第24話『きつねちゃん、こんにちは』
昼休みの音楽室——。
そらと雫が静かに待つ中、扉がガラリと開いた。
「ほら、着いたよー。入って入って!」
未碧が軽やかに背中を押すようにして、制服姿の後輩を連れてくる。
月音。そらと雫が昨日ノートを通じて名前だけ知った女の子。
「つ、つれてこられた……」
お弁当袋をぎゅっと握りしめたまま、月音は不安そうに足を止めた。
「大丈夫だよ」
未碧が小さく笑い、月音の背を軽く押す。そらと雫も慌てて立ち上がった。
「えっと、こんにちは……」
「昨日、ノート……ありがとう」
そらの言葉に、月音は小さくうなずく。
「この子が、きつねちゃん@tsukinefox だよ。『雨の中でも踊れますか?』ってコメントくれた人」
「えっ──!」
そらと雫が声を揃えて驚く。
「えっと……」
月音は、少し目を伏せながら、それでも声を振り絞った。
「わたし、最初から……見てました。屋上で、踊ってるところ」
「教室から、見上げてたら……すごくきれいで。ずっと、こっそり……」
「それって……」
そらが何かを言いかけたが、その続きを飲み込んだ。
その代わり、雫が一歩、月音に歩み寄った。
「……夕方、茜色の空の下で……二人で踊ってる動画、あったよね。
“この空、すごく好き”ってコメントがついてて、わたし、すごく嬉しかったんだ」
「……!」
月音の瞳が、驚きでわずかに揺れる。
「それ、わたしが書きました」
「“この空、すごく好き”って。あの動画、ほんとうに……好きだったから」
「だから、コメントしたんです。すごくきれいで……逆光のシルエットも、あの空の色も、光も……全部」
「最初から見てたの……月音ちゃん、だったんだね」
そらがスマホを取り出し、動画を開く。
「……あった。『この空、すごく好き』……きつねちゃん」
「その下に……『私も仲間に入りたいな』……MIAOだ」
未碧は、何も言わずに笑った。
その笑みには、隠しごとを明かす楽しさも、少しの照れも混じっていた。
「……えっ?」
言葉が出ない月音の目に、じんわりと涙がにじむ。
——いつも、見てくれてた。
——この人が、あの“MIAO”だったんだ。
誰よりも早く、いつも温かく見守ってくれていた。
毎回欠かさず感想をくれていた。
風の音、空の色、光の具合。
短い詩にも、モノクロのイラストにも。
わたしの、声にならなかった気持ちに気づいて、言葉を重ねてくれた。
それが、目の前にいる——この人。
「きつねちゃんの短い詩とか、イラストとか——すごく好きだったから。いつも見てたよ」
未碧の声が、やさしく響いた。
「ねえ、そらちゃん。せっかくだし、月音ちゃんの詩——読んであげてよ」
「ここに来たってことは、届けたかったんでしょ? だったら、声にしてもらうのがいちばん早い」
雫がそっと、月音のノートをそらに手渡す。
そらはページを開き、数秒だけ文字を見つめ——そして、やさしく目を細めた。
「……うん。読んでみたい」
湿った風が頬をかすめる中、そらは一歩、前へと出た。
静まり返った音楽室にそらの声が響き、やがて風に溶けていく。
そしてまた、音も、言葉もない、ひとときの静けさ。
雫が、ふっと息をこぼした。
それは、ため息ではなく——吸い込んでいた空気を、ようやく吐き出したような安堵だった。
「……すごく、きれいだった」
その声もまた、詩の一部のように、どこかやわらかかった。
そらは月音に顔を向ける。
「ありがとう。……読ませてくれて」
小さく、でもまっすぐに告げられたその言葉に、月音はこくりとうなずいた。
「わたしこそ……読んでもらえて、うれしかったです」
風が吹くたびに、ページがふわりと揺れ、まだ読みきれなかった想いが舞い上がるようだった。
未碧は何も言わず、どこか遠くを見るような目で空を仰いでいた。
瞳の奥で何かを思い出すように、ゆっくりと、まばたきを一つ。
「……やっぱり、ここ好きだな」
ぽつりとこぼれた言葉には、懐かしさと、いま目の前にある風景への愛しさが同居していた。
そらも、雫も、月音も、その言葉に引き寄せられるように空を見上げる。
窓の外にはまだ淡い雲が残り、にじむような光が静かな音楽室に届いていた。
「……こんなふうに、言葉にできるんだね」
そらのつぶやきに、月音は少し照れくさそうにうつむいた。
「でも……言葉だけじゃ、たりなくて」
「たりなくてもいいと思うよ」
不意に、雫が言った。
その横顔は真剣で、でもやさしかった。
「足りないぶんを、誰かが受け取って、つないでくれるから」
静かな風がまた吹いて、スカートの裾と、月音の髪を揺らす。
——知らない誰かのはずだった。
でも、みんながここにいて、同じ空を見ている。
この場所に集まった意味が、ようやく胸に、ひとつ、落ちてきた。
そらが、少しだけ笑った。
「じゃあ——この空の続きを、一緒に描こうよ」
月音が、目を見張った。
その笑顔は、動画の中でしか見たことがなかった。
いつも遠くにあった、憧れのまなざしだった。
でも今は、手が届く距離にある。
ほんの少しだけ、涙がにじみそうになって、慌てて上を向く。
誰にも見られたくなかった。けれど——
「……ここにいて、いいですか」
自分でも驚くほど小さな声で、月音は言った。
「いいに決まってる」
未碧が言った。間髪入れずに。
雫も、そらも、何も言わず、ただ笑った。
空のキャンバスに、またひとつ、光の色が足された気がした。
きっと、この瞬間から——“わたし”の空も、変わっていく。
「あまつぶの小径」
長い雨音
耳を澄ませば
いつしか遠く
霞んで消えた
カーテンの隙間
こぼれる光
まぶたの裏に
淡い金色
洗い立ての葉
雫がきらり
小さな虹を
宿しているね
アスファルトの道
草の匂いが
そっと風に
運ばれてくる
誰かの鼻歌
聞こえた気がして
開けた窓辺に
白い蝶々
昨日までの
景色とは 少し
光の色が
違うみたいだ
あまつぶの小径
辿ってゆけば
陽だまりの笑顔
そこにあったの
水たまり映す
空のキャンバス
君と指さす
ひこうき雲
心がふわりと
軽くなるような
そんなメロディ
口ずさむ午後
古びた絵本に
栞をはさんで
新しいページ
めくるみたいに
知らなかった歌
知らなかった気持ち
ひとつひとつが
愛おしいんだ
あまつぶの小径
どこまで続く?
木漏れ日のように
笑い声降る
心を埋めてく
虹色の楽譜
君にも見せたいな
この空の色
小さな勇気が
芽生えてくるような
そんな予感に
胸が躍るよ