力が欲しいか? 1
親ガチャ。環境ガチャ。人生ガチャ。
いい環境で育ち、いい大学に入り、いい人生を送っている奴は言う。「そんなものは存在しない。自分たちの力で努力をし、勝ち取ったのだ」と。しかし、そんなことを言う時点ですでに何も分かっていない。努力ができる環境がある時点ですでにガチャに当たり恵まれているのだ。もちろん努力はしたのだろう。一日10時間?一日20時間?好きなだけやればいい。まず、努力をするための土台さえ与えられなかった俺たちから言わせればアンタらのガチャは大当たりだ。
あそこの家族とは関わるな。俺の育った地域や学校の連中からはそんなことを言われ続けてきた。悪口を言ってこない大人もその目では雄弁に罵ってきた。ガキの頃は大人の視線から本音を察知する能力が高いんだ。物心がついて一番最初のそんな出来事をよく覚えている。この街では地域ごとに小さな祭りがあり昼から夕方にかけて神輿を担ぐってのが夏の一大イベントだった。その祭りに参加が許される年齢になり俺は当然のように加わった。小さい頃から見ていたからこそ、いざ参加ができる年齢になって当日を迎えると不安や緊張そんな感情に支配された。でも何よりもワクワクした気持ちで集合場所へ向かったんだ。「ちょっと、アンタ鼠井んところの、どうして来たんだい?」近所のおばちゃんが蔑むような目で俺に言った。「おい、帰れ帰れ、勘弁してくれよ、神輿になんて触るんじゃねぇぞ」鉢巻を巻いたオッサンが神輿や他のガキたちを俺から守るようにその間に立った。その場にいた他の大人たちも誰一人も助けてはくれなかった。俺は楽しみにしていた自分を呪うような気持ちで家に帰った。家でその祭りの音が聞こえてこないように耳を塞いでその日をやり過ごした。
一番の敵は家族だった。それは間違いない。地域から嫌われているのもこの家族のせいだ。親父は定職にもつかず気が向いた時だけ小銭稼ぎのような仕事に出かけ、毎回酔っぱらって帰ってきた。稼いだわずかな金はすぐに酒に消えた。酒が足りなくなると、俺は親父に万引きをさせられた。「ガキだからバレても大丈夫だ」と言われて。断ればタバコの火を押し付けられた。俺に選択肢はなかった。最初の数回は上手くいった。親父も珍しく褒めてくれた。しかしそんなものはすぐにバレるんだ。次にやったときにはすでに目を付けられていたのか店を出た瞬間に捕まった。バックヤードかどこかに連れていかれこっぴどく怒鳴られ、殴られた。まあ、それは仕方がない。俺が、いや、俺たちが悪いんだ。「親が来るまでここで反省してろ」店の親父がそう言い残して出て行ったが俺の親が迎えに来ることはなかった。結局俺は一人で帰った。帰り道、学習塾から同級生が数人出てきた。何やら楽しそうに会話をしていたが俺と目が合うと不機嫌そうな顔をしてどこかへ足早で去って行った。ボロボロの飲食店の横を歩いていると大きなネズミがいた。そのネズミと一瞬だけ目が合う。しかしそのネズミは俺に何の注意も払わず汚れた体でゴミ漁りを続けた。必死に、それでいて、どこか楽しそうに。何かギリギリのところで俺の心はそのネズミに救われた、そんな気がした。
学校の宿題をやっている時、親父に教科書を取り上げられた。ただ取り上げられ、その教科書で鬱憤を晴らすかのように引っぱたかれた。学のない親父にとって勉強は忌み嫌うものだった。だから宿題をする俺は敵だった。翌日、宿題をやってこなかったことで教師にひどく怒られた。どうしていいのか分からず俺は泣いた。泣いて本当のことを話した。すると教師は他の児童に迷惑がかかるから次はちゃんとやってこい、とだけ言ってどこかへ消えた。決して助けてはくれなかった。
母親は親父の味方でもなければ俺の味方でもなかった。もう一人別の敵がいるだけ。親父との喧嘩はしょっちょうで家にはいつも母のヒステリックな声が響いていた。飯もまともに作ってもらえず、代わりに内職や何かの手伝いばかりさせられた。帰るまでにこれだけやっておけ、無理やり学校を休まされ内職をさせられたこともある。俺に内職をさせて母は少しオシャレな格好をしてどこへ出掛けた。夜遅くに帰ってきてその無謀なノルマを達成できていないと俺は容赦なくぶたれた。アルコール臭い口から浴びせられる罵詈雑言。何度謝っても許してもらえなかった。そんな時一本の電話が鳴った。親父が酔っぱらって道で寝てるから連れて帰れとのことだった。母からの攻撃を耐えながら何とか家を出て酔いつぶれた親父の元へ向かう。親父が寝ている前の家、つまり電話をしてきた家族から罵られながら俺は親父を起こし何とか引きずるように動かした。その最中に親父がふっと目を覚ましスッと立ち上がった。するとその家の壁に向かって小便をしはじめた。その家族は激怒し警察を呼び俺たちはパトカーに乗せられた。
絶望が日常だった。真っ暗な世界。抜け出せない地獄のような街。でもそんなところでも一つだけ光があって、その光だけを頼りに俺は生きていた。近くに住む幼馴染のサユリ。彼女の家も貧しく地域では目の敵にされていた。服はボロボロで風呂もまともに入っていないのか、学校では汚い臭いと同級生からいつもいじめられていた。教師もその様子を見ていたはずなのに誰も止めなかった。彼らは面倒ごとに巻き込まれたくはないらしい。はぐれ者の俺たちは気がついたらよく神社のベンチで話すようになっていた。気が合うとか、気になるとか、そんな間柄じゃない。まともに話してくれる人間が彼女しかおらず、彼女にとっても俺しかいなかった。ただそれだけだ。でもそれだけで十分だった。俺はどんな小さなことでも話した。家で少しだけ見ることができたテレビ番組の内容を延々と一時間も二時間も語り続けたこともある。彼女は楽しそうに話を聞いてくれた。何かとてつもない物語を二人で共有している、おそらく傍からはそんな風にも見えるくらいに俺は雄弁に語り彼女は熱心に聞いた。普通の奴らだったら気にも留めないくだらないテレビ番組の一部だが俺たちにとっては大切な世界で、この街を忘れることができる時間だった。
中学生になってもこの場所は変わらなかった。誰にも否定されない二人だけの大切な世界。そして中学最後の夏、俺はサユリに呼び出されて休日の神社でベンチに座っていた。サユリは時間ぴったりに来た。大きな荷物を持って。その理由を聞くとこのあと東京に遊びに行くのだという。その言葉を聞いて俺は羨ましく思った。同時に寂しさと不安に襲われた。何か一人だけこの街に取り残されてしまうような気がして。サユリはそんな心情を察してか、ゆっくりと俺に近づきそっとキスをしてくれた。咄嗟の出来事に驚き俺は硬直したままサユリを見つめる。彼女は緊張していたのかひどく震えていたのを覚えている。照れたように笑いサユリはそのままどこかへ走り去っていった。
それからも地獄は続いていった。それでも、サユリとの世界を唯一の避難場所にして俺は何とか生きていた。高校への進学などもちろんできるはずもない。中学を卒業したら働かなきゃいけなかった。でも俺や家族、閉塞的なこの街。まともな仕事なんてそう簡単に見つかるはずもない。あるのは法的にグレーなものばかり。まあ別にそれでもいいんだが。
「ビシバシ鍛えてやる。弱音を吐くなよ」
70歳近いハゲ頭の小柄な社長が俺に言った。街の外れにある小さな倉庫。普通の仕事はここがダメならもう諦めようと思っていたがあっさりと雇ってもらえた。社長はちょっとしたミスや遅れで怒鳴り散らすが熱い人だった。でも一から仕事を教えてくれて新しいことができるようになると思い切り褒めてくれた。初めてだった。この街で俺を認めてくれた大人は。働き始めた最初の週末、社長に飯を奢ってもらった。何でも食べていい遠慮するな、そう言われて俺は食べた。遠慮なくただひたすらに。社長はそんな俺を見て笑った。俺は食べ続けた、きっと最後は泣きながら。
仕事は楽しかった。俺は社長に認められたくて社長のようになりたくて一生懸命働いた。間違いなく人生で一番楽しい時間だった。でも家族の問題は続いていた。働き始め、稼ぎ始めた俺からアイツらは当然のようにその給料を奪い取り始めた。どっちが多く俺の金を取るかで両親が喧嘩をして警察が来たこともある。働けば働くほど俺の生活は苦しくなった。親は俺がガキだった頃よりもさらに働かなくなり俺の金をあてにした。親の借金の返済もあり気づけば俺の手元には全く金が残らなかった。疲労と空腹で限界はすぐそこまで来ていた。
「お前、大丈夫か?」
さすがに表情や態度に出てしまったのか社長が声をかけてきた。一番バレたくない人。俺はごまかした、絶対にバレないように無理やり笑顔を作って。あの家族を知られたくなかったんだ。
「何でも相談しろよ」
社長は真剣な眼差しでただそれだけ言った。俺は黙って頭を下げた。
でも結局バレた。俺が仕事中に倒れたんだ。最悪な結果だ。会社にも社長にも迷惑をかけてしまう。病室で点滴を打たれていると社長が見舞いに来てくれた。怒られると思った。仕事を止めたこと、迷惑をかけたこと、相談しなかったこと。でも社長は言った。
「もう無理はするんじゃねぇ。しっかり休んで、戻ったらまたバシバシ働け」
その言葉に俺は決意を新たにしようとした。その時だった。最悪の事態が起こった。両親が病室に現れた。そしてアイツらは言った。お前が働かないと金はどうするんだ、こんな所で休んでたら金がかかるだろ、と。弱り切っていた俺の心はそこで完全に折れた。コイツらがいる限り俺に逃げ場なんてないんだ。
「てめぇらっ!」
社長が顔を真っ赤にして俺の両親を怒鳴りつけた。日頃は優しいんだが怒ると恐ろしく迫力がある。アイツらもビビったようだ。何か悪態をつきながら両親は病室から逃げて行った。
俺はすぐに退院してまた働き始めた。いや早く働きたかった。社長の下で。いくら働いても恩を返しきれない。頑張らないと。でも次のトラブルはすぐにやってきた。両親が職場に顔を出すようになったのだ。そして、給料が少ない、金を貸せ、倒れたのはお前の責任だ、と社長に詰め寄るようになった。初めのうちは社長も怒鳴り散らして追い返していたが連日続くとさすがにその対応に疲れを見せ始めていた。他の従業員の視線も俺にはきつかった。俺はいつまでもここで働きたかった。でも俺がいると社長に迷惑をかけてしまう。この家の闇はどうしても俺を離してくれない。また給料が出ても借金の返済や何やらで消えるだろう。このまま行けばまた倒れる。そして死ぬ可能性だってある。
でもそれがこの街、この家族から逃げる唯一の方法なのかもしれない。俺はそこに一種の救いを求めていたのかもしれない。
「ねぇ、うちらで東京行かない?」
ある日、ガキの頃よく話した神社のベンチでサユリがそう言った。働き始めてから会う頻度はぐっと減っていたが、サユリも俺と同じような境遇で親から働かされていた。このままではダメになる、金をむしり取られ続けいずれ死んでしまう。それは俺も分かっていた。ただ俺がそこに救いを求めていたのと違いサユリは生きることを必死に掴み取ろうと、幸せになろうとしていた。
「でも、金が・・・」
東京に行く金なんてない。そんなものがあれば思い切ってこの街を捨て一から生きてみたいと思う。でも、まずそのスタートラインにすら立てない。するとサユリは何も言わずに持っていたバッグを開いた。そこには見たこともない大金が入っていた、確か百万円近くあったはずだ。何か犯罪でもしているんじゃないかと疑ったがサユリは自分で働いて稼いだと言う。その言葉に嘘はないようであった。
この金でサユリと一緒に東京へ。
そう考えて空を見上げた時、何か今まで心の中で必死に抑えつけてきた感情が一気に噴出して声をあげて泣いた。もう何もかも捨ててどんなしがらみも無視して自由になろう。この街じゃ死が一番の救いだ。こんな所もう一秒もいたくない。泣き出した俺をサユリが優しく抱きしめてくれた。汚くなんてない、臭くなんてない、サユリの優しい匂いが俺を包んでくれた。
翌日、社長に事情を説明して退職を申し出た。おそらく世界で唯一俺の面倒を見てくれた人。俺を助けてくれた人。俺を人として認めてくれた人。そんな人に迷惑をかけてしまうことは申し訳ないがもう決めたんだ。今日で最後にすると言ったら社長は顔を真っ赤にして怒り出した。ハゲあがった頭まで真っ赤になっていた。やっぱり普段は優しい分、怒ると恐い。そしてそれ以上に心が物凄く痛んだ。この怒りはもっともだ。俺は正面からそれを受け入れ何度も深々と頭を下げた。仕事終わり、社長はもう会ってくれなかった。しょうがない、世話をしてもらった恩を仇で返したんだから。事務のおばさんが無機質な対応でビニール袋を渡してきた。中には会社に預けていた俺の私物や何かの事務所類などが入っていた。帰り道、歩きながら袋を覗くと一つの封筒が目に入り、気になってそのまま開けた。
『自由に生きなさい』
達筆な一文だけが書かれた紙。そして、明らかに給料ではあり得ない額の札束。両目にいっぱいの涙を溜めながら泣くのを我慢して俺は最後の帰宅をした。
両親には、仕事を辞めた東京へ行く、とだけ言ってそのまま家を出た。あまりに急な話で最初は二人とも無反応だったが徐々に理解が追いついたのか見苦しいほどに荒れ狂い始めた。それじゃあ生きていけない、金はどうするんだ、死んでしまう、って。俺はそんな二人を玄関の扉でシャットアウトしてすぐに走り出しバスに飛び乗った。駅に向かう。ああ、死ねばいい。
駅にはサユリがいた。どうやら彼女も親から逃げてきたらしく落ちつかない様子だった。俺は社長からもらった封筒を見せた。彼女はそれを見て俺のことを本気で心配した。何かいけないことをしているんじゃないかって。そうじゃない、あとでちゃんと説明する、と言って俺たちは二人の金を足し合わせた。決して多くはないがスタートを切るには十分だ。これから増やしていけばいい。新幹線のチケットを買う。俺は初めてだから全く勝手が分からない。サユリは何度かあるらしく慣れた様子で俺に教えてくれた。新幹線の座席に座るとサユリが綺麗に包装された小さな箱を渡してきた。初めてこの街を出る俺へのプレゼントらしい。開けると中にはかっこいい腕時計が入っていた。俺はその場でつける。調整していないからベルトはブカブカだった。
文字盤を見る。
秒針は力強く進んでいる。
新幹線が動き出す。
俺はようやくこの街から抜け出すことができた。