第9話「みゃお先輩」
放課後の音楽室。
窓から差し込むやわらかな光が、グランドピアノの黒い艶をそっと照らしていた。
朝日未碧は、譜面を閉じてふうっと息をつく。
吹奏楽部の練習は、さきほど終わったばかり。ピアノ伴奏の手伝いも無事に終え、部員たちが片づけを終えて帰っていく中で、彼女だけがそこに残っていた。
音楽室にひとり。
それは、未碧にとって――誰にも気を遣わず、自分を取り戻せる、特別な時間だった。
(……少しだけ)
椅子に座り直すと、そっと鍵盤に指を置く。
「ツインテール揺れて 君と笑う
私のにゃんこちゃん」
甘やかな歌声が、誰もいない教室にゆっくりと広がっていく。ピアノの音と重なるように、未碧の心も少しずつほぐれていく。
かつては、息をするように歌っていた。誰かのために、求められるままに。
でも、現在の彼女にとって歌うことは小さな冒険だった。
誰のためでもなく、ただ「好き」を信じて、自分の心にそっと寄り添うように。
それは、世界に放つ歌ではなく――ひとりごとのような、やさしい音だった。
そのとき。
「……あ」
扉がわずかに開いて、三つの影が差し込んだ。
「……ごめんなさい。練習中、でしたか?」
入ってきたのは、翠谷雫。そしてその後ろには、そらと照の姿があった。
未碧は少し驚いた表情を見せたものの、すぐに微笑んで首を横に振った。
「ううん。もう終わったから。今のは、私が好きで勝手に弾いてただけ」
雫はそっと、手に持っていた袋を差し出す。
「マウスピース、返しに来ました。先生に、音楽室にって言われて……」
「ありがとう」
受け取りながら、未碧はそらと照に視線を向ける。
「その子たちは……?」
少しだけ言い淀んでから、雫は質問で返す。
「先輩……屋上の、ダンスの動画。見てくれました?」
未碧の目が、わずかに見開かれる。
そらが緊張したように背筋を伸ばし、照は真剣な表情で未碧を見つめている。
「……MIAO、ですよね?」
その言葉に、未碧はふっと表情を緩める。
「そうだよ。……そっちは、屋上で踊ってた子たち、だよね?」
視線が交差する。沈黙が一瞬、空気を張り詰めさせた。
やがて雫が、小さくつぶやく。
「……やっぱり、同じ歌だった」
「固定投稿の……猫の歌。聴きました。動画のあの曲と同じで……すごく、綺麗でした」
未碧は、少しだけ照れたように笑った。
「ありがとう。あの曲、うちのにゃんこちゃんのことを歌ってて……ちょっと変って思われるかもしれないけど」
「変じゃないです!」
思わず声が大きくなった。未碧が、驚いたように目を丸くする。
「……変じゃなくて、素敵でした。空気の作り方とか、歌の表現も……ステージに立つ人の歌だって、思いました」
そらも、うんと小さくうなずいた。照も、何も言わないまま、静かに目を細めていた。
未碧は視線を落として、少しだけ頬を染めた。
「ありがとう。……そんなふうに言ってもらえるの、なんだか久しぶり」
雫は、まっすぐな瞳で未碧を見つめる。
「その……あの、もしよかったら、名前で呼んでもいいですか?」
未碧は一瞬きょとんとして、それからゆっくりとうなずいた。
「うん。苗字じゃなくて、“未碧”でいいよ」
雫は、口元に小さな笑みを浮かべる。
「じゃあ……“みゃお”って呼んでいいですか? MIAOって、みゃおって読むんですよね?」
未碧は思わず吹き出した。
「ふふ、バレたか。……いいよ。“みゃお”って、呼んで」
雫は、一歩踏み出して、はっきりと声を出した。
「……みゃお先輩! 私たちの仲間に、入ってくれますか?」
その言葉に、未碧は優しく目を細め、そっとうなずいた。
窓の外には、夕焼け色の校庭が広がっている。
音楽室の中に、またひとつ、新しいつながりの音が生まれていた。
――こうして、屋上の“スカイステージ”に、もう一つの光が、そっと加わった。