第27話「What Shizuku Dropped」
灰色の雲が空を覆い、陽の光はほとんど感じられなかった。
じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。
風はほとんど吹かず、遠くで雷鳴がかすかに響いたような気がした。
練習開始直前のいつもの屋上。
雫がふと、みゃお先輩の目の前に小さなノートをそっと差し出した。
表紙には、鉛筆で丁寧に描かれた炎のマーク。
「なんか、ちゃんとは知らないんだけど……メタルっていうジャンル、気になっちゃって」
照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに笑う雫。
「東雲先生に……見てもらえたらいいな、って思って」
「お前がこれを?」と、照が隣から覗き込む。
ページには、これまでの彼女からは想像もつかないような、鋭く切り込むような言葉の数々。
それでも、どこか芯の通った美しさがある。
「“蒼の炎”かぁ……」と、そらが目を輝かせる。
「ちょっと怖いけど、かっこいいね……!」
そのとき、屋上の扉が開く音がした。
「やあ、盛り上がってるねぇ」
顔を出したのは——東雲先生だった。
軽く全員に目をやり、ふと視線がノートに留まった。
「へぇ、それ見せてもらっていい?」
雫が、少し緊張しながら差し出すと、先生は目を細めてページをめくりながら唸る。
「……これ、メロディつけようか」
誰も返事をしないうちに、先生はパタンとノートを閉じ、雫に返す。
「ちょっと待ってて」と言い残すと、扉に戻り階段を降りていった。
先生が学校備品のポータブルPAを抱えて戻って来る。背中にはギターケース。
「まずはこれとこれ」と息を整えながら、ひとつずつ丁寧に屋上の片隅に置くと、再び階段へ。
何かを察したみゃお先輩も、それに続いて階段へ向かった。
しばらくの間、誰も声を発せず、微かに屋上を吹き抜ける風の音だけが聞こえていた。
——みゃお先輩が、伸ばしたままのマイクスタンドを腰のあたりで水平に保ち、
しかし時折バランスを失いながらよろよろと戻ってきた。
やがて階段の下のほうから、「ゴトッ……」という重たい音が断続的に響いてくる。
しばらく静かになったかと思えば、また「ゴトン」。
間を置きながら、不規則に、けれど確かに何かが運ばれてくる気配があった。
そして先生が姿を現した。
両腕を伸ばし、取っ手をしっかりと握り締めて、体を横向きにしながら、慎重に足を運んでいる。
それは鋭く尖った稲妻のようなロゴと、上下二本の赤いストライプが印象的な、ひどく使い古されたギターアンプだった。
誰も声をかけないまま、見守るようにその様子を見つめる。
先生は屋上に上がりきると、小さく息を吐き、アンプを壁際にそっと下ろして、
「いやー、腕ちぎれるかと思った……」と苦笑しながら設置を始めた。
みゃお先輩は先生の前にマイクを立て、譜面台を組み立てる。
雫はみゃお先輩に耳打ちされ、その上に静かにノートを広げた。
「よいしょっと。……よし、準備万端」
先生がギターを肩にかけ、アンプのスイッチを入れる。
屋上に静寂が戻り、アンプから微かなノイズが聞こえる。
——次の瞬間、音圧がすべてを塗り替えた。
重厚な歪みを纏った低音が曇り空の下に轟き、屋上の空気を震わせる。
鼓膜を震わせ、体の奥底まで響き、全員を飲み込んでいく。
そして、先生が声を放つ。
「——♪この手に残る、果てしない夢 壊れた心が、今再び燃え上がる——!」
怒涛のボーカル。力強く、魂を揺さぶる咆哮。
ギターソロへと突入すると、その指先は稲妻のように指板を駆け抜けた。
「……すごい……!」
そらが思わず呟く。雫も、みゃお先輩も、言葉を忘れて見入っている。
一方、月音はそっと目を細めていた。
胸の奥が高鳴り、体じゅうに震えるような感覚が走る。
彼女にとって、メタルは単なる音楽のジャンル以上のものだった。
けれど、今はただ、この瞬間の音の洪水に身を委ねている。
「なんて言うか……圧倒される。まっすぐで、無理に飾らない、ただ燃えてるって感じ」
小さな声で、でもはっきりと。月音はそうつぶやいた。
その言葉に、みんながふと顔を向ける。
彼女の言葉は説明ではなく、ただ自分の感情そのものだ。
その純粋さが、音の重さと熱量とともに胸に響いた。
突然、ぽつ、と空から何かが落ちてきた。
そらが顔を上げると、冷たい雨粒がもう一つ、もう一つと額を打った。
「あっ、雨……!」
雫が慌ててノートを抱きしめ、みゃお先輩がケーブルをたぐり寄せる。
先生はすでにアンプの電源を切り、ギターをケースに戻していた。
「機材がヤバい、急ごう!」
全員が一斉に動き出す。
そらが譜面台を畳み、月音がケーブルを束ねる。
雫はとっさにマイクをスタンドから引き抜き、小脇に抱える。雨からマイクを守ることしか頭になかった。
続けて持ち上げたスタンドの脚が、足元に引っかかって、思うように歩き出せない。
その慌ただしい動きの中で、胸に抱えていたノートが、するりと腕の隙間から滑り落ちた。
ぱたん、と小さな音を立てて、ノートは濡れたコンクリートの上に転がる。
だが雫は、気づかない。誰もが手一杯な今、その落下音の出処に目を向ける余裕はなかった。
雨脚は瞬く間に強まり、打ちつけるような音がコンクリートを叩いた。
「みゃお先輩、それ私が持ちます!」
「うん、ありがと、そらちゃん!」
誰もが無言のうちに連携し、素早く荷物をまとめていく。
濡れないように、滑らないように。けれど焦りは隠せない。
「照、アンプいける?」
「任せろ!」
壁際にあったおかげで、まだ大きな被害は受けていない、その重たいアンプを両手で持ち上げ、慎重に足を運ぶ照。
いつしか他のメンバーは先に階段を降りていき、屋上には彼だけが残された。
照がアンプを扉の前まで運び終えたそのとき——階段の先に、見知った男子生徒が立っている。
肩に掛けたバッグの端から、スケッチブックの表紙が少し覗いていた。
「おい、お前、なんでここに」
男子は小さくぼそっと何か言うが、雨音に遮られたのか内容ははっきり聞き取れない。しかし、その真剣な眼差しから何かを伝えようとしているのは明らかだ。照は頷き、すぐに応じる。
「わかった、話してくるからちょっと待ってろ」
そう言い残し、照はアンプを扉の内側に置くと、急ぎ足で階段を駆け下りていく。
照の姿が見えなくなるのと入れ違うように、先ほどの男子生徒が静かに屋上へと足を踏み入れる。
雨は依然として激しく降り注いでいた。
彼は濡れるのも構わずゆっくりと屋上を見渡し、ふと足元の水たまりに目を留める。
そこには、雫が落としたノートが痛々しくも広がっていた。
表紙に描かれた“炎”のマークの力強い輪郭は、水の中でなおゆらゆらと揺れている。
男子生徒はゆっくりと近づき、ためらうことなくそのノートをそっと拾い上げ、
雨粒がしたたるそれを、持っていた自分のバッグに大切そうにしまい込む。
そして、彼もまた、静かに屋上を後にした。
雨音だけが、誰もいなくなった屋上に響き続けていた。




