第17話「視線の記憶」
朝の教室。
窓際の席に座るそらは、ふと顔を上げて、周囲を見回した。
以前なら、気配を消すようにして過ごしていたはずの場所。
だけど今は、なんとなく空気が違って見える。
隣の席では、雫が黙々とノートにペンを走らせていた。
その横顔に、そらはそっと微笑む。
教室の空気は、ほんの少しだけ柔らかい。
たったそれだけの違いが、今のそらには嬉しかった。
「おはよう、翠谷さん」
ふいに前の席の女子が振り向いて声をかけた。
雫は少し驚いたように瞬きをしたあと、ぎこちなく笑って「おはよう」と返した。
それだけのやりとりに、そらの胸がふっと温かくなる。
(……ちゃんと、広がってる)
自分たちの音楽が、誰かに届くかもしれない。
それが小さな変化を呼んで、こうして誰かの言葉になって返ってくる。
この日常が、少しずつ変わっていく。
*
放課後の音楽室。
みゃお先輩はピアノで、そっと「Aozora Drop」のサビのメロディを奏でていた。
柔らかくて、どこか懐かしい旋律。
けれど、その中には確かな前向きさがあった。
譜面に書かれた雫の歌詞を見つめながら、そらは小さく息をのんだ。
胸の奥の、言葉にならなかった気持ちが、そこに並んでいる気がして。
——春風、影がふたつ、閉ざした扉の向こうに広がる青空。
「……やっぱり、雫ちゃんの詞、いいね」
みゃお先輩がぽつりと呟く。
雫が小さく首を傾げる。
「最初に読んだとき、思わず涙出そうになっちゃった。強がってる自分も、誰にも見せたくなかった不安も……全部、そのまんま歌になっててさ」
そらがそっと雫を見ると、雫は少しだけ耳を赤くしていた。
「“影がふたつ 並んでる ただそれだけで”って……ほんとに、そうだよね。誰かと並んで歩けるだけで、なんであんなに、救われるんだろ」
静かに語るみゃお先輩の声に、そらも心の奥が温かくなっていくのを感じていた。
「……私、この曲を聴くたびに思うの。歌詞のどこにも“さよなら”なんて言葉はないのに、“さよなら”を乗り越えた誰かが、ここにいる気がして。ちゃんと前に進もうとしてる人の歌だなって、思うの」
「……“始まり”の歌、ですね」
雫がぽつりと返す。
みゃお先輩はうんうんと強く頷いた。
「うん。すごく、前を向いてる。ちゃんと、未来に手を伸ばしてる。──羨ましいくらいに、まっすぐ」
「そらがいてくれたから、書けたんです」
「……え?」
急に振られて、そらが目をぱちくりとさせる。
「うつむいてた私の手を、引いてくれたから。……だから、この歌は、“私たちの青空”です」
一瞬、静かになった音楽室に、夕陽が差し込む。
その光が、三人を優しく照らしていた。
*
帰り道。
中庭に差し込む夕日が、そらの髪を茜色に染めていた。
「ありがとう、照くん」
思わず口にした言葉に、照が目をぱちくりと瞬いた。
「……俺?」
「うん。照くんが、あの日屋上で……私を見つけてくれたから。今、こんな風に仲間と踊って……歌まで歌えてる。ずっと憧れてたアイドルみたいに」
そらは、そう言って目を細める。
春の光を受けたその瞳は、少し眩しそうに、それでも確かな輝きを宿していた。
「ああ……」
照は照れたように頭をかきながら、目を細めた。
「よかったな。──踊り場から偶然、そらを見つけたあの日の俺を褒めてやりたいよ」
「……踊り場?」
思わず聞き返して、そらは首をかしげた。
自分があの日、視線を感じたのは、確か……。
「私、向かいの校舎の教室から……カーテンの隙間からの視線を感じてて。だから、照くんの話と、少し違うかも……」
ふたりの間に、一瞬、静寂が落ちた。
「じゃあ──もうひとり、いたってことか?」
照が口にしたその可能性に、そらは小さく息を呑む。
思い出そうとする。あのときの、あの感覚を。
でも、どこか掴みきれない。
「……でも、それなら、いつかきっとわかるよ」
雫がぽつりと言った。
「この場所を見つけてくれる人が、また現れるなら」
その言葉に、そらはそっと目を閉じる。
夕暮れの風が、そっと髪を揺らした。
*
静まりかけた校舎の三階。
白いカーテンの向こう。誰かが、屋上をじっと見つめていた。
気づかれぬように、けれど確かに。
その視線は、今日もそこにあった。




