満員電車にうってつけの日
人塊の中から、パッと一輪の花が咲く。
いや違う。これはタコの吸盤だ。
よく見てよ。これは京浜エリの唇だ。
JD・サリンジャー
もし引用文にしたらこんな感じかな。
エリは必死に酸素を求め、乗客の隙間から顔を出し何とか呼吸をする。
新宿駅まで何とかこれでお願い・・・
ガタンッ
何とも荒々しい緊急停車でエリの儚い願いは断ち切られた。
その衝撃で人塊はトランスフォームする。JX。呼吸経路が埋まり視界が真っ暗になる。
もうヤダよ・・・はやく自由になりたいよ・・・
せっかくセットした髪の毛はボサボサ。体はヘトヘト。
何とか新宿駅にたどり着いたエリ。
ダメだダメだ、エリは改札に向かいながら気を取り直す。流れは自分で作るんだ、こんなことに負けてちゃダメだ。
改札を出る。
そこで立ち止まり、空を見上げる。
季節は梅雨。まったく心地良くないどんよりとした雨が世界を覆っていた。
ため息をついて傘を広げる。
歩き出そうとしたとき、ふと隣にいたサラリーマンと目があった。
ボサボサの髪。皺くちゃで汚れたワイシャツ。ガリガリにやせ細った体。
なんとその眼には白目がない。真っ黒だ。
男はフラフラしながら傘もささずに雨の中を歩き出した。
「ざ・・・座太・・・郎・・・さん?」
エリは思わずその男に手を伸ばす。
が、次の瞬間、まるで幻でも見ていたかのようにその姿が消えてなくなった。
大丈夫。そんなはずはない。
エリの脳裏に浮かぶのはカオリを救ったヒーローである座太郎。記憶の中で得意げに電車で座る方法を語っている。その眼には生気もありちゃんと白目だってある。エリの人生で一番のピンチを救ってくれた恩人。
私も疲れているんだな、満員電車と梅雨を呪いながらエリは雨の中へ歩みを進めた。
「梅雨ってマジでギルティ」
エリは帰宅後、親友のカオリと通話をしていた。
「本当。社会人って大変だよね・・・仕事よりも生活が大変かも」
「それは言えてる」エリは優しい職場の人たちのことを考えた。「これで仕事もしんどかったら本当にやっていけないかも・・・まだ優しい人たちに囲まれてるからラッキーだった・・・」
「毎日感謝だね」
「うん」
エリは明るく返事をした。
カオリは、元の、いやそれ以上に明るく頼りになるカオリに戻っていた。
近況を聞いたところ、あれ以来ほとんど毎日座ることができ、ゆっくりと通勤ができているらしい。ダイヤ乱れなどイレギュラーな混雑により座れない日もあったが、痴漢の被害は一度も受けていないとのことだった。
カオリの言葉に、エリは職場について考える。満員電車や梅雨や何や、どうしてもネガティブなことに目が行ってしまうが、ポジティブな要素だって負けないくらい沢山あるのだ。そちらに目を向けないともったいない。
「そうだね、感謝だね、頑張ろう!」
「ふふふっ、良かった、元気なエリに戻った」カオリは優しい声で言う。「そう言えばあれから座太郎さんは?」
エリは座太郎が座れておらずトボトボと歩いて少女とぶつかりそうになっていたことは伝えていた。それからなかなか会うことも見かけることもできず、今日に至っていたのだ。
「えっと、それっぽい何かは今日見かけたんだけど・・・」
エリは今朝の話をカオリに伝える。
「・・・っ」
電話越しでもカオリがショックを受けているのが分かった。
そうだ、カオリは座太郎に恋をしているのだ。
そんな彼女に今朝の座太郎の話などするべきではなかった。
「いやいや、でも人違いの可能性の方が大きいからね」
エリは慌ててフォローする。
そう、これはカオリへの気休めだけではない。本当に人違いの可能性だってある。人違いであって欲しい。
二人は座太郎とのグループにメッセージを入れることにした。恩人である座太郎が、もしそんなにも弱っているなら何とか助けになれることはないだろうか。あまり直接的すぎないメッセージを二人で相談して送信した。
以前に送信された【了解】のまま、座太郎の最新メッセージが更新されることはなかった。
翌日。
今日も雨だ。
エリは改札を出て傘を広げる。
体がゾワゾワとする。周囲を確認する。
昨日の男がこちらを見ていた。
すべてを吸い込んでしまうかのような真っ黒な眼で。
エリは恐怖に襲われ、とっさに視線を逸らす。
その男は悲しみとも喜びとも判別できない表情を浮かべ、雨の中に消えた。
翌日。満員電車。
足が痛い。誰かの傘の先がエリの踝に当たっている。おそらく悪気はないのだろうが電車が揺れるたびに突き刺さり、日常では感じることのない鋭い痛みが走る。
もう無理だ、終点の新宿駅のホームでエリは自分の限界を悟った。
こんな生活を続けることはできない。
足を引きずりながら会社へ向かう。
顔を上げると見たことのある後ろ姿が先を歩いていた。服はボロボロ、髪はボサボサ。しかしその背中を忘れることはない、座太郎だ。こんなことを言ったらまた怒られるかもしれないが彼は真っ暗な闇だった。おそらく今日も座れなかったのだろう。
声をかけよう、助けてあげよう。
エリは手を伸ばし距離を縮めようとする。
「イタっ」力を入れた瞬間、傘でダメージを負った足が悲鳴を上げた。
再び顔を上げたとき、座太郎の姿はもうそこになかった。
休日。
エリは駅のホームにいた。
この苦しみから抜け出す方法は一つしかない。
それは座ること。
そして座る方法は絶対にある。
ホームのベンチに座りながらエリは記憶を蘇らせる。座太郎がエリとカオリに授けた教えを。
街の性質。
駅の構造。
乗客の属性。
ホームの特徴。
近隣の駅。
電車の時刻。
座太郎が教えてくれたことを思い出し、それをこの駅、この電車に当てはめていく。
そして仮説を立ててはその反証をする。それを繰り返す。
何度も何度も考え、答えを導き出す。
「この車両、この扉、この列!」
いくら考えても反証ができない。
武蔵座太郎、アナタの教えは私が引き継ぐ。