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第17話「視線の記憶」

朝の教室。


窓際の席に座るそらは、ふと顔を上げて、周囲を見回した。


以前なら、気配を消すようにして過ごしていたはずの場所。


だけど今は、なんとなく空気が違って見える。


隣の席では、雫が黙々とノートにペンを走らせていた。


その横顔に、そらはそっと微笑む。


教室の空気は、ほんの少しだけ柔らかい。


たったそれだけの違いが、今のそらには嬉しかった。


「おはよう、翠谷さん」


ふいに前の席の女子が振り向いて声をかけた。


雫は少し驚いたように瞬きをしたあと、ぎこちなく笑って「おはよう」と返した。


それだけのやりとりに、そらの胸がふっと温かくなる。


(……ちゃんと、広がってる)


自分たちの音楽が、誰かに届くかもしれない。


それが小さな変化を呼んで、こうして誰かの言葉になって返ってくる。


この日常が、少しずつ変わっていく。



放課後の音楽室。


みゃお先輩はピアノで、そっと「Aozora Drop」のサビのメロディを奏でていた。


柔らかくて、どこか懐かしい旋律。


けれど、その中には確かな前向きさがあった。


譜面に書かれた雫の歌詞を見つめながら、そらは小さく息をのんだ。


胸の奥の、言葉にならなかった気持ちが、そこに並んでいる気がして。


——春風、影がふたつ、閉ざした扉の向こうに広がる青空。


「……やっぱり、雫ちゃんの詞、いいね」


みゃお先輩がぽつりと呟く。


雫が小さく首を傾げる。


「最初に読んだとき、思わず涙出そうになっちゃった。強がってる自分も、誰にも見せたくなかった不安も……全部、そのまんま歌になっててさ」


そらがそっと雫を見ると、雫は少しだけ耳を赤くしていた。


「“影がふたつ 並んでる ただそれだけで”って……ほんとに、そうだよね。誰かと並んで歩けるだけで、なんであんなに、救われるんだろ」


静かに語るみゃお先輩の声に、そらも心の奥が温かくなっていくのを感じていた。


「……私、この曲を聴くたびに思うの。歌詞のどこにも“さよなら”なんて言葉はないのに、“さよなら”を乗り越えた誰かが、ここにいる気がして。ちゃんと前に進もうとしてる人の歌だなって、思うの」


「……“始まり”の歌、ですね」


雫がぽつりと返す。


みゃお先輩はうんうんと強く頷いた。


「うん。すごく、前を向いてる。ちゃんと、未来に手を伸ばしてる。──羨ましいくらいに、まっすぐ」


「そらがいてくれたから、書けたんです」


「……え?」


急に振られて、そらが目をぱちくりとさせる。


「うつむいてた私の手を、引いてくれたから。……だから、この歌は、“私たちの青空”です」


一瞬、静かになった音楽室に、夕陽が差し込む。


その光が、三人を優しく照らしていた。



帰り道。


中庭に差し込む夕日が、そらの髪を茜色に染めていた。


「ありがとう、照くん」


思わず口にした言葉に、照が目をぱちくりと瞬いた。


「……俺?」


「うん。照くんが、あの日屋上で……私を見つけてくれたから。今、こんな風に仲間と踊って……歌まで歌えてる。ずっと憧れてたアイドルみたいに」


そらは、そう言って目を細める。


春の光を受けたその瞳は、少し眩しそうに、それでも確かな輝きを宿していた。


「ああ……」


照は照れたように頭をかきながら、目を細めた。


「よかったな。──踊り場から偶然、そらを見つけたあの日の俺を褒めてやりたいよ」


「……踊り場?」


思わず聞き返して、そらは首をかしげた。


自分があの日、視線を感じたのは、確か……。


「私、向かいの校舎の教室から……カーテンの隙間からの視線を感じてて。だから、照くんの話と、少し違うかも……」


ふたりの間に、一瞬、静寂が落ちた。


「じゃあ──もうひとり、いたってことか?」


照が口にしたその可能性に、そらは小さく息を呑む。


思い出そうとする。あのときの、あの感覚を。


でも、どこか掴みきれない。


「……でも、それなら、いつかきっとわかるよ」


雫がぽつりと言った。


「この場所を見つけてくれる人が、また現れるなら」


その言葉に、そらはそっと目を閉じる。


夕暮れの風が、そっと髪を揺らした。



静まりかけた校舎の三階。


白いカーテンの向こう。誰かが、屋上をじっと見つめていた。


気づかれぬように、けれど確かに。


その視線は、今日もそこにあった。

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