呪いの正体
翌朝。
ホームの状況、時間、天気。
大丈夫だ、あの席が空く。
電車のドアが開く。狙った席を真っすぐに見つめる。その席に座っていたおばちゃんが、まるで座太郎に催眠をかけられたかのように立ち上がる。座太郎は機敏に移動して座席の前にたどり着く。
久々だ。本当に久しぶりに座ることができる。
ゆっくりと座るモーションに入る。あとはもう膝をたたむだけ。重力に身を任せるだけ。長かったなここまで・・・。
そのとき、背後で咳払いの音が聞こえた。信じられない。座太郎は反射的に振り返る。そこにはすでにサラリーマンが座っていた。
そんなバカな・・・
彼は焦って他の席を探す。しかしもう遅い。時間はあっという間に流れる。昨日や一昨日やここ数週間の毎日のように、人間たちの大波に飲み込まれていく。苦しい、つらい、もう死んでしまいたい。座太郎は最後に窓ガラスを見た。エリが昨日と同様にそこにいて、心配そうに座太郎の姿を見つめていた。
次の瞬間、視界は誰かの背中に遮られ彼の五感は消滅していく。
座太郎は薄れる意識の中で想像した。
休日のレストランでエリと食事をしている。この週に見たスポーツやテレビや映画の話なんかをしている。そこから話が膨らみ来週は一緒に映画を見に行こうと約束をする。
「・・・素敵やん・・・」
そう言い残して彼の存在は消えた。
夜。駅のホーム。
もし薄オレンジ色の光の部屋ではセックスが行われているとしたら、彼らは一体何日連続でそれをしているのだろう?
座れていないこの日々よりもずっと長いはず。
「どうだ、答えは出たか?」
またコイツだ。座太郎の学術的な思考が遮られる。
「まだ迷っているようだが、だいぶマシになってきたな。もう少しだ。もう少しでその意味が分からない夢から目が覚める」
意味が分からない夢。そう言われても反論する気力がない。
「最後に何がお前に呪いをかけているか。いや、何が世界に呪いをかけているか。それだけ解いてやろう。その呪いの正体が分かるか?」
「・・・」
「分からないのか?いや、心の底では分かっているはずだ」
「・・・」
「憧れだよ。世界中に溢れる呪いの正体は」
「・・・憧れ」
「俺も私も僕も、誰かのようになりたいと憧れ、分不相応の夢を見る。それが呪いになっていく。人が叶わぬ夢を持つきっかけは憧れだ。目標や夢それ自体への絶対的な欲望なんかじゃない。だからそういう奴らは拗れていくんだよ」
「違う・・・俺は座りたいんだ。座りたいから座るんだ」
「本当か?本当に座りたいのか?座って何かや誰かになりたいだけじゃないのか?その誰かは誰だ?」
「・・・うるさい」
「俺はお前で、お前は俺だ。だから答えなくても分かるさ」
「うるさい・・・」
「座教ハジメ。あの狂人にお前は狂わされた」
「狂人だと?!」
ずっと見ないようにしていたが、怒りでその声の主を睨みつけてしまう。
そこには座太郎が座っていた。
そんなバカな、座太郎はその姿に戸惑いを隠せない。誰だコイツは?何なんだ?
「ようやく俺を見てくれたな。嬉しいよ。そう俺はお前だよ。だから俺はお前を救いたいんだよ。お前をスワリストとかいう意味の分からない世界から助けてやりたい。座教ハジメがお前にかけた呪いを解いてやりたい。あのバカな狂人に憧れてしまったお前を・・・」
「バカな狂人だと?!」
頭の中で何かが切れる音がした。座太郎は周囲の目も気にせず、もう一人の自分の胸倉を掴んで立ち上がる。
「ハジメさんはバカじゃない!狂人じゃない!俺を救ってくれた恩人だ」
ホームには電車の接近を知らせるアナウンスが流れる。だが、座太郎の耳には何も入らない。
「バカな狂人さ。お前が勝手に憧れて美化しただけだ。あの男はな、何のとりえもない電車の座席に座るだけの男だ。仕事はできない。何の責任感もない男。休憩時間も守らずにフラフラと歩きまわり、定時になれば誰よりも先に帰る。あまりに仕事もできずやる気もないから何の仕事も与えられなかった。勤務中はExcelを閉じたり開いたり、アイツはずっとマス目の数を数えてただけだ!」
「勝手なことを、言うなああ!!」
夜のホームに座太郎の怒号が響き渡る。
怒りで荒れた呼吸のままもう一人の自分をジリジリと線路の方へ押しやる。
「俺を殺したら、もう誰もお前を止められないぞ」
「うるさいっ・・・俺は・・・」
座太郎は手に力を入れた。
ファーファァー
電車の警告音が響く。
体に強い衝撃を受ける。
体が吹き飛ぶ。