震える朝
月曜日。午前7時30分。
エリはカオリとともにいた。
土曜日に行われた座太郎の席取り講座から二人はずっと一緒に過ごし、この日を迎えていた。
親友が泣くほど苦しい思いをしている。それを放っておくなんてエリにはできなかった。
座太郎の教えを疑っているわけではない。しかし、いくら座太郎と言えども毎朝この電車に乗っているわけではない。何かの見落としがあって彼の計算が狂うことだってあり得る。
カオリとは初対面だった座太郎がここまでしてくれたのだ。次は自分の番。エリは親友が安心して通勤できる日が来るまで毎日一緒に通う覚悟を決めていた。
二人は並んで駅に入り、改札へ向かった。
隣を歩くカオリの様子を窺う。
手が震えている。
日曜日の夜から口数が少なくなり、眠っているときは苦しそうにずっとうなされていた。朝起きるとカオリは見たこともないほど怯えた様子で大きく呼吸をしていた。朝食は食べられず、ずっと体や手が震えていた。
親友を助けたい。
エリはその震える手をしっかりと握った。
「行こ!」明るい笑顔を浮かべて頷くエリ。
「・・・うん」
二人は一緒に進む。
しかし、同時に立ち止まる。
あの男が改札の横に立っていた。
あの時と同じ白いTシャツ姿で。
「座太郎!・・・さん」
二人は手を繋いだまま、座太郎に近づき声をかけた。
「ごきげんよう」
彼がどこかで聞いた覚えのある挨拶をしてくる。
「いやいや同じ白い服装でも・・・」エリはロートーンでツッコんだ。
「・・・ふふっ」
カオリが吹き出すように笑った。
エリは日曜日からずっと暗い顔しかしていなかったカオリのそんな様子が嬉しかった。
「もうっ、驚かせないでくださいっ。でも何をしてるんですか?」
和ませてくれた座太郎に感謝しつつ、エリはハズむように聞いた。
「ああ、有給を取ったんだ」
「えっ」
カオリが驚きの声をあげる。
「どうして?もしかしてカオリが心配で・・・」
エリは座太郎の優しさに泣きそうになる。
「まぁ、それもあるが、平日じゃないと分からないことがあるからな。どうしても一つ確認しないといけないことがあるんだ」
「本当に何から何まですみません」カオリがサッと頭を深く下げた。
「いやいや、いいんだ」座太郎は手を広げてカオリの感謝を制止する。「土曜日に伝えたのはまだ一つ足りない次元だ。もう一次元を足して完成させないといけない」
「はいっ?」
エリには天才の言うことがまったく理解できなかった。
「あの人、本当に何者なんだろう?意味分からないこと言ってたし。でも天才スワリストなのかもしれないね」
エリはエスカレータで前に立つカオリに声をかけた。
カオリは黙っている。
よく見るとその手がまた震えだしている。
そうだよな、エリはのん気に声をかけたことを反省した。
これから上がるホーム、そして電車がカオリを苦しめている元凶なのだ。
今まさにそこに向かっている。不安や恐怖で押し潰されそうになっているのだろう。
「大丈夫、信じよう。座れるよ」
カオリの背中に小さく声をかけた。
ちょうど反対方向の電車が到着したタイミングだった。
ホームは座太郎の説明の通りごった返していた。
人間の通り道とは思えない狭い隙間を何とかぬって進む。後ろから続々とホームに到着する人がいるため歩みを止めると危険だ。
エリは戦場のようなこのクレイジーな状況に通勤の朝を呪った。
反対側、二人が乗る上りの電車はまだ来ていない。どうやらつい先ほど一本前の電車が出たらしく、次は10分後と表示されている。
「ここがいつもカオリが乗っている車両だね」
人の渋滞のピークを越えて土曜日に話をした2号車の付近へ着いた。すでに2人のサラリーマンが並んでいる。奥の方、後方の車両の乗り場を見ても、大体それくらいの列がすでに形成され始めていた。
「私たちも急ごう」
エリはカオリの震える手を取って目的の11号車を目指す。
その途中の5号車あたりの列は若干多くなっていた。おそらくホーム端の混雑を回避して比較的空いているエリアに集まっているのだろう。
座太郎の分析を聞いた後だとホームや電車の見方がガラリと変わっていた。
常に現象を観察し分析をしてしまう。
やはり自分にはスワリストの素質があるのだろうか?一瞬頭に浮かぶ懸念。
エリは首を振って否定した。
以前ほどの拒絶感は無くなってはいるが、まだ華の22歳。
スワリストにはならなくていい。
歩き続けて中央の階段にたどり着く。
座太郎の分析通り、こちらの階段から上がってくる乗客はおらず、数人がチラホラと一階に向かって下りているだけだった。
階段出入口すぐにある10号車乗り場以降、奥の車両の乗り場には各ドア2~3人が並んでいる。まだ電車の到着まで時間があるから若干少ない。
そして11号車乗り場。
一つ目の扉を過ぎ、二つ目の扉も過ぎる。
そして、三つ目の扉。
向かって右側の列。
一昨日、座太郎が指をさして示してくれた場所。
ここだ。
「カオリ、ここだね」
「うん」
エリはカオリを自分の前に誘導した。少しでもカオリが座れる可能性が高くなるように。
列にはサラリーマンが2人並んでいるだけだ。
その様子を観察する。
先頭の男はひ弱そうで何か眠たげにスマホを操作している。
まずい・・・大丈夫か?
エリはカオリを列に残しゆっくりと前に進む。座太郎の教えを実践するのだ。
左右に形成された列の間。一歩進むごとに背徳感が強くなる。
そして先頭のサラリーマンの左隣、まるでそこから乗車するかのように歩みを止めた。
「・・・」
少しの時間そこで立ち止まる。
ゆっくりと横目で隣の男の様子を確認した。
ひ弱そうな男など存在していなかった。
その男は般若のような形相でエリを睨みつけていた。
生まれて初めてぶつけられる完全なる敵意。
汚いゴミを見下すような軽蔑の眼差し。
冷汗が出るくらいの殺意。
恐怖で失禁しそうになる。
「殺すぞ」その視線が言っていた。
エリは恐れながらその男の足元を確認する。
「あっ、ここが11号車か」とわざとらしく呟き、ゆっくりと元の位置に戻っていく。
大丈夫だ、彼が列の皆の期待を裏切ることは絶対にない。
彼もきっとスワリストだ。名乗らないだけでスワリストって意外と多いのかもしれない。
列に戻る。カオリの背中が小さく見える。
今まで感じたことのない緊張感に襲われる。
あれだけ座太郎に教えてもらって、もし座れなかったら。もし万が一またカオリが被害を受けたら。そんなことが起きたら、本当に仕事を辞めて地元へ帰ってしまうかもしれない。
エリはグルっと背後や周囲に警戒の視線を向けた。
もし変なことをする奴がいたら私がカオリを守る。
どんどんと増えていくホームの乗客を観察しながらエリは拳に力を込めた。