第19話「八月の夜想曲」
夜。雫の部屋。
ポロン……ポロン……
柔らかなウクレレの音色が、夜風に溶けていく。
今日、音楽室で東雲先生に教えてもらったばかりのコード――Em。
(メタルの基本らしい……私が弾いてるの、ウクレレなんですけど)
押さえる位置はそんなに遠くないのに、何度やっても――
どこかの指が、別の弦に触れてしまう。
響ききらない音に、小さく肩を落としながら、それでも、もう一度。
だけど、その響きは、どこか夏の夜みたいにもの悲しくて……
ただ鳴らしているだけで、胸の奥が少しずつ穏やかになっていく。
雫は目を閉じたまま、しばらくその音に身をゆだねていた。
やがて、ふとノートを開き、ページをめくる。
いままで覚えたコードを、先生に教わった順番で、ひとつひとつ確かめるように弾いてみる。
C → G → Am → Em → F → C → F → G
やっぱり、Emのところでちょっと指がもたつく。
でも、うまく響いたときは、胸の奥で何かがふっと開くような、不思議な気持ちになる。
何度も、何度も、繰り返しているうちに――
だんだん、メロディのようなものが、心の中に浮かんできた。
静かな部屋に、ぽつりぽつりと音が重なっていく。
それはまるで、どこか遠い場所から届く、小さな手紙みたいだった。
気がつくと、窓の外は、ほんのりと明るくなっていた。
夜明けが、そっと近づいてくる。
そして、雫の中でも、小さな“はじまり”が確かに芽生えていた。
月音の部屋――夜。
机の上には、静かに香るカモミールティー。
月音は、読みかけの本を閉じると、窓際へ椅子を引いて座った。
レースのカーテン越しに、夜風が頬をなでていく。
遠くで聞こえる虫の声が、静かなBGMのように空間を満たしていた。
(……この時間が、一番好き)
夏の喧騒のあとの、しんとした夜。
誰も話しかけてこない、誰にも気をつかわない、ひとりだけの自由な時間。
月音は、ポケットから取り出したICレコーダーのスイッチを入れる。
そこには、誰にも聴かせたことのない――自分の声で読んだ詩が収められていた。
ティーカップに残った温もりを掌で包みながら、月音は目を閉じた。
海の部屋――夜。
並べた布地の見本で、机の上が埋まっていた。
その上には、描きかけた衣装のデザインスケッチ。
パレードの衣装も、アイドルフェスで見たステージ衣装も――
全部、自分のなかにまだ熱として残っている。
(……この夏を、どう形にする?)
ペンを持つ指が、迷いなく線を引く。
デザインの隅に、小さく書き込まれた文字。
「夏の残響」
それが、海のなかに残った、この夏の名前だった。
照の部屋――夜。
「……さて、と」
机の前で、照はノートPCを閉じた。
文化祭に向けたプランニング。
誰かに頼まれたわけじゃない。けれど、自分がやらなきゃ、と思っていた。
「……あとは、なんだっけ」
照はスマホを手に取り、カメラロールを開く。
この夏、撮りためた写真の数々。海、祭り、屋上ステージ。
そのどれにも、仲間の笑顔が映っていた。
「……忘れるわけないじゃん」
そう呟くと、スマホを伏せて、ベッドに体を預けた。
まだ少しだけ、夜が残っている。
そらの部屋――夜。
開け放した窓から、風鈴の音が小さく響いていた。
カーテンがふわりと揺れ、夜風が頬をなでていく。
夏の終わりが近づいていることを、空気の匂いで感じる。
そらは机に向かっていた。
ノートを開き、ペンを手にしたまま、じっとその先を見つめている。
この夏のことを、どうしても言葉にして残したかった。
ステージに立ったこと。
パレードに参加したこと。
あのフェスで見た景色。
雫のウクレレの音。
浴衣姿で笑い合った時間――
どれも、忘れたくない。
でも、全部をどうやって閉じ込めればいいんだろう。
そらは、ゆっくりとペンを走らせた。
「やり残した宿題より
ずっと大切なものを、
8月の空は教えてくれた。
この夏のこと――全部、忘れたくない」
書き終えて、ふっと息をつく。
きっとこれは、誰かに見せるための言葉じゃない。
ただ、自分のために綴った、心の中のメモ。
けれど、そらにはわかっていた。
――これは、きっと“始まり”なのだと。
風が、ノートのページを一枚めくる。
そらは小さく笑って、窓の外に目を向けた。
(この気持ち、雫ちゃんなら……音にしてくれるかな)
遠く、雲の向こうに、少しだけ星がのぞいている。
(……大丈夫。きっと忘れない)
その思いが、そらの胸の奥に、静かに灯っていた。
未碧の部屋――翌朝。
静かな部屋に、時計の針の音だけが響く。
未碧は窓際に立ち、スマホに届いたグループチャットの通知を見つめていた。
雫が送ってきた、練習中のウクレレの録音。
拙くて、でも懸命にコードをつないでいく音。
C、G、Am、Em、F――
(……先生、さすがだな)
雫が覚えていた基本的なコードにあとひとつ――
Emを足すことで、“カノン進行”が弾けるようになる。
メタルの基本なんて言いながら、きっと最初から狙っていたんだ――
そのことに気づいた瞬間――未碧は、小さく微笑んだ。
(先生は、“音”で背中を押すのが、本当に上手い)
誰にも気づかれないような、ささやかな仕掛け。
だけど、そこには“想い”が込められていた。
未碧はそっと窓を開ける。
朝の風がカーテンを揺らし、静かな部屋をゆっくり通り抜けていった。