缶コーヒーは微糖が一番うまい
「えっ、あの電車にそんなお婆ちゃんが・・・大丈夫だったのかな」
その女は座太郎から話を聞いてショックを受けた様子だ。
「って、譲ってあげなきゃダメじゃないですか!あんな殺伐とした潰し合いに巻き込まれたらケガしちゃいますよ!」
「アンタな!」
座太郎は思わず声を荒げた。結局は想像通り正義感が強い学級委員長タイプの人間だ。本来の目的はどうあれ結局座太郎に注意してきた。
「それで、お婆ちゃんは大丈夫だったんですか?」
「知らないよ。俺は。座ってただけなんだから」
「そんな・・・」
「アンタだって押し潰されてただろ?人の心配も大事だがアンタは大丈夫だったのか?あの時間の電車は混むし、苦しかったんじゃないのか?」
「見ていたんですね・・・心配してくれてありがとうございます」
女は自分の肩を撫でる。どうやらあの中で痛めていたみたいだ。
「・・・いや、もういいや。それで、もういいから用件は何ですか?」
もう早く帰宅したい。レモンサワーをゆっくり飲みたい。
「じゃあ、すみません、あっちでちょっといいですか?」
女がホームにあるベンチを指さした。
「はぁ、どうして・・・やれやれだ・・・」
電車の中では絶対に座りたい座太郎だが外ではそこまででもない。別に特段座りたくない。今はただ早く帰りたいだけ。
指定されたベンチに仕方なくトボトボと歩いていく。
女は自販機で飲み物買っていた。ガタン、ガタン、と二人分。
ここで座太郎は初めて思う。じゃあ何の話なんだ?
「お疲れの中お時間いただいてすみません、これ、飲んでください」
微糖の缶コーヒーを座太郎に渡して右隣に座る女。
「それで、話って?」
コーヒーを受け取り、迷わずフタを開けて一口飲む。
駅のベンチからはいくつものタワーマンションが見える。座太郎はたまにこうしてこの景色を見ることがあった。いつもと変わらず美しい光を放つビル群。その光景の美を缶コーヒーとともに味わう。
「では改めて、本日はありがとうございます。突然話しかけてしまってすみません」
座太郎の方を向き礼儀正しくお礼を伝えて女は続ける。
「遅くなってしまい申し訳ありません、京浜エリと申します。大学を卒業してこの春から就職で上京しました」
「武蔵、武蔵座太郎。座る太郎と書いて、ざたろう。27歳。それで?」
座太郎は相手が新卒の若造と知り若干警戒を解いた。何か大きなトラブルになる感じでもなさそうだ。
「武蔵さん、ですね。私は3月からこの街に引っ越して、通勤のために毎日この電車に乗っていて。それで武蔵さん、あなたを目にすることが多くて」
こんなことがあるのか。
座太郎は関心がないフリをしてハードボイルドな表情でタワマン群を見つめる。
大学を卒業し上京したばかりの若い女の子から好意を寄せられる。そして相手が勇気を出して声をかけてくる。
座太郎はエリの方を向かない。向けばいいものの、恥ずかしい。つい先ほどの記憶の中のエリを思い出す。小柄でショートカットでちょい強気で明るそう、年下なのに引っ張ってくれそうな感じ。
顔は滅茶苦茶タイプだ。間違いなく可愛い。天真爛漫な美少女。そしてさらに特筆すべきはその優しさ。満員電車で自分は体を痛めていたにも関わらず年配の女性の心配をする。
座太郎の人生に天使が降臨した瞬間だった。
『・・・〇〇駅での緊急の救護活動により・・・当分の間運転を見合わせます・・・』
駅のアナウンスが入る。どうやら先ほどまで通ってきた駅で救護活動があり上下線ともに完全に運行を停止したようだ。この時間帯にこの駅から電車に乗る客はほとんどおらず、ホーム上にはベンチに座る座太郎とエリしかいない。
五月の風が心地よくホームを吹き抜ける。
座太郎はコーヒーをまた一口飲む。
美味い。ブラックしか飲んでこなかったが微糖が一番美味い。
「行きも帰りも武蔵さんを見つけて」エリが続けた。
「・・・うん、それで?」と座太郎。
何も期待をしていない、を取り繕う座太郎。が、内面は全然違う。高性能のCPUのようにフル稼働で思考を巡らせていく。これから毎朝一緒に通勤することになったらどうしよう?空きやすい座席のポイントを教えて二人一緒に並んで座ろうか。帰りは毎晩このベンチで待ち合わせるってのも悪くない。今日は買ってもらったから次は俺がコーヒーを買ってやろう。このあと、もしかして飲みに行く流れになるのだろうか?ああそうだ、金曜日の夜に一人でレモンサワーなんて寂しすぎる。週末もどこかに誘われたりして。やっぱり相手が積極的だといいな。
心なしかタワマン群の光がいつもより眩しく輝いている。
京浜エリ、俺も君のことが好きだ。
「京浜さん、勇気を出して話しかけてくれてありがとう。それで続きは?」
「あっ、はい、それで・・・いつも座ってるなって・・・」
「・・・ん?」
「その、こんなことを初対面の方に聞くのはとても恥ずかしいんですけど、どうすれば電車って座れるんですか?」
エリは興奮しているのだろうか、今にも立ち上がってしまいそうな勢いで隣に座る座太郎に尋ねてきた。
風景を見て気取っていた座太郎もその勢いに飲み込まれてエリの方を向く。
至近距離で見つめあう二人。
座太郎は慌てて視線を逸らす。
ああ、やはりタイプだ。
「私も座りたくて・・・」エリが続ける。
「上京して新生活で仕事も覚えることだらけで大変で・・・いつも帰宅する頃にはクタクタで。想像してた社会人ライフと全然違っていて。そこで考えてみたんです、どうしてこんなに毎日大変なんだろう?疲れちゃうんだろう?って。都会での生活は新鮮で田舎と違う魅力もいっぱいあって刺激も多くて楽しいし、仕事もまだまだ覚えることだらけだけど、上司も先輩も同期も優しくて楽しさの方が多いくらいなんです。じゃあどうして?じゃあどうして毎朝気持ちがどんよりとしてしまうの?日曜日の夕方に切なくなって実家に帰りたくなるの?仕事も生活も嫌なことなんてないはずなのに。本当に不思議に思い私はある休みに時間を取ってゆっくりと考えてみました。そして辿り着いた答えはただ一つでした」
喋りながらエリがどんどんと生き生きとしていく。
「電車だ。通勤の電車が嫌なんだ。毎朝、そして毎晩乗るこの電車。この通勤時間で体力も精神力も、その大半が失われているんです。まず朝。これからどんなに楽しく素晴らしいことが待っているか分からない生まれたての輝かしい一日。それが朝の通勤電車で蹂躙されます。あんなに輝いていた人生で一度しかない今日という日、その光が一気に弱くなっていきます。そして夜。仕事も終わって開放的な気分、ここからはプライベートモード。残り少ない今日が朝とはまた違う綺麗な色で輝きます。でも駅について電車に乗るとその光は一瞬で闇へと変わります。その輝きは満員電車の圧力に押し潰され消えていきます。そして家に着いた頃には心身ともに疲労困憊で、明日の通勤を憂いて布団に入る日々が続いていくんです。でも私はここで諦めませんでした」
おそらく今日も帰りの電車で失ったはずの光を再び纏って、キラキラした目で真っすぐに座太郎を見つめるエリ。
「武蔵さん、アナタです。アナタは私の希望です。最初の数週間で絶望した私はそれから数日の間、じっくりと観察を続けました。満員電車で押しつぶされない場所はどこだろう?一番痛みのない立ち方はどうだろう?女性が多くて安心して乗れる車両はどこだろう?とか。そして、そこで気づいたんです」
エリは空気を吸い込み、重大な発表をするかのように一拍おいて話を続けた。
「電車っていつも同じ人たちが座ってるって」
エリがそう言い放った瞬間、静寂が駅のホームを、そして世界を包んだ。
まるで解き明かされてはいけない真実が明るみに出たかのように。