7月31日。金曜日。
7月31日。金曜日。
座太郎は駅へと向かって歩く。その足取りは重い。感じたことのない緊張感を背負いながら駅舎を見る。通勤でこの駅を利用するのは今日が最後だ。ほんのわずかな感慨。そう、ほんのわずかだ。何年も通い続けた駅への思いよりもメガネのスワリストの言葉の方がずっと重い。今日、座席に座ることができればハジメの死の真相を知ることができる。座ることができれば。
昨日は座れなかった。スワリストとして最高のモチベーションを保ち、完璧な理論のもと座れる座席を割り出しホームから車両へ乗り込んだ。座太郎が狙った席、空いていた。しかし座ることはできなかった。その席は前の晩に話しかけてきたメガネの男に獲られてしまった。彼は何か満足げな表情で座太郎を見つめていた。
昨日のことを思い出すと恐くて足がすくむ。またアイツに負けてしまうんじゃないだろうか?改札を通ることができない。今日は絶対に座らないといけないのに。
「座太郎!」
声が響く。振り向くとエリがいた。
「今日が最後だね、最後は座れるといいね」
そう言って彼女が一歩前に出て改札を通った。
「ああ・・・」
座太郎はエリの後を追うように改札を通る。
今日が最後とかはもうどうだっていい。ハジメの死の真相を知るために座らないと。エリが何やらお喋りをしてくるが全く耳に入ってこない。
「・・・って聞いてるの座太郎?」
ずっとエリが必死に話しかけていたが座太郎の耳には届いていなかった。
「ちょっと、静かにしてくれないか?生徒会長。俺に話しかけないでくれ」
座太郎はエリを冷たく突き放した。
「ご、ごめん・・・」
エリが何か凄く悲しそうな表情を浮かべた。
「そうだよね、最後だから集中したいよね。じゃあ、最後だからこれだけは言わせて。本当にありがとう。おかげで大事な人がまた笑顔に戻ったから。じゃあ、最後も遠くで応援してるから頑張ってね」
「ちょ・・・そういうわけじゃ・・・」
座太郎は去っていくエリの背に手を伸ばす。最後。その言葉が何か重く心に響いた。この駅を使うのは今日が最後。それには何の感傷も湧かなかった。でもそれはつまりエリと出会うことも最後なのだ。そして彼女は去っていった。これが最後だったのだ。
「おい、いいのかよ?」
座太郎がエスカレータに乗っていると前にいたサラリーマンが声をかけてきた。誰だ?色々な思いが頭を駆け巡りパンクしそうになりながらその顔を見る。そのサラリーマンは座太郎だった。
「生徒会長、行っちまったな・・・」
心の声を代弁するかのように呟いてくる。
「最後か・・・もう会えないな・・・この人生で・・・」
うるさい。
「メガネのスワリスト。昨日は負けたけど今日は勝てるのか?何か対策はあるのか?」
「・・・」
対策はない。相変わらず痛いところを突いてくる。もう一人の自分。
「このままじゃお前はあの男に勝てないぜ。絶対にな」
「・・・そんなこと、やってみないと分からないじゃないか」思わず反論する座太郎。
「いや、俺には分かるんだよ。それはつまりお前にも分かっているんだ。アイツには勝てないって。だったらこんな勝負なんてしないでエリの元へ行ったらどうだ?最後くらい一緒に通勤すればいいじゃないか?まあここの電車じゃゆっくり座りながら通勤なんてできないが、新宿駅で一緒に愚痴なりなんなり言って普通に話せばいいじゃないか?次に会う約束をすることだってできる。まだ引き返せるぜ?どうしてお前はそうやって、普通に生きられないんだよ?」
「今日座れないとハジメさんの死の真相が・・・」
「それを知ってどうする?お前はもうスワリストを辞めるんだろ?あんな奴の死について知ったって意味がねぇじゃねぇか?普通に暮らすって決めたんだろ?だから引っ越しをするんだろ?だったらお前が今向かうべきはハジメじゃねぇだろ?」
「・・・」座太郎は何も言わずに自分の足元へと視線を落とす。
「いい加減にしろっ!」
もう一人の座太郎が怒号を飛ばした。
座太郎は顔を上げる。
しかし、そこに彼の姿はなかった。
エスカレータはちょうどホームへと到着した。
対策、メガネ、スワリスト、エリ、引っ越し、ハジメ、もう一人の座太郎・・・あらゆる思いがグルグルと渦巻き思考に集中ができない。それでもホームを見渡しその状況を分析して並ぶ位置を決めなきゃいけない。混雑具合、社会情勢、気温、日差し・・様々な要素を分析してまだ誰もいないホームの先頭に立つ。本当にここで大丈夫だろうか?いつものような自信はなく不安に押しつぶされそうになる。
そんな時、背後から声がした。
「勝負の日だな・・・スワリスト」
聞き覚えのある声。
「最後だ、いい勝負をしよう、お前なら大丈夫だ」
何故か緊張を解くような優しい声色で言ってくる。これもおそらく作戦なのだろう。
最後。そう、スワリスト最後の日だ。その言葉が沢山の思い出を蘇らせる。ハジメとの出会い。セキトリの日々。師匠との楽しい時間。エリの登場。ああ、悪くなかった。そんなスワリストの日々が最後なんだ。
「座教ハジメ」
男がその名前を聞こえるように呟いた。座太郎は反射的に振り返ってしまう。冷徹そうなメガネの男が真っすぐに座太郎を見つめていた。そうだ、コイツに勝って座ることができればハジメの死の真相を知ることができるのだ。座太郎がスワリストになるきっかけをくれた人。座る意味を教えてくれた人。体の奥から燃えるようなエネルギーが沸き上がってくる。メガネの男を真っすぐに睨みつける。男は何か満足げに頷いた。これもコイツの戦術なのだろうか。「何か対策はあるのか?」もう一人の自分が言った言葉がふっと頭に響く。そう、この男に勝つための対策、それが必要なのだ。いつものやり方では勝てない。おそらく昨日のように負けてしまう。
しかし、対策は、ない。
座太郎は弱気になり睨みつけていた視線を逸らしてしまった。
逸らした視線の先、いつも座っていたベンチの隣にエリがいて、祈るように座太郎を見つめていた。
「生徒会長・・・」
その姿は美しかった。朝の殺伐とした駅の中で咲く一凛の花のように。
もう一人の自分が言った言葉が蘇る。そう、こんなセキトリなんかしないでこのままエリの元へ行けばいいんだ。座太郎は考える。そうだ、座教ハジメなんか無視してエリの元へ。
座教ハジメを無視して・・・?
対策・・・?
生徒会長・・・。
先日のホームでエリが言った言葉がフラッシュバックする。彼女は座太郎のために座れる方法を考え教えてくれていた。しかし、座太郎はまともに取り合わずに一度も試していなかった。
「対策は・・・あるじゃねぇか・・・」
座太郎はメガネの男にもう一人の自分の影を重ねて言った。
「ん?・・・なんだ、大丈夫か?」少し困惑気味のメガネの男。
「ハジメさんを無視なんかしない。俺は今日まではスワリストだ。だから逃げない、だから戦う。俺は今日、絶対に座る。俺は今日、ハジメさんを超えていく!」
そして生徒会長に伝えなきゃいけない言葉がある。
だから、これが最後じゃない。
勝ってその言葉を伝えよう。