闇の男 A
翌週の月曜日。朝。満員電車。
エリは窒息しかけていた。
目の前の女性の腕が顔面に押し付けられ呼吸ができない。
体を動かそうにも1ミリもそんな余裕なんてない。
この一週間、カオリの駅から出勤していたエリは久々に自宅からの出勤だった。
そして痛感する。
この電車の込み具合は異常だ。レベルが違う。
もう電車通勤なんてしたくない。このまま実家に帰ってしまおうか?
女性の腕がわずかにズレたことで生じた隙間から何とか酸素を取り込む。酸素を吸いながらどんどんと闇に落ちていく。
ダメだ、ダメだ。
何とかギリギリのところで踏みとどまる。
そうだ、私は自分の駅について何も知らない。座太郎の教えを思い出して自分の駅でやるべきなんだ。
月曜日の悪魔に魂を売る寸前でエリは自我を保った。
10数分後。
この地獄にようやく終わりが来た。新宿駅という名の天国。いや、新宿駅があるから満員電車という地獄があるのか?
どちらでもいい。
今は解放されたことを喜ぼう。
エリは全方向からの殺人的な圧力から抜け出し出口のドアの方を向いた。
その瞬間、信じられない光景を目にする。
座太郎が人塊の構成要素になっていた。
彼はエリよりも先に新宿駅のホームに吐き出された。
エリも遅れてホームに降り、先を歩く座太郎の方へ向かう。
まだ満員電車の痛みが体中に残っているが、大丈夫。
それよりもカオリの話をしよう。
あれからずっと座れていること、ちゃんと対面で報告をしてお礼を言わないと。
それから、カオリのことをどう思っているのかも・・・
エリは歩む速度を上げて何とか座太郎のすぐ後ろについた。
「ざっ」
声をかけようと手を伸ばして思わず引っ込める。
座太郎は闇だった。
その色はグレーや黒なんかじゃ表現できない。
そして、座太郎が闇を纏っているんじゃない。
座太郎自身が闇だったのだ。
エリは話しかけるのを躊躇する。
階段を上がっていくその背中は、数日前のカラフルで軽快な座太郎のそれとは天と地ほどの差がある。
階段を上がりきったタイミングでエリは自省する。
またカラフルだなんだと決めつけてしまっている。
そう見えるのは、自分の目が、自分の心が汚れてしまっているからだ。
つい最近それを学んだばかりじゃないか。
エリは笑顔を作って改めて手を伸ばす。
「ざっ」
ちょうどそのタイミングで、小さな女の子が無邪気な様子でこちらに向かって走ってきた。
人の流れが絶妙に途切れており、女の子はスピードを上げる。
彼女にしか見えていない彼女にしか分からないどこかに向かって笑顔で駆け抜けていく。
女の子には座太郎の姿など見えていない。
だが、こんな状況でもエリは少し安心していた。
先日の出来事と座太郎の優しさ。
おそらくこの女の子は行きたいところへ行けるだろう。
そう、子供はそれでいいのだ。
可能性の塊であり、希望の光なのだから。
しかし、座太郎が歩むスピードを緩めることはなかった。
ぶつかるその一瞬前に母親が何とかその子に追いつき、抱きかかえて衝突をさけることができた。
人が多いところで走っちゃだめでしょ、子供を抱っこしながら母親は厳しい顔で叱る。
朝の新宿駅に女の子が泣きじゃくる声が響き渡った。
エリは正面を向く。
座太郎の姿はすでに消えていた。




