第3話「窓辺の音色」
教室の窓から見えるのは、いつも同じ景色だ。
どこまでも続く灰色の壁。その向こうには、整然と並んだ住宅の屋根。そして、ただ広いだけの空。
伏見月音はシャーペンの先で、ノートの隅に細い線を描いていた。授業の内容は半分も頭に入ってこない。ただ、漠然とした退屈さと、誰にも言えない居心地の悪さが、いつも胸の奥にあった。
友達はいる。誰かといる時間は苦手じゃない。必要な時はちゃんと話す。でも、そこに「私」はいるのだろうか。本当は、誰かの言葉に、ただ頷いているだけのような気がした。
(私って、この世界のどこにいるんだろう)
チャイムが放課後を告げる。
そっと、イヤフォンを耳に押し込んだ。流れてくるのは、激しいギターのリフと、重く響くドラムの音。そして、地の底から唸るような、重低音のベース。誰にも聞かせたことのない、私だけの秘密の音。
外の世界のざわめきが遠ざかり、まるで自分だけの宇宙に閉じこもるようだ。この音の中にいると、少しだけ「私」という存在を許せる気がした。
最後の音がフェードアウトしていく。
途端に、部活動に向かう生徒たちの声が、廊下を賑やかに通り過ぎていく。活発な運動部。楽しそうな文化部。
月音は、席を立つ前に、ふと窓の外に目を向けた。視線の先には、古びたフェンスに囲まれた、だだっ広い屋上が見えた。
周囲の生徒がまばらになった頃合いを見計らい、月音は、人目を避けて、ゆっくりと教室を出た。帰り道も、いつも下を向いて歩いている。アスファルトのひび割れや、側溝に流れ込む雨水。そんな、誰も気にしないような小さなものばかりが、月音の瞳にはやけに鮮やかに見えた。
時々、頭の中に、言葉にならない「音」が湧き上がってくる。その音に、形を与えようと、メモ帳に短い詩を書きつけるのが、月音の密かな日課だった。
いつものように、そそくさと校庭に出た。すると、開け放たれた音楽室の窓から、柔らかなピアノの旋律が漏れ聞こえてくる。普段は立ち止まることのない場所で、月音の足は、吸い寄せられるように止まった。
その音は、激しいメタルとは全く違うのに、心の奥に静かに、しかし確かに響いてきた。それは、月音の知らない、新しい音の始まりを告げる予感だった。
そしてその日の夜、月音は、中学の頃から誰にも知られず使っているアカウントで、メモ帳に書いた詩の一つを投稿した。
誰かに届かなくてもいい。けれど、いまの自分が確かに在った証を、どこかに残しておきたかった。