第23話「扉を開く鍵」
昼休みを告げるチャイムが鳴り終わる頃、伏見月音は、そっと最後の一行を書き終えた。
数式に埋もれたノートの最終ページに、小さな声のように綴られた言葉
——『あまつぶの小径』。
授業の内容は、正直ほとんど頭に入っていなかった。
けれど今、月音の胸を満たしているのは後悔ではなかった。
(……行かなきゃ)
誰にも気づかれないように、そっと席を立つ。
昼休みの喧噪をよそに、ひとり階段をのぼって——
屋上へと続く扉の前で、月音は立ち止まった。
白い指先が、鉄の扉にそっと触れる。
——だが。
「……あ」
扉は開かなかった。
がちり、と硬い音がして、動かない。鍵がかかっている。
ふっと、肩の力が抜けた。
月音はそのまま踵を返し、静かに階段をおりていく。
背後の鉄扉は、何事もなかったかのように、ただ静かにそこに佇んでいた。
そして、放課後。再び屋上への階段をのぼる。
(大丈夫、今度こそ——)
けれど、手をかけた扉はびくともしなかった。
かちり、と同じ音。また、鍵がかかっている。
「……っ」
わずかに力が抜けた、そのとき。
「……あれ?」
背後から、小さな声がした。
振り向くと、そこにいたのは——
動画に映っていた、あの少女。翠谷雫だった。
雫は無言のまま、ポケットから鍵を取り出すと、扉に差し込む。
がちゃり。鉄の扉が、静かに開いた。
続いて階段の下から、制服のスカートをふわりと揺らして、そらが姿を現す。
「え、あ、えっと……」
頭が真っ白になる。ことばがうまく出てこない。
それでも、どうしても伝えたくて——
「……ずっと、見てました。あの……ファンです」
そう言って、かばんから一冊のノートを取り出し、そらの胸元へ差し出した。
「これ……見てほしくて」
そらが驚いたようにノートを受け取ったその瞬間、月音は逃げるように走り出していた。
ノートの表紙には、1年生のクラス名と出席番号、そして——伏見月音という名前。
そらは受け取ったノートを胸に抱えたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
去っていった少女——伏見月音の後ろ姿が、頭の中に焼きついて離れない。
「……すごいね」
ぽつりと雫が言った。
「うん。……ちゃんと、言葉にできたんだね」
照がやや遅れて階段を上がってきたとき、二人はまだ屋上の前にいた。
そらは振り返って、そっとノートを抱きかかえ直す。
「雫ちゃん……これ、持っていかない?」
雫は一瞬きょとんとして、それから真剣な顔でうなずいた。
「うん。……届けよう。未碧先輩に」
その名前が出たとき、そらの表情が少しだけ和らいだ。
そして三人は、まだ薄明るい放課後の廊下を並んで歩き出す。
音楽室の前まで来ると、そらが軽くノックした。
照は少し離れた場所で、壁にもたれて待っていた。
——返事はない。
だが中から、ピアノの低い音が、ぽろん、ぽろん、と転がるように聴こえてきた。
未碧はいつものように、ひとりで弾いていた。
「入ろうか」
雫が言って、静かにドアを引く。
扉のきしむ音に、未碧が振り向いた。
「あ、そらちゃん。……雫ちゃんも。どうしたの?」
ピアノの音が止む。
そらは、手にしたノートをぎゅっと抱えて一歩前に出た。
「先輩……これ、読んでみて下さい」
ノートを両手で差し出す。
未碧は少し驚いたように目を見開いて、それを受け取った。
「これ……?」
ページをぱらぱらとめくっていた指が、ふと止まる。
最後——いや、ノートの背表紙側。
誰にも見られたくない秘密のように、そこには一編の詩が綴られていた。
——『あまつぶの小径』
未碧はそのタイトルを目で追い、そっと読みはじめる。
長い雨音、カーテンの隙間、ひこうき雲、虹色の楽譜……。
その小さな詩の中に、たしかに「音」があった。
耳に残るような、けれど胸の奥でじんわりと広がっていくメロディ。
「……この詩……音が聞こえる。匂いまで……する」
未碧が、ぽつりとつぶやいた。
そのまま、表紙に戻る。
見覚えのあるクラス名、そして——どこかで聞いたような名前。
「……月音……?」
目を見開き、呆然とつぶやく。
そしてもう一度、詩のタイトルに視線を戻す。
「@tsukinefox……やっぱり」
椅子から立ち上がった未碧の背中には、もう迷いがなかった。
ノートをそっと胸に抱いて、ピアノの蓋を静かに閉じる。
「……ただ返すだけじゃ、終われないよね」
その声は、小さく、それでいて確かな決意を孕んでいた。
——翌日の昼休み。
宝探しでもするみたいに、彼女は一年生の教室が並ぶ廊下を歩いていた。
「ねえねえ、この子知ってる?」
数学のノートを抱えた小柄な三年生に、突然話しかけられて戸惑う一年生たち。
——やがて
「きつねちゃーんっ!」
元気な声とともに、勢いよく教室に飛び込んできたのは、見慣れない緑のリボンをつけた、童顔ツインテールの少女だった。
そのまま一直線に、月音のもとへ向かってくる。
一瞬だけ、未碧の足が止まった。
窓際、一番後ろの席に座る少女。
——そこは、二年前の自分が、ずっと座っていた席だった。
その横顔に、過去の自分を重ねて、息を呑む。
「え?」「だれ?」「先輩……?」「友達……?」「“きつねちゃん”?」
ざわつく教室。
戸惑う月音。
彼女の頭に浮かんだのは——
(この人、ピアノの……あの、動画の……)
その確信だけだった。
未碧は、胸の奥からこみ上げてくる何かを振り払うように、声を上げた。
「行こ、音楽室っ!」
有無を言わせず、月音の手を引いて、教室を飛び出す未碧。
その背中に、誰かがぽつりとつぶやいた。
「……あれ、ピアノの人じゃね?」
だが、それ以上に詮索する者はいなかった。
——Aozora Dropの正体は、まだ。
校舎のどこか、空の下のどこかにある幻想のままだった。




