老婆と満員電車
金曜日、午後8時。
仕事終わりの座太郎が駅のホームで帰りの電車を待っている。決まった車両の決まった扉の前。電車を待つ列の先頭に彼はいた。
音楽を聴きながら電車を待つ。金曜日の夜。明日は土曜日。つまり明後日は日曜日。それだけでテンションが上がる。コンビニで酒でも買って帰ろうか。最近CMで見たレモンサワーがサブリミナル的に頭の中で訴えかけてくる。
『新宿、新宿・・・』
電車は予定通りの時間に到着する。仕事終わりのサラリーマンが帰宅や乗り換えのために降りてくる。
全員が降りたところで彼は素早く電車に乗り込む。もちろん自分のために。
だが、それだけではない。
電車を待つこの列の先頭者としての責任のために一切無駄のない動きで素早く乗り込んでいく。先頭の人間がスマホをいじって乗るのが遅れ、列の後ろの人たちが座れないなんてことはあってはならない。先頭に立つ者はその責任を負わなきゃいけない。
それができないのなら黙って後ろに並んでいろ。
座太郎は素早く座席のポールを掴んでぐるりと体を反転させ着席する。帰りの電車では座ることだけでは満足できない。そう、端に座りたいのだ、端に。
それからも夜の新宿駅からどんどんと人が乗り込み続け、一瞬で座席が埋まり、つり革の奪い合いが始まる。満員電車とは呼べないくらいの込み具合、それくらいのタイミングで電車の扉は閉まる。
汽笛を鳴らすこともなく無感情に電車は発進する。
座太郎はスマホを開いて目的もなくニュースサイトを見る。座れたことに対する喜びは特段ない。当たり前のようにスマホをいじっている。
そう、『当たり前』なのだ。あの時間、この電車、この車両、この扉。到着時の乗客は他の車両より少なく、かつ、ほとんどの人間が乗り換えのために降りる。降りる乗客が一番少ないので一番先に乗り込むことができる。すべて分かっていた。列の先頭のポジションだって偶然取れたわけじゃない。一本前の電車がホームにいる時から次のこの電車を待って並んでいた。少しでも遅れて座れないくらいなら15分後の次の電車に座る方がいい。電車の中で立つ30分よりホームで待つ15分。一見損に見えるようでもこれは時間に対する投資だ。先に小さな損を取ってより大きな利益を得る。それが資本主義の原則である。そういった分析と努力で手に入れた当たり前の結果を当たり前に享受している座太郎なのだ。
電車は次の駅に到着する。降りる客は少ないが乗り込む客が多い。人間がどんどんと詰め込まれていく。金曜日の夜、この電車はここでピークを迎え朝の満員電車のような様相を呈す。
金曜夜の高揚と満員電車の沈鬱、相反する感情を錯綜させながらゆっくりと電車が発進する。
キーッ ガタンッ
『緊急停車します』
緊急停車をしてから緊急停車を宣言するアナウンスが車内に流れる。
あまり体験したことがないレベルの急な停車。座っていた座太郎にも結構な衝撃が走った。思わずスマホから顔を上げて車内の様子を確認する。満員の乗客はその衝撃で押し潰し合い殺気立ち始めている。
車内のモニターには緊急停車を知らせる英文が表示されていた。JRは帰りも定時通りに運行できないのか。座っているためダメージは少ないが今週毎朝の遅延と今回の帰宅時の遅延に若干のストレスを感じる。
まあしかし、結局のところ行きつく先は一つだ。
座れているから別にいい。
座れていれば家でくつろいでいるのと大差はない。モニターから視線を外し、目の前で殺気を放っている人塊を素通りし、再び楽しいスマホの世界へ帰ろうとする。
だが、その一瞬、視線を戻すほんの一瞬に、彼は意識を奪われた。
女が人塊の中でおっさんたちに圧迫されながらこちらを見ていた。
表面的な意識をスマホに戻すが潜在的な意識が向いてしまう。何故だ?スマホを見ながら座太郎は自問した。電車内で人を意識したことはない。座れてしまえばこちらのもので電車内であっても自由に意識をふるまえる。ここは誰にも邪魔されない自由の王国。座太郎の最もくつろげるプライベートな空間。数秒間の思案。もう一度確認のため、意識の在り方の確認のために、もう一度顔を上げることにした。
殺気を放つ人間の汚い部分の凝縮体のような人塊にゆっくりと視線を向ける。
幻ではなかった。
その女は存在していた。
女は満員の圧力で体勢を変えることができないらしく、顔を座太郎の方に向けたままがっちりと固定されていた。
また鋭く視線が交わる。
座太郎はらしくもなく慌てて視線を逸らす。すぐにスマホに戻ると不自然だ。特に見るものもないが左斜め前あたりに視線を移す。
するとそこに老婆がいるではないか。一瞬の判断で正確には分かりかねるが年は80歳を超えているように見える。金曜夜の満員電車にまるで似つかわしくない老婆が御多分に漏れずJRが仕掛けたこの攻撃を食らっている。老婆がどこまで乗るのかは分からない。
ただ一つ言えることがある。
このままでは老婆は多分死ぬだろう。今宵。死因は圧死だ。
鈴の音が聞こえる。
老婆が肩からかけている小物入れに鈴と赤べこのキーホルダーが付いている。
電車が揺れ、人塊に圧力がかかるたびにその鈴が弱々しく音を鳴らす。
座太郎は慌てて目を閉じ、眠ったふりをする。
しかし、鈴の音が彼の意識を離さない。
先ほどの女への意識も相まって思う。
今日は調子が悪い、と。
その後、10数分の停車を経て再び電車は夜闇の中を走り出した。