第22話「あまつぶの小径」
——伏見月音・視点——
西に傾きかけた太陽の下、青空はまだ、どこまでも広がっていた。
放課後——教室の窓をすり抜けた風が、髪を優しく揺らしていた。
私は三階の教室から、屋上を見上げた。
西日を浴びて、フェンスの内側に立つひとりの姿が見えた。
髪がふわりと浮かんだ瞬間、何かを受け取るように両手を伸ばした少女。
名前も知らない、遠くの誰か。
でも、どうしてか、その人の動きから目が離せなかった。
風と呼吸を合わせて踊るみたいな——
何も飾っていないのに、何かを強く伝えてくるような、そんな姿だった。
私は、それをカーテンの隙間から——ただ、じっと見ていた気がする。
すると、その“誰か”がふと動きを止めた。……視線に、気づかれたのかもしれない。
すっと背中を向けて、フェンスの奥へと姿を消した。
——それが、“始まり”だった。
「#放課後 #屋上ダンス #空が好き」
最初に見た動画には、そう書かれていた。
映っていたのは、まさに——あの屋上、あの“誰か”だった。
短い髪の子と向かい合っていた。ふたりはまるで、鏡合わせみたいに動き出す。
逆光の中、輪郭が浮かび上がるような美しい映像だった。
「この空、すごく好き」
私は、そうコメントを残した。
何日かが過ぎたある昼休み。
午後の光が少しだけ色を深めてきた頃。
彼女はまた屋上にいた。
踊ってはいなかった。ただ、風を受けていた。
遠くの空に向かって、小さく笑ったように見えた。
ちょうどそのとき、ひとすじの飛行機雲が、ゆっくり空を横切っていた。
最近、とても静かな動画が投稿された。
タイトルはなかった。
しっとりしたバラードにのせて、濡れたコンクリートの屋上で踊るふたり。
映像はほんのすこしだけ滲んでいた。
光と影がゆっくりと溶けあうようで、風の音がわずかに混じっていた。
わざとスローにした映像の中で、動きだけが鮮やかに残っていた。
「雨の中でも踊れますか?」
その動画に、そうコメントを残した。
あの滲んだ映像は、わたしの胸の奥に降る雨と似ていたから。
放課後の音楽室。
ツインテールの小柄な女子生徒が、ピアノに向かっていた。
窓の外から見ただけなのに、すぐにわかった。
——この人が、あの動画の音源を奏でていたんだ。
耳に残るピアノの旋律。繊細なタッチと、温かい響き。
全部が、やっとひとつになった気がした。
音と映像がつながって、“彼女たち”の姿が浮かぶようになった。
日常の風景が、少しずつ変わっていった。
空を見上げるたびに、胸の奥がふわりと軽くなっていくようだった。
「あの空の下で、今日も踊ってるのかな……」って。
視線が変わった。
耳が、自然と音を探すようになっていた。
教室の窓、空の色、放課後の気配。
すべてが“鮮やか”になった。
言葉が浮かんできた。
メモ帳に残したフレーズが、ひとつの形になっていった。
——『あまつぶの小径』
詩を書くのは、ずっと前からだった。
教室での出来事、季節の変わり目、通学路の風景。
そういうものを言葉にして、たまにSNSに投稿していた。
誰が読むわけでもない、短い詩。
ノートの隅にシャーペンで描いた小さなイラスト。
でも、ひとりだけ、毎回感想をくれる人がいて、
それが、唯一の外との繋がりだった。
「私」の存在を、認めてくれた気がしていた。
でも、最近は変わってきた。
動画を見て、音を聞いて——
空の色を知って、あの子たちの時間に触れて——
私は、詩を“届けたく”なっていた。
そして動画がバズった。
コメント欄が騒がしくなった。「これ、うちの学校じゃない?」
ざわざわと、周囲の視線が変わっていく。
秘密の場所じゃなくなる。少しだけ、怖かった。
でも——どこか、嬉しくもあった。
そして、今。
私は、その詩を持って校舎を歩いている。
心臓が、いつもより速く鳴ってる。
「この詩を見せなきゃ」って、思ったから。
だけど……“あなたたち”に、話しかける勇気はまだなかった。
それでも、今日の私は、ほんの少しだけ前に進める……そんな気がしていた。




