スワリスト
「それで、それでねっ」
水曜日の夜。
カレンダー通りに働く社会人は一週間の戦いの折り返しを過ぎたところ。
エリは帰宅してアパートにいた。週の頭に乱してしまったメンタルを上手に修復して、彼女もまたこの戦いの半分を勝ち進んでいた。
楽しそうに通話をしている相手は親友のカオリ。
面白かった出来事、会社の話、ネットの動画、インフルエンサーの話題などを共有し、気の置けないリラックスした時間を楽しんでいた。
「じゃあ、次はいつ会う?また日曜日に会っちゃう?私、鎌倉とか行ってみたいな!どうかな?」
「・・・うーん、そうだね・・・」
突然トーンダウンするカオリの声。
その変化は幼馴染のエリにはすぐに伝わった。
「あっ、予定ある?なら別の日でも全然大丈夫だよ」
「・・・ごめんね、予定とかはないんだけどね・・・」
「そっかそっか、まだ私たち社会人も2か月目だし休日は休まないとだね」
「・・・」カオリは何も言わない。
「・・・ん?・・・うん」
何も答えてくれないカオリに戸惑うも、何かを決心するエリ。
「ねぇ、カオリ、聞かせて。何かあるんだよね?」
エリは一呼吸ついて続ける。
「自分の話になっちゃうんだけど、月曜の朝に何か考えさせられることがあって。人のことってさ、分かってるようで分からないんだよね。この見た目、こういう格好、こんな表情の人は〇〇である、みたいな?この年齢になるまでに貯め込んできた経験、これって全然絶対じゃないんだなって。どっかで過信してたんだよね、私の感覚は正しいみたいな。だけどそんなことなくて、やっぱり人って話さないと分からないし勝手に決めつけちゃダメなんだ。そしてそれは付き合いの長いカオリに対してもそう。地元にいた時は互いがよく知る同じ世界にいて何かあってもある程度は正しく認識できたかもしれない。でも社会人になってそれぞれ別の会社に就職してそれぞれの生活をして、色々変わったと思うの、考え方も価値観も。だから教えてほしい。何でカオリは最近、元気がないの?」
「・・・それは・・・」
通話を切る。
エリはスマホをポイっとベッドの上へ投げた。
床に寝転がる。
涙がどんどんと溢れてくる。
「私って、本当に・・・」
横になったまま腕で目を覆う。いつも明るくて強気なエリだが今週に入ってもう2回目の涙になってしまった。
いつもしっかり者のカオリ。小さな時からずっと一緒でエリが困っているときに助けてくれたのはいつもカオリだ。何でも相談にのってくれて、嫌な顔一つせずそばにいてくれた。記憶の中の彼女はいつもお姉さんのように微笑んでいる。上京するときも同じ新幹線で一緒に来た。物心ついたときからの親友だ。
そんな彼女が言った。
痴漢。
その言葉を聞いた瞬間、エリの頭は真っ白になった。
電話の奥からは、今まで聞いたこともなかったカオリの嗚咽にも似た泣きじゃくる声が響いていた。
エリの目から止めどなく涙が流れていく。
部屋のテーブルの上に飾ってある写真に意識が向く。
これは上京した時に二人で一緒に撮った写真。
初めてのことだらけの東京に不安を覚えながらも、負けないように気合を入れて笑顔を作っている。二人とも笑っているのに、どこか緊張感の滲む、そんなたどたどしさ。
もう電車に乗るのも精神的に辛く、仕事に行けない日も出てきている。退職して地元に戻ることも考えている。カオリは全てをエリに伝えてくれた。仕事は好きで職場の人も優しく辞めたくはないが、そこに迷惑をかけてしまっている。責任感の強いカオリは自分に一切非のない罪悪感を抱いてしまっていた。
許せない。
悲しみの次は怒りの感情がエリを支配していく。
人もまばらでのどかな田舎で育った二人にとって「痴漢」はどこか別の世界の出来事のように思っていた。それが急に現実感をもって襲ってくる。親友が被害者として苦しんでいる。犯人を絶対に許さない。どうやって犯人を見つけるか。エリの中で怒りの炎がどんどんと燃え上がっていく。
だが、今一番に考えるべきことはそれではない。
エリは呼吸を整え気持ちを落ち着かせる。
まずやるべきこと、それはカオリの苦しみを無くすことだ。犯人を見つけること、犯人を痛めつけることはその次でいい。
でもどうすれば?エリは思考を巡らせる。
まずカオリが仕事を辞め地元に帰ること。これは絶対にダメだ。一生懸命頑張って就職した会社、大好きな仕事を辞めることは別の苦しみを生むだろう。何よりも罪のないカオリがどうして仕事を辞めなきゃいけないのか。
次に引っ越しをして違う駅から通勤すること。これならエリと同じ駅でもいいのだ。そうすれば一緒に通勤もできるし変な奴がいたら捕まえることができる。仕事を辞めることよりはずっといい案だ。
だが、被害者であるカオリが対応しなきゃいけないということが腑に落ちない。
ベストは今の環境のままカオリが安心して電車に乗れるようにすることだ。
そう考えてすぐにエリは今朝のぞっとするような満員電車を思い出す。
無理やり押し込まれて一つの塊のように凝縮された人間たち。確かにあんな状態では安心もクソもない。痴漢も冤罪もいくらでも発生しうる危険な空間だ。座れれば別だがやはり引っ越し案が一番現実的なのかもしれない。
座れれば別だが・・・座れれば・・・
エリは雷に打たれたかのような衝撃を覚え、ぱっと上体を起こす。
前提条件を間違えていた。朝の地獄のような満員電車。立っていることさえ困難な環境であるため座ることなんて選択肢にすら入れていなかった。でも違う。座っている人たちは現にいるのだ。なにも前人未到の不可能なことに挑戦するわけではない。エリと同じ駅から乗って毎日座っている人だっている。
武蔵座太郎。
そして彼が金曜日に言った言葉。
『座る方法はある』
アイツだ。
エリは立ち上がりベッドに投げたスマホを拾う。
武蔵座太郎なら知っているんだ、座る方法を。
文字だけの、必要最低限の文章をカオリに送る。
座太郎が苦手だなんだと言っている場合じゃない。
【うん、分かった】必要最低限の返事がカオリからすぐに届いた。
だってアイツはスワリストなんだから。