第1話「屋上のひとりごと」
私立陽向学園、高等部。
放課後を告げるチャイムは、そらにとっていつも、少しだけ切ない合図だった。
賑やかな声が遠ざかっていく教室で、ひとり机に残っていると、鼻の奥がつんと痛んで、泣きたくなるような、でもどこか安心するような、不思議な気持ちになる。
春、新学期。まだ誰もがお互いの輪郭を探っているような、初々しさ。
星野そらは、そのキラキラした輪の中にうまく入れずにいた。
話しかけられれば、練習したとおり口角を上げて頷ける。
でも、自分からその輪に一歩踏み出す勇気が、どうしても見つからない。
まるで、自分だけがスクリーンの裏側にいるみたいで――
どんなに手を伸ばしても、指先すら触れられない気がした。
だけどそらには、ずっと消えない憧れがある。
(アイドルって、すごいな……)
テレビや動画で見るアイドルたち。きらきらした衣装で、まっすぐカメラを見て笑うその姿に、どれだけ救われてきたか。
中学生の頃、家にこもっていた時期がある。友達とうまくいかなかった日も、何もかもうまくいかない日も、スマホの中のあの子たちは、変わらず笑っていた。
(私も……あんなふうになれたら)
でも、それは誰にも言えない、胸の奥に閉じ込めたささやかな憧れ。現実は、ステージなんて眩しすぎて直視できない。ダンス部の部室から時々聞こえてくるアイドル曲。入り口の前で足を止めたことはあるけれど、ドアを開ける勇気は出なかった。
ガチな人たちの中に、自分が入るなんて無理だ。
だからそらは、ひとりの時にだけ踊る。家の中、カーテンを閉めた部屋の隅。誰にも見られない、自分だけのステージ。
ある日の放課後、そらは人気のない渡り廊下を駆け抜け、音楽室のある特別棟へ向かった。
最上階へ辿り着くと、心臓が小さく音を立てる。
わずかな罪悪感を覚えながら、錆びた鉄の冷たさを確かめるように、鍵のかかっていない屋上への扉をそっと開ける。
風が、優しく頬を撫でた。
誰もいない屋上で、それだけが無条件に、やさしかった。
埃っぽいコンクリートの匂いと、春の陽射しの匂いが、胸に静かに染み込んでいく。
フェンスの向こうには、どこまでも続く青。
遠くの屋根、街路樹、すべてが小さく見えた。
学校で唯一、誰の視線も届かない場所。
ここでなら――踊ってもいいかもしれない。
下の階から、かすかに音楽が漏れてくる。
ダンス部が使っているアイドルソングだった。
覚えた振り付けが自然と体を走る。
指先から、足の爪先まで、音楽が満たしていく。
ここが私のステージ。観客は、西に傾きかけた太陽と、流れていく雲だけ。
ふと、向かいの校舎に目をやった――その瞬間、そらの心臓が跳ね上がった。
誰かがいた。
教室の窓。揺れるカーテンの隙間。ガラスに反射した光の奥で、確かに誰かの影がこちらを見ていた。目が――合った気がした。
思考が止まる。
数秒後、耳まで真っ赤に染まっているのが自分でもわかった。そらは、まるで操り人形の糸が切れたように、ぴたりと動きを止めた。
「うそ、見られた……?」
恥ずかしさと、ほんの少しの高揚感が、胸の中で静かに混ざり合う。
秘密が暴かれたはずなのに――なぜか、“見つけてもらえた”ような、不思議な安堵があった。
(誰かに、見られた。私の、ひとりだけのダンスが――)
それは、誰にも届かないと思っていた、私だけの“ひとりごと”だった。
【劇中歌プレイリスト】
https://youtube.com/playlist?list=PLXQVDdlnX86cDoXjk4TfuBJ8d58lJ8Baj