第4話「最高の裏切り」
地下ライブハウス・リハーサル中
地下の空間は、思っていたよりもずっと狭くて、そして近かった。
ステージと客席の距離はわずか数メートル。観客の目の前に立つ感覚が、想像よりずっとリアルにのしかかってくる。
照明はまだ落とされていて、天井のスポットライトがほんのりと青くステージを染めていた。
「じゃあ、朝日さんから順にお願いしまーす」
スタッフの合図で、未碧がゆっくりとステージ中央に進み出る。
軽く背筋を伸ばして、電子ピアノの前に腰を下ろした。
「リバーブ、少し抑えますねー。ピアノ、もう少し前に出しますー」
PAブースとのやり取りの間に、マイクスタンドの高さを自分で微調整しながら、未碧は静かに試奏を始める。
そして――
彼女の歌声が、マイクを通して空間に溶け出した瞬間、場の空気がふっと張り詰めた。
「オッケーです、ありがとうございましたー」
拍手に見送られ、未碧が退いたあと月音、そら、雫が下手から次々とステージへ。
次の曲は、『青春の影、私の光』。
あの日のお別れの曲であり、私たちの“はじまりの曲”。
「……ありがとうございます、マイクレベルちょうどいいですー」
「この曲、本番では……ダンスなしですよね」
「はい、歌だけです」
照と海が控えの位置から一歩進み出る。
「このあとは、俺たちがMCでつなぎます」
「了解ですー。その次の『Aozora Drop』はイントロだけリハで確認しますね」
イントロを少しだけ流しながら、そらたちは軽く振りを合わせる。
「マイク、有線だから足元注意ね」
「はーい」
「オッケー、止めまーす。このあと、最後にもう1曲でしたよね?」
「はい。次の曲はソロで……」
「了解でーす。リハ時間押してるので、そちらはカットで、マイク番号だけ確認お願いしますー」
「大丈夫です」
月音が小さく頷く。
これで、自分たちのリハーサルは終了となり、一同は楽屋に戻る。
その途中、月音は手に持っていた楽譜をぎゅっと握りしめていた。
――『あまつぶの小径』。
本番で、自分ひとりで歌う予定の曲。
それなのに、その伴奏――オケ――は、誰ひとりとしてまだ聴いたことがない。
「……ねえ、先生。ほんとに、だいじょうぶかな」
月音が、不安げに東雲先生へ問いかけた。
先生は、軽く笑って応える。
「大丈夫。キーもテンポも、生ピアノで合わせてたときから変えてないわよ。感覚さえ掴めてれば問題ない」
そうは言うけれど。
(……でも、“実際の音”って、やっぱり違うんだよ)
そう。
このライブ出演が決まったのは急だった。
未碧は、他の2曲の準備で手いっぱいで、月音のソロ曲のアレンジまでは手が回らなかった。
それに気づいた東雲先生が、笑顔で「任せて」と、すべて引き受けてくれた。
そして完成したのが、今朝――ほんの数時間前。
「……わたしだけ、ぶっつけ本番かも」
月音の声は小さかったけれど、隣を歩いていた照にはちゃんと届いていた。
「……練習、しとく?」
そう言って、彼はさりげなく目線をそらす。
月音は一瞬だけきょとんとしてから、静かにうなずいた。
「……うん。やっぱり、少しでも合わせておきたい」
東雲先生が軽く顎を引いて、スマホの画面を操作する。
「じゃあ、音源送っておくわ。確認したいなら、今のうちに楽屋で聴いておきなさい」
先生の声はやさしくも、どこか“本番を知っている人”の温度を持っていた。
(……大丈夫。大丈夫って、思いたい)
けれど月音の胸には、やはり不安が渦巻いていた。
誰も知らない曲。
誰も聴いたことのない伴奏。
――そして、ひとりで歌うステージ。
楽屋に戻る足取りは、ほんのわずかに、重たくなっていた。
そのまましばらく、月音は無言のまま椅子に腰掛けていた。
周囲の会話や物音は遠くに感じられ、緊張だけがじわじわと胸に染み込んでくる。
やがて、意を決したようにスマートフォンを取り出す。
おそるおそる、イヤフォンを耳に押し込んだ。
再生ボタンを押した瞬間、初めて耳にする『あまつぶの小径』の“音”が、彼女の世界に流れ込み――彼女の目が、ただ、大きく見開かれた。
その瞳に映っているのが、絶望なのか、それとも、これまで見たこともないような眩い希望なのか。その表情からは、隣にいる仲間たちにも、まだ何も読み取ることはできなかった。




