第21話「8月31日」
かつて雫が照に驚かされた、あの塔屋の壁を背に、
アップライトピアノが静かに佇んでいた。
ほんの少しだけ日差しを浴びて、古い木目のボディが柔らかく光っている。
「すご……これ、ほんとに屋上に……」
そらが思わず息を呑む。
「旧音楽室で使ってなかったやつ。引っ越し許可が出たって」
照がどこか誇らしげに肩をすくめる。
「正式な“部”だからね。先生、調律師さんまで呼んでくれたんだ」
未碧が鍵盤の蓋をそっと開けながら呟いた。
「……帰るときは、扉の中に戻すんだって。ちょっと大変そう」
月音が、少し心配そうにピアノを見つめる。
「大丈夫。俺たちに任せろって。キャスターあるし、楽勝」
照が、いつもの調子で、しかし力強く言い切った。
海は、そんな照の横顔をちらりと見て、得意げにニヤリと笑う。
雫が一歩近づき、鍵盤に指を置く。
音が鳴る――
柔らかく、あたたかく、そして、少しだけ懐かしい。
「屋上ピアノ……KAWAII」
月音が静かにそう言った。
そしてこのピアノは、きっと――
“夏の終わり”を、音に変えるためにここに来た。
夕方――
雫と月音が、それぞれ小さな鞄を持って、そらの家にやってきた。
「おじゃましまーす」
「……ここが、そらの部屋」
テーブルには、さっそくペットボトルやスナック菓子、コンビニスイーツが並べられた。
外はまだ明るいけれど、蝉の声が少しだけ静かになっている。
どこか、夏が終わることを予感させる空気だった。
「よし、準備万端。でも、今日のメインはお菓子パーティーじゃなくて……曲作り、だよね」
そらが言うと、雫はにんまりと笑いながら、鞄からウクレレを取り出した。
「はい、今日も持ってきました!」
月音も、持ってきたノートをそっと開いている。
どこか、いつもより少し緊張しているような気もした。
「えっとね……これ、書いてみたんだ」
そらは、テーブルの上の小さなノートをそっと広げた。
そのページの隅に、ぽつんと書かれていたのは――
やり残した宿題より
ずっと大切なものを、
8月の空は教えてくれた。
この夏のこと――全部、忘れたくない。
その言葉を読みながら、そらは少しだけ俯いた。
「……ポエムみたいで、変かな……」
「ぜんぜん。すごく、そららしいよ」
雫が、まっすぐな声で答える。
「……わかる。私も、こういう気持ち、言葉にしたくなる」
月音も、静かに頷いた。
そらは少しだけ目を伏せたあと、小さく笑った。
「……ありがとう」
そして――
Aozora Drop to the endless sky!
自分の歌唱パートを口ずさみながら、雫は慣れた手つきでウクレレのチューニングを始める。
「え、それ、今のって……?」
そらが思わず聞くと、雫はにんまりと笑って言った。
「“アオゾラ”の“ア”が4弦、“オ”が1弦、“ゾ”が3弦の音なんだよ」
「でも……え?」
月音が冷静に呟く。
「……無自覚絶対音感」
雫の隠れた才能が明らかになった瞬間だった。
「え、ほんとにそんな耳してたの、雫ちゃん……」
「すごい……ていうか、普通は楽器の音が基準……」
そらと月音が口々に驚くと、雫はちょっとだけ胸を張り、
「へへ、感覚だけで生きてるからさ〜」と得意げに笑った。
けれど――
そらと月音の、純粋な驚きと尊敬に満ちた眼差しをまっすぐに受け止めて、雫は少しだけ視線を泳がせた。
「変って……思う?」
つい口から漏れたのは、いつもの言葉だった。
「ううん、全然」
「変じゃなくて、すごい。……本当に」
そらと月音が、同時に、そして力強く首を振る。
その言葉に、雫は一瞬、息を呑んだ。
そして、これまで誰にも見せたことのないような、心からの、はにかんだ笑顔を浮かべる。
「……そっか」
雫は改めて姿勢を正し、ウクレレを構える。
その指先は、もう迷っていなかった。
そして、そっとコードを鳴らす。。
Cmaj7、G7、Am7、Em7――
夏の終わりにふさわしい、優しい響き。
「それ、なんか……おしゃれなコードだね」
「ふふん。“大人の夏”ってやつだよ」
一拍おいて、少しだけ照れくさそうに笑う。
「じゃあさ、“夏っぽい思い出”って、なんだろう?」
「パレードのときの照くん、彦星姿めっちゃ似合ってたよね」
「フェスで聴いたみゃお先輩の新曲、本当かっこよかった……」
「海くんが夢中で衣装つくってたの、思い出すなぁ。
あの布に囲まれた被服室、ちょっとだけ秘密基地っぽかった」
「ビーチボール、そらが1分でバテてたのも、地味に印象深い」
「夏祭りの金魚すくい。雫ちゃん、3回挑戦してたよね……?」
「……失敗とは言わない、“過程”だよ」
みんなで顔を見合わせて、ふっと笑う。
その笑顔と記憶が、言葉になり、音になっていく。
「やっぱさ――夏って、“一度きり”じゃん」
「だから、残したくなるんだね」
雫がウクレレを弾きながらメロディを探り、
そらが口ずさみ、
月音が言葉を整える。
夜が更けても、誰も時計を見なかった。
甘い匂いが漂う中、誰ひとりお菓子に手を伸ばさず、
夢中でテーブルにかじりついていた。
窓の外――空が少しずつ、白みはじめていた。
七夕のときは、まだお互いの誕生日すら知らなかった。
けれど今はこうして、一緒に夜を越えて、同じ曲を作ってる。
それはきっと、「友達」でも、「仲間」でも、ひとことでは言い表せない関係。
「……できた、かも」
そらがそう言った瞬間、
誰も声を出せなかった。
たった今、この夜、この“夏”を――
3人の手で、たしかに形にした気がしたから。
カーテンの向こう。
外に吊るした風鈴が、小さく鳴った。