座教ハジメ 1
5年前。
座太郎が今のエリやカオリと同じ年齢のころ、つまり新卒で社会人として働き始めたタイミング。彼はすでにボロボロだった。仕事は思ってた以上に大変で怒られてばかりの日々。同期は仕事仕事でどんどんと会社に馴染んでいくが、座太郎はあまりのめり込むことができずやりがいを見つけることができなかった。こんなに大変でしかも面白くない。だったらこの夏にでも会社を辞めて実家に帰ろうか、そんな考えがほんの少し、いや結構本気で頭をよぎるようになっていた。人は働くために生きているわけじゃない。週5日朝から晩まで働いて気がついたら定年。そんな人生はいやだ。
退職への思いがどんどんと大きくなっていたある日、その人と出会った。
「おっ先に失礼しますっ」
まだまだ仕事が残っていてほとんどの社員が忙しく働いている中、定刻で颯爽と帰る男。
座教ハジメ。
他の社員もハジメには文句を言えないのか「・・・おう」とか何とか言って定時帰りを認めることしかできなかった。
座太郎はその姿に深い感銘を受けたことを今でも覚えている。社畜だらけのこの会社に一人だけ存在していた自由な男。職場に残ることが仕事じゃない。生産性を高めて早く帰る。それこそが会社員のあるべき姿なのだ。座太郎はそれ以降、無意識にハジメの姿を目で追うようになる。決して忙しそうな雰囲気は出さない。が、確実に定時で帰っていく。来る日も。来る日も。座太郎は話したことがないハジメについてどうしても知りたくなった。所属は隣の部署でなかなか接点が持ちづらい。年齢は座太郎より5歳上。つまり、今現在の座太郎と同じ27歳だった。職場や仕事で初めて憧れに近い感情を覚えた座太郎はハジメのようになりたくて必死で仕事を覚えた。きっかけは何であれ座太郎の仕事への熱意が上がったことを部署の人たちは歓迎し、そこからいいサイクルが回り出して座太郎はグングンと成長をしていった。
夏のある日。ハジメに出会っていなければもしかしたらもうすでにこの会社にいなかったかもしれない座太郎。部署がノー残業デーなるものを新しく制定し定時で帰れる日を設けた。部署の皆は「本当にいいのかな?」なんて戸惑いながらも一人、また一人と定時でおそるおそる帰っていく。座太郎もその一人。ようやく会社の制度が時代に一歩追いついたことに喜びを感じならエレベータに乗り込んだ。閉めるボタンを押す。扉がゆっくりと閉まる。その瞬間、外からガシッと扉を抑えて中に入ってきた男がいた。座教ハジメ。彼がギリギリアウトのタイミングで飛び乗ってきたのだ。ハジメは座太郎のことを知らないらしく特に言葉を交わすこともなかった。沈黙と共にエレベータは1階に到着する。座太郎は緊張していた。これはチャンスじゃないのか?この会社で光を見せてくれた男が目の前にいるのだ。座太郎は勇気を振り絞って声をかけた。時刻はまだ午後5時30分を過ぎたばかり。自己紹介をしてから、挨拶とお話だけでもと一杯誘ってみたのだ。
「ごめん、僕、会社の人とは飲まないんだ。昼ならいいよ、また今度ね」
ハジメはそのまま颯爽と人ごみの中へ消えた。
座太郎はその姿にまた感動を覚えた。できる男は違う。確かにその通りなのだ。会社の仲間で飲みに行く必要なんてない。仕事中にコミュニケーションを取ればいいわけだし、酒の席でしか話せないことがその後のビジネスに繋がるとは思えない。カンブリア宮殿か何かでどこかの社長も同じようなことを言っていた気がする。どうしてもそういう場が欲しいのなら昼食だ。それなら時間も取られないし決まった時間で終了する。それこそが理想的ではないか。またハジメの初対面の後輩から誘われたにも関わらず堂々と断るその意思の強さ。ハジメはたった一言であまりに多くのことを座太郎に教えてくれた。座太郎はハジメが颯爽と消えた人ごみに向かい一礼をしてその感謝を示した。
季節は秋。座太郎の仕事への熱意も一層増し社会人ライフを満喫していた。涼しくなり過ごしやすいある日の朝、ハジメが彼に声をかけてきた。「今日の昼食どう?」座太郎は天にも昇る気持ちだった。この会社のエースで恩人のハジメがついに話しかけてくれたのだ。もしかしたら座太郎の仕事の頑張りをどこからか聞いて興味を持ってくれたのかもしれない。もしかしたら次のプロジェクトで一緒にチームを組むメンバーに選んでくれるかもしれない。昼食までの勤務時間がこんなに長く感じたことは今まで一度もなかった。
「ここの炒飯めっちゃうまいよ」
二人が来た店はチェーンの中華食堂だった。昼時、大繁盛しているが完成されたシステマチックなオペレーションで客がドンドンと回転していく。その時、座太郎はハジメがその店内の様子を注意深く観察していることに気がついた。そう彼にとっては全てがヒントなのだ。無関係の業種の飲食店。しかし何か自分たちのビジネスに活かせるアイデアがないか?より視点を抽象化して応用できるエッセンスを抜き出していたのだ。座太郎は一緒に炒飯を食べる。こんな幸福なことがあっていいのか、夢のような時間だ。そして少しでも真似ができることがないかとハジメに日々大切にしていることを聞いてみた。
「電車の席に座ること」
それが彼の座右の銘だった。座太郎は全ての謎が解けた気がした。上京して日も浅いがうすうすとは感じていた。誰も口に出さない真実。
通勤電車が諸悪の根源。
ああ、そうなんだ、座太郎はハジメにソクラテスの影を見た。ハジメはいつもブレることがなく淡々と仕事を終え帰っていく。それはすでに朝の時点で決まっていたのだ。座太郎は社会人になってからの自分を振り返り反省する。毎朝毎朝腹が立っていたのにどうしてそれをそのまま不変の事象であるかのように受け入れていたのだろうか?満員電車は仕方がない、朝の通勤の電車には座れない、何故かそれを自然の法則でもあるかのように考えてしまっていた。もし少し乗車位置を変えたら?それだけで何か変わるんじゃないだろうか?座太郎はのめり込むように座るコツや方法はあるのかを聞いた。
「小手先のテクニックは確かにある。でも一番大切なのは席に座るという意志だよ。全てはそこから始まるんだ」
座太郎は雷に打たれたような衝撃を覚える。まるでハジメに心の全て読まれているのではないかと恥ずかしくなる。この考えができるからおそらくハジメは仕事もできるのだ。巷にはありふれたビジネスの手法や考え方、焼き増しただけの中身のない指南書、そんなのばかりが氾濫している。でも本質はそうじゃない。そのビジネスをして世界を良くしたい、良くしてやる、その意志こそが大切なのだ。おそらくハジメはそう言いたいのだろう。
「君は座ることに興味があるの?」
「はい!明日からでも毎日座りたいです」
「ははは、じゃあ君もスワリストだ」
「スワリスト・・・」
座太郎の心が温かくなった。仕事に一生懸命打ち込んで初めて貰えた称号、スワリスト。大きな夢もなく上京してただ仕事を繰り返す日々だったがようやく何者かになれた気がした。それからハジメは座るテクニックや座ることによる効能を嬉しそうに語り出した。スワリストの後輩ができたことが嬉しかったのだろうか?あまりに熱く長く盛り上がりすぎてしまい、システマチックなチェーン飲食店の店員に退店をお願いされてしまった。オフィス街のちょうど昼時。店の外にも列ができている。食べたら早く出ろということだろう。これだからチェーン店は困る。座太郎はハジメの話を遮られてたことに怒りを覚えた。
二人はオフィスの途中にある小さな公園のベンチに座った。休憩時間はまだ半分くらい残っている。
「ちゃんと休憩時間守ってるんだ、偉いなぁ」
時計を気にした座太郎にハジメが言った。ああ、実力の世界。おそらくハジメは多少遅れて戻ってきても許されるのであろう。一方で座太郎は新卒、まだ入社半年。仕事を頑張っているがその特権は当分先だろう。
先ほど中断した話をそのベンチで続けた。繰り返される問答。まるでこの公園だけが時空を超えて古代ギリシャの様相を呈す。さしずめハジメがソクラテスなら座太郎はプラトンかアリストテレスか。休憩時間も終わりに近いころ、その偉大なるソクラテスが衝撃的な発言をした。
「僕、引っ越したんだよね。遠くの駅に」
座太郎はその発言の意味が分からなかった。愚かな弟子に知恵を。懇願する座太郎にハジメはその真意を教えてくれた。
ハジメは元々この会社の近くに住んでいた。二つ隣の駅。乗車時間は10分に満たない、すぐに会社に到着する。満員電車とまではいかないが毎朝ある程度の混雑はしており、ハジメは常につり革に掴まり通勤をしていた。満足も不満もない日々。しかしある日、隣の路線で大規模な運転見合わせが発生しその路線を使用する乗客が大量にハジメの車両に押し寄せてきた。さらに悪いことにその混雑が別のトラブルを誘発しこちらの路線まで大きな遅延が生じた。電車に乗るハジメは人、人、人に圧迫されやがて限界まで圧縮され醜い一つの球体と化した。その球体はまるで奈落だ。光は届かない。酸素もない。体は変な方向に捻じ曲がる。前にいるOLが何か警戒して距離を保とうと肘を突き出しそれがわき腹に食い込む。電車が目的地に到着するまでの15分間、ハジメは地獄を見た。翌日、通常通りに運行をしているいつもの電車。ハジメはつり革に掴まりいつものように通勤をした。つり革に掴まり都会の景色を見る。幸福を感じる。
そしてハジメは引っ越しを決めた。
「どうしてですか?」座太郎は驚いて尋ねた。
「君にはスワリストとしての素質があると思うんだけど」ハジメはそう言った。