶっちんぶっちん糸が切れる。
「あたしさ」
「あー」
海底の泡みたいに浮き上がる、半透明の元委員長。
「あんたがここにくる間は、いてやってもいいよ」
お高いところから、見えない位置から、声。
「上から目線だねぇ、文字通りの」
グラウンドでの体育の授業は無い。
「えぇと」
自分にさえ聞こえないような呟きを始めた途端。
俺の音しか、しなくなった、気がした。
正面向いた、海を見ていた、そして何かから逸らしていた視線が、あんまり当たらない俺の第六感に従って斜め上に向く。
嫌な予感に、翻らされる。
「なに見てんのよおぉぉぉ」
外れた。
パンツの色はわからなかった。
ついでにイチイチ、ネタが懐かしい。
「なんでもねーよなんでも」
目を戻す。
本当になんでも無かった。校庭のどっかからセミの声は目覚ましのベルみたいに途切れないし、校舎のどっかから柳田邦夫の論文の音読は蜘蛛みたいに這い上がって来るし、団地のどっかから焼け付いたアスファルトを粉砕するドリルの音がライナーみたいに飛んでくるし、空のどっかからセスナ機のエンジン音が天幕みたいに降って来る。いつも通り。
「嘘つけ」
イギリスのパラシュート部隊みたいに元委員長は降下してきて、座り込んだ俺の正面に回り込もうとする。俺はガキみたいにムキになって、顔を背ける。
「うるせ」
「なによー、この」
今丁度頭上にある、風に舞う国旗の様にじゃれついてくる元委員長と、「纏わりつくな」とか言う俺。
その暴れ合う手と手が、すり抜けて、同時に動作を停止する。
元委員長は半透明。
ゆうれいみたいに、半透明。
揃いも揃って、忘れていた、その馬鹿げた『事実』に、俺は、地図上では存在しないことにされている工場に、置き去りにされたような心地になる。
じんじんじんじんと、擦り剥いたヒザの痛みを音にしたかの様な、セミの声。暑苦しいが、『暑い』なんてわかりきったことを言うほど、俺は野暮じゃない。
隣に、『一身上の都合で』、去年の冬服から衣替えしてない奴が居れば尚更だ。
「科学に従えくそ女」
「うわっヒド」
「ムワッヒド朝」
「世界史かよッ」
いつも通り。
気付かないフリをして、傷付かないフリをして、俺達は結論を先延ばす。
最後の瞬間まで馬鹿をやり続けられると、本気で思い込んで、馬鹿をやり続ける。
最後の瞬間なんか無いと、本気で思い込もうとして、必死で、馬鹿をやり続ける。
置きっ放しの、『バッドエンド』らしい本が、静かに表紙を揺らす。そこに描かれた、遊園地の様な色彩に囲まれた空想上の少女は、小さく黒い瞳で、夏の頂を見上げている。いつも通りに二度ない夏を、暗いひとみで見送っている。